今西先生の山 (19) 


ここに一冊の本がある。 「日本山岳研究」 1969年(昭和44年)著者今西錦司、中央公論社発行の本である。
まず自序があり、目次は、 雪崩の見方…「雪崩の見方に就いて」1931 山岳第26年、 風成雪とその雪崩…「風成雪とその雪崩に関する考察」1933 山岳第28年 、 劔沢の万年雪…「劔沢の万年雪に就いて」1929 地球第11巻 、 日本アルプスの雪線…「日本アルプスの雪線に就いて」1933 山岳第28年 、 野本アルプスの森林限界線…日本アルプスの森林限界線について」1935 山岳第30年、日本アルプスの垂直分布帯…「垂直分布帯の別ち方について」1937 山岳第32年 、 渓流のヒラタカゲロウ…未発表 、イワナとヤマメ… 「いわなとやまめ」1951 林業解説シリーズ第35 、 イワナ属…「今西錦司博士還暦記念論文集 自然ー生態学的研究」1967、 四十年の回顧…未発表、 いじょう自序をいれて11点の収録である。
この中の6篇は今西先生30代前半に書かれたものである。まさに山岳研究である。ここで思いあたるのは先生は自らの論は必ず一冊の本として出版し完成させている。いかなる時代背景があろうとも、である。 本書の6篇もそれにあたる。本書の出版から35年前に書かれた作品を「日本山岳研究」として仕上げた。これも今西美学の一つなのだろうか。
巻頭の自序にその当時のことが語られている。おおまかなところ次ののような論旨である。
「そのころの私は、あまりにも山に傾倒していたから、趣味などということでは、どうしても萬足しきれないものがあった。私にとっては、山に登り、山岳を研究することそれ自体が、自分の仕事であってほしかったのである。」 
だからと言って、「けれども私にはそのように、学問を手段にしようという気持ちもなかった。」 
ただ、「小学生時代からの昆虫採集などをとおして、次第にその魅力にとらわれていった自然というものがあり、山は、この自然の一つのまとまりを現した姿であり、自然の一つの代表である、といった受けとめ方のあったことを、否定するわけにゆかない。」 
そして、「山岳を研究するといっても、これをなんらかの専門的な学問の立場から研究するというのでは、私の考えるような、まとまった自然そのものとしての山を、研究することにはならない。山にすんでいる人たちは、専門的な知識などなにも持ち合わせていないかもしれないが、それでもわれわれにくらべると、山に関する種々雑多なことを、じつによく知っている。そして、言葉にして表現する術こそ知らないが、この人たちはそれなりに、「山とはなんであるか」ということも、心得ているかにみえる。私が早くから心をひかれていたのは、むしろ、こうした人たちがもっている個別的な知識の系統化であり、同時にまたそれの総合化であったかもしれない。」 
そしていう、「私の意図した「山岳学」は、だから、そのトピックが、雪崩であろうと植物帯あろうと、あるいはカゲロウの幼虫であろうとイワナであろうと、つねにその背後に、「山とはなんであるのか」、もうすこし丁寧にいえば、「山とはわれわれによって、どのようなものとして認められるべきであるか」、といった、共通した主題がひそんでいなくてはならないのである。」、とある。
当時かんがえた山岳学のゆくえは、「こうした山岳学の建設をめざして、私のえらんだ道は、もとよりこの目的のために考えうる、数多くの道のなかの一つであるのにすぎないであろう。しかし、わたしは私なりに、道順をたてて、仕事をすすめていたのである。それゆえ、戦争のために方向転換を余儀なくされていなかったとしたら、カゲロウの仕事家ら、イワナ・アマゴの仕事にうつり、そこでひと夏を黒部川ですごすような釣師の生活とも触れ、つぎにはシカやクマを追う猟師の仲間にはいる予定であった。それから私も彼らとともに、彼らの妻子がすむむらにくだって、彼らをとりまく山村の生活を調べおわったころには、私も相当年とるが、私の山岳研究もそのころには一冊の本として、ようやくその体裁をととのえるに至るだろう、と考えていたのである。」、とある。 
先生の山岳学にたいするおもいである。「しかるに、事、志とちがって、・・・」 と先生の山岳学研究御変遷が読みとれる。

今西先生より黒部源流域の越中沢岳(2591、Ⅱ)へ登るという便りがきた。1982年8月、先生80歳のときである。黒部湖を湖上でゆき桟橋でおりた。そこには細く、長めの急な階段がある。これを上がって山道にでる。船を桟橋につなぎながら、小屋の主人がジッと登る先生を見ていた。「あの年よりはたいしたもんだ。一度も止まらずにあがって行った。」と一言いった。山の人は山人の目線で登山者をはかる。平の小屋で泊まり、五色で一泊、越中沢岳に登り、平の小屋までもどる。ここでもう一泊、その夜、夕食後小屋のご主人がお酒をもってこられる。ご両人は初対面である。昨夜小屋に泊まった人が、宿帳を見て 主人に教えてくれたらしい。人見知りの強い先生だが、お酒もはいったこともあろうが、それよりもむかしなつかしい芦峅寺から始まって、両人ともに故人の山の話に、時の経つのがわからなかった。きっと先生も昔が思いかえされたのだろう。 翌朝、小屋の息子さんたちが捕まえてきたという、黒部のみごとなイワナをお土産に沢山いただいた。

2018/08/24

今西先生の山 (18)


 大学入学時の学部決定には、山の初登頂が優先された。1928年(昭3)3月、京都帝国大学農学部農林生物学科卒。大学院にすすむ、5月には初心の理学部へうつる。この1928年より学位を受ける1938年(昭13)までの10年余りの先生の軌跡は概ね次のごとくである・
まず一つは、大学卒業論文にあてた水棲昆虫のカゲロウの個体の同定が定かでなく一念発起してカゲロウの分類からはじまる。先生の命名したカゲロウが25種ぐらいあるそうだ。
そして二つ目は、山である。このかんの10年には110山に登っている。山域は中部山岳と京都周辺が多い。 ・・・「山とはなんであるのか」、もうすこし丁寧にいえば、「山とはわれわれによって、どのようなものとして認められるべきであるか」・・・という、先生の思索がはじまっている。
三つ目は、ヒマラヤと海外遠征である。二度のヒマラヤ遠征計画は戦局によっていずれも頓挫した。高さから広さへ、新天地も対象となる。
次回はこのへんから始めよう。

2017/06/29

今西先生の山 (17)  

先生のもっとも油の乗りきった登山の時代に、精鋭的な山登りのなかに、こんなことが語られている山登りがあった。
「奥美濃」①1975年に発行された本である。その序には、「・・・京都北山は、私の揺籃の山である。そしてここを卒業したものが奥美濃へゆくという。私はかならずしも、この道程を辿ったわけではないが奥美濃にはまた奥美濃のよさがあり、北山同様、愛着は経ちがたい。 というのは、いずれも登山のための人工があまり加えられていないということである。したがってもし、こういう山に登ろうとするときには、たとえ標高が低くても、眼も耳も鼻もとぎすまされたように鋭敏でなくてはならない。そうすることによって山が語りかけてくる言葉を識ることができるたのしみ―――それが北山にも奥美濃にもあるということである。・・・」とある。
そして、特別寄稿として「五〇年前の奥美濃」には、「正確にいうと四八年前の1927年のことである。・・・私たちは、能郷から能郷白山に登って、温見へ越し、温見から作六ツシ、狂小屋をとおって、塚へはいり、塚から冠山に登って、田代へ越え、板垣峠を経て栗田辺へ出ているのである。なに分にもまだ学生時代で、何日学校をさぼってもよかったから、一回の山行でもこのように広く山をわたり歩いて、ちがった流域に属する最奥の村を、つぎつぎに訪ねるといったような計画をたてることができたのである。・・・」、
7日間の山行のそのなかには、なぜこうして最奥の山村を訪ね歩くというのは、その頃、柳田民俗学に興味をおぼえはじめていたからだとか、奥美濃には、京都北山にも日本アルプスにもないよさのあることを知って、われわれは大満悦で帰路にについた、と書付があった。

しかし、この年(1927年)の前後の山、私事ではいろいろな出来事が起きた。スキーと山に明け暮れた三高時代、卒業年度の山行きが今西先生は82日でトップだったという逸話を残し1925年大学に入学。このあたりの主だった出来事を「増補版今西錦司全集別巻」の年譜から拾ってみた。
1925年2月、父平三郎他界家督相続。三高山岳部報告3号に「新雪の甲斐 駒ヶ岳」「鈴鹿略図」等寄稿。 7月、農学部進学の決め手となった、劔岳源治郎尾根の初登頂を渡辺漸とはたす。
1926年1月、滋賀横山岳スキー登山。下山中雪崩に遭遇、一人埋るが無事。3月、三高京大パーティー黒部東沢をベースにして周りの山にスキー初登攀をする。7月、前穂、奥又初登攀。涸沢への帰路、クレパスに落ちる。三高 ・京大初の犠牲者を出す。今西先生も重傷を負う。
1927年1月、三高山岳部部報5号に「芦生峠附近」寄稿。8月、劔岳三の窓チンネ北壁を高橋健二・西堀栄三郎・今西錦司で初登攀。真砂沢・三の窓で長い合宿の後、黒部川を源までつめ、黒部五郎・三俣蓮華・双六・南岳から上高地へ。そして蒲田川から笠・金木戸川にぬける。水棲昆虫を採集。10月、鋸岳登頂。これを1928年「鋸岳ピークの名称と信州側登路について」三高山岳部報告6号に寄稿。
1928年3月、農学部農林生物学科卒業。院に進む(5月農学部から理学部へ移る)。7月、後立山連峰朝日岳に、森林限界の調査。10月、劔沢で万年雪確認。11月、御大典で入洛中の秩父宮殿下に旅行部の山岳関係図書をご覧にいれる。日本で有数の蔵書だった。妙高高原笹ヶ峰に京大ヒュッテが完成。 12月、鹿子木孟郎(洋画家)の長女園子と結婚する。
1929年2月、陸軍幹部候補生として、工兵隊に入隊。11月末除隊、予備役編入。最初の学術論文「劔沢の万年雪に就いて」理学部地質学教室が編集していた「地球」に発表。

①「奥美濃」1975年2月15日発行 同人/山葵会


2015/11/16

今西先生の山 (16)


 1928年3月大学院へ、5月から理学部へ。1928年4月から1938年12月学位を取るまでの山の数116座。純粋な山登りから、フィールド・ワークとしての山、ヒマラヤへの道、と力の入っていた山になってくる。

 その前に、今西先生の生涯国内の山登頂数1552山、これを世間的に言う少年期、青年期、壮年期、老年期にわけ、その期の山の数をみてみようと思う。
 先ず少年期、1914年(大3)3月までの事、12歳まで。この頃まだ昆虫少年だった。未知の領域への関心が深まる。 
登頂数ゼロ。
 青年期、1915年(大3)4月から、1928年(昭3)3月より大学卒業まで。13歳から26歳まで、いよいよ山登りが始まる。 
登頂数159山
 壮年期、1928年4月大学院農学部から理学部へ、から1965年3月京大定年退官まで。
登頂数251山。
 老年期、1965年4月から1987年12月20日まで。
登頂数1142山を数える。
 これで生涯登頂数が1552山となる。

 これを「私における登山の変遷」今西錦司、(1976年日本山岳会刊山岳第70年129号)①、で解説していただこう。 
 今西先生は、ここで時代の社会的背景をもって、わが国の登山史の時代区分の線をひいている。
 それから、私における登山の変遷、に入ってゆく。

 先生は青年期時代に、前近代的登山時代の登山を始めた。でも、そのころでも山登りには、それなりの仕来りがあったようで、足には平素はかない草鞋と脚絆、弁当は梅干しの入った焼いてあった大きな三角握り飯、間食は氷砂糖、家を出る時には火打石をうった。私の登山は土着文化のなかから生まれてきたものであった、とある。

 そのころは、夏休みに日本アルプスにゆく以外は、もっぱら京都北山を歩いていたそうだが、これが案外にてごわく、そとうに歩く時間のかかる山あるきだったと言う。
 そして、はじめは軽薄だと応じなかったスキーも、大島亮吉がスキーで白馬岳へ、という記事を読んで釈然と悟った。三高に入り関の合宿で明治の連中と親しくなり、彼らからの耳学問で、近代登山とはどんなものなのかを知るとともに、さっそくにピッケル・アイゼン・ザイル等を買い求めたり、山やスキーの本を注文した。
 こうして、草鞋・脚絆の前時代的登山者が、あっという間にスキーの世話になる積雪期登山者に、トリコニー鋲の登山靴のロッククライマーに早変わりしたのだ、そして服装もしかりだった。

 壮年期はながい区分だ、これを戦前・戦後((もちろん第2次大戦)に分けてみよう。
 1928年4月、大学院に。詳しくは次回から入ろうと思うのだが、
ここは「私における登山の変遷」にしたがうと、1936年の白頭山冬季遠征は、探検的要素を多分にふくんでいた。
 山そのものの大きさももとよりだが、多量の荷物の梱包・発送・運搬、現地人を大勢雇ったことなどをさしている。
 先にのべた時代区分だと、近代登山時代は戦争の終わりまでだが、私にとってはこの白頭山遠征が、私の近代的登山時代の終わりとなるのである。私どもは時代に先駆けて、ヒマラヤ遠征を企てたが、なかなか実現ならなかったのに業を煮やし、その翌年は蒙古に行き、それからも満洲や蒙古で、探検あるいは探検じみた仕事を追い求めることになからである。

 戦後のネパール・ヒマラヤも、はじめ考えていたのは学術探検だった。しかしネパール政府のアドバイスもあって、西堀はマナスル登山に絞って帰ってきた。
 私の参加した1952年というのはマナスル登路偵察が主目的であったので、わたしの気持ちにはむしろ探検的であったといえないことはない。そのあとの1955年、京大カラコラム・シンズークシ探検隊のカラコラム支隊では、これはあきらかに学術探検隊を名乗り国費の補助をもらって海外へ出た最初の隊である。登山とは、一応関係がないといえばいえるのであるが、ヒスパーパスを越え、バルトロ氷河をコンコルディアまで行ったということが、その後の登山隊に、なんら貢献をしていないともかぎらない。

 マナスルやカラコラムでのびのびになってしまっていたアフリカの類人猿調査が、1958年から始まり1961年それが本格化した。ヒマラヤや大興安嶺ではもちろん足で歩いたのだが、蒙古では自動車の便がえられないので、馬車や牛車の世話になりウマやラクダに乗って旅を重ねた。そのころすでに、アンドリュースやヘディンが、大がかりな自動車隊で、内陸アジアを探検していたのである。借りものではなくて、探検のために使う自分の自動車をもちたい、というその頃からの夢が、内陸アジアでなく東アフリカにおいて、実現することになったのだ。
 
 はじめて自分の自動車を持ち、その中にキャンプ用具一式、食料および水を積み込んで、自分の計画通りに走り、日が暮れれば泊まって、翌日もまた走りつづけることが、予期したとおり大変気に入ってしまった。その頃たまたま国内においても、自家用車ブームのはじまろうとしていたときだったから、よし帰ったらおれも、自動車の運転を習おうか、とおもったほどだったが、それは思い止まるところにした。
 機械をあつかうのが至って不得意である、ということもあったであろうが、それよりも助手席にいて、しょっちゅう地図をみながら、走っている車の現在位置を確認する、という仕事を引き受ける方が良いと思ったからである。それは正しくリーダーに課せられた仕事である。
あるいは計画立案者に課せられた仕事である。予定のコースをことなく終わったとき、彼の地図上に鉛筆で引いてあった予定線が、赤いマジックで上塗られることであろう。・・・と、私における登山の変遷で解説しておられる。
 先生の老年期の山登りは、まさにこの登山と探検混合スタイルのメソッドによって行われたのである。




①くわしくお読みになりたい方には、
  その後、「自然と進化」今西錦司1978年筑摩書房刊に収録。
  増補版「今西錦司全集」第11巻 講談社に。
 














2015/09/13

今西先生の山 (15)


 ここに大串龍一氏の著書がある。「日本の生態学 ―今西錦司とその周辺― 」 だ。筆者は京都大学理学部動物学科の出身である。この本は1992年9月東海大学出版会刊となっており、1992年といえば今西先生が6月に亡くなられた年である。
 この本は1992年に出版されてはいるが、1985年に「金沢大学教育解放センター紀要、今西学派の系譜・いわゆる今西学説の発展をめぐるー考察」として掲載されている。そして1987年には「今西進化論の位置づけ 今西学派の系譜3」とある。3があるのだから2もあったのだろうか。これがこの本の原型になっていると、あとがきに書かれている。1985年の紀要は、今西先生もまだまだお元気なころであったので、誰ぞがこの紀要を先生にお目にかけたかも知れない。日本の生態学 ―今西錦司とその周辺― 、これはまさに今西錦司とその周辺である。ここでは二つ三つ思たことを書いておく。

 一つは今西先生は大学卒業後理学部の動物教室でながく無給講師を務めていたことだろう。人文科学研究所教授になったのは1959年、57歳の時であった。このへんの時代を梅棹忠夫氏が書いている。
 「・・・生物学者としては、今西はながく不遇であったといわなければならないだろう。かれはずっと無給講師であった。わたしたち幾人もの青年たちがかれを師とあおいであつまっていたのだが、本来ならば、かれには公式には学生を指導する権利も義務もなかったのである。かれはこのような立場を『一私講師』と称していた。
 ・・・けっきょくかれは、動物学教室においては最後まで一私講師であった。講義もなかった。一ど短期間の講義がおこなわれただけである。
 ・・・今西は自由人であった。なにごとかにしばられることをもっともきらった。自分やりたいことを、自分のやりかたでやりとげるのである。自分の自由が束縛されるような道を慎重にさけていたのである。
 京大理学部の動物学教室で万年講師であったのも、一つにはそのせいかもしれない。教授としてのさまざまな義務と雑事にしばられることは、かれのこのむところではなかった。かれは一私講師の地位に甘んじていたというよりは、その立場をたのしんでいたところがある。
 しかし動物学教室においては、かれはたしかに不遇であった。そこでは、かれの理解者があまりにもすくなかったのである。かれは渓流性のカゲロウの幼虫で学位をえた。その論文は十数編におよぶのだが、大部分はカゲロウの幼虫の分類学的記載である。最後にでたのが、のちの『すみわけ理論』の基礎となった理論的な論文である(注略)。これこそはかれの真骨頂なのだが、これを評価する人はなく、学位審査の際には、この論文ははずされていたという。自然科学者たちはこのような理論的考察をこのまず、理解もしなかったのである。
 今西とその周辺の自然科学者とのあいだには、かなりの知的な断絶があった。些末な現象に対する職人的な関心をこえて、自然について、あるいは世界について思索をめぐらすようなひとは、まわりにはほとんどいなかった。それは今西にとって不幸なことであった。
 ・・・このように今西が京都大学教授となったのは、定年もちかづいてのことであるが、それにもかかわらず、京都内部における今西の組織者としての活動ぶりにはおどろくべきものがあった。
 1931年には京都大学学士山学会を組織している。この団体はのちに社会法人となり、多数の名登山家を世におくりだして登山界の名門となった。1939年には京都探検地理学会を組織して、多くの探検を世におくりだすと同時に、若い探検家たちの育成指導を行った。1951年には生物誌研究会を組織して、マナスル登山をはじめ、カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊など、多数の遠征隊をおくりだした。
 これらの組織はすべて海外へ登山隊や学術探検隊をおくりだすために今西がつくりだした装置である。しかも、かれは組織を創設しても、けっしてその長にはなろうとはしなかった。たとえば京都大学学士山学会は農学部の木原均教授が長く会長をつとめていた。今西がその会長となるのは、ずっとのちのことである。生物研究会はやはり農学部の並河功教授が会長であった。いずれの場合も創設者は今西であることにかわりはなく、実質的な運営と戦略指導は、つねに今西の手ににぎられていたのである。」①
 と今西錦司が書かれている。
 
 そして二つめは、今西錦司全集第八巻「日本山岳研究」の解題を吉良竜夫氏が書いておられる。そこに
 「・・・学術論文は、いかにかわいたスタイルで書かれていても、研究者のすべてがそこにつぎこまれている点では、芸術家の場合と変わりのない『作品』だと私はおもう。したがって、論文の組みたてや、さりげない客観的描写のはしばしににじみでたものが、学問的主題の伴奏としてつよい感銘をのこす。これまで私の学問的感動をそそった論文のいくつかを思いかえしてみると、この種の、科学者としての青春時代にうみだされた作品が、髙いわりあいをしめていることに気づく。そのなかでも、私にとってとくに重要であったのが、この巻におさめられた日本アルプスの雪線・森林限界・垂直分布について三部作なのである。
 今西さんの学術論文にとくに作品的性格がつよいことは、異論のないところだろう。分類学の論文は、科学論文のなかでもなかんずく無味乾燥なスタイルで書かれ、第三者にはよむにたえない機械的な記載がえねんとつづくのが原則だが、それでさえ今西さんの手にかかると、調子が変わる。『満州内蒙古並びに朝鮮の浮遊類(1940)』という分類の論文は、
 『・・・・そしてここで注意しておきたいのは、以上に述べたような Ephemera 属の幼虫相互間の識別点は、これが成虫の識別にも適用されるといふことであり、寧ろ成虫の識別点となるべき斑紋が、幼虫に於いても亦認められる結果、両者が共通の識別点を有するに至ったものといふべきであって、この点で成虫幼虫を通じて本属の分類は一元性の上に立脚してゐるものである。』
 というような調子でかかれていて、私たちの語りぐさになった、
 科学論文とは無味乾燥なるものだと思っていた若いころの私たちには、今西流の強烈な自己表現と柔軟でねばりづよい理論展開とは、ひじょうに魅力的だった。しかし固定観念のつよい大学の先生たちには、さぞかし評判のわるかったことだろう。いまの私だって、若い人たちがこういう調子で論文をかくことに、無条件でさんせいはできない。論文が提示する客観的事実とその認識のしかたとに抜群の新しさがあり、緊密な理論構成がそれにともなっているのでなければ、強い自己表現との間にバランスのとれたレベルの高い作品にはなりえないからである。私をふくめて大多数の平凡な自然科学者は、今西さんのまねはしないほうが無難なようだ。・・・」
とあるのだ。
 「生物社会の論理」の初版が売れなかったということは、こんなこともあったのだろうか。

 三つめはやはり、棲みわけ、ということになるのだろう。棲みわけ今西説、可児説である。もちろんこれは、資料によってしか知る由はないことだが。道半ばで戦死した可児本人の口からでたことではないだろう・・・。
 なぜならば、1944年の可児の「渓流棲昆虫の生態」には棲み分けという言葉は出ている。1941年今西の「生物の世界」第4章には、やはり棲みわけはすでに出ている。しかるに可児はこの4章社会についてを「渓流棲昆虫の生態」で激賞している。可児亡き後、
 大串氏の著書では実名が出ているので、「これは今西と可児の思想的背景あるいはあるいは姿勢の違いを重視する人たちによってかなり強く主張されたものである。」②
 いま少しこの辺のことは、今西先生は1933年頃は湯浅八郎、川村多実二講座をわたる。「ここで岩田久二雄、可児藤吉、森下正明、渋谷寿夫、今西を含む5人が今西グル-プを形成した。今西学説の棲みわけはこのグループの討論の中から生まれた。」という見方もある。
 ただもう一つ見のがせないことがある。岩田久二雄が書いている。
「当時(1930年頃か)の今西さんとの交友の最大の喜びは、出来たばかりの下鴨の家での会合であった。いまにして思えば新婚早々のその子夫人には何とおわびしてよいか申訳ないことであった。集まるものは殆ど湯浅八郎先生のいわゆる『ならず者』ばかりであった。可児藤吉・梅棹忠夫・川喜田二郎の諸君である。勝手に風呂に入って徳利と杯だけのった食堂につき、ゆっくりと今西式に運ばれて来る粗末な馳走で、長々と飲み、学問の話はたちまち枠をはずして地球上の話にまで拡がり、いつしか酩酊し歌になってねてしまう。夜が明けると私はまた孤独の自然観察に野山の放浪にかえる。たしかに私の青春時代で人間的な交流の最高の喜びを与えたのは今西さんであった。」③ いわゆる今西塾である。

 私の尊敬する知人が、こういうお話をしてくれた。
「・・・とはいえ、わたしにとってきわめて幸運だったのは今西先生のお宅の近くに育っ たものですから、そういうご近所のよしみで時々山に誘っていただいたことがあ りました。大学の二年生(京大は二回生といいますが)のとき、紀州の山に誘われ ました。奈良県五條市の御勢久右衛門さんが水生昆虫の研究をしているというので、今西先生が現地指導においでになったらしいのです。らしいのですというい い加減な言い方をして恐縮ですが、自分の関心の埒外のことだったので、いい加 減な聞き方しかしなかったのです。 しかし、大先生の現地指導ですから、お話はなかなか面白く、カゲロウの幼虫を ほんのすこし齧ったつもりになっていました。
・・・ わたしは大学での研究会とか、ゼミとかいう形で接したのは四手井綱英先生のと ころであったのですが、今西先生の研究会の雰囲気は梅棹さんや川喜田さんを探検部の仲間と尋ねた時に味わったと思っています。
 とくに梅棹さんは自宅で梅棹 サロンを開いていて、学部、学科は関係ない。大学も関係ない。来たい者は来い、 という集まりをしていました。
・・・ この集まりの雰囲気は知的好奇心に燃えるもののもつ独特のものがありました。 切磋琢磨がありましたが、競争というものがまるでない。みんなで共有している ものをなんとか膨らましていこう。自分が面白いと思う方向に伸ばしていこう、 という感じでした。
 おそらく、今西さんと可児さんを含む集まりも、そのような雰囲気に包まれてい たのではないかと思います。
 すみわけはどちらが見つけたのかとか、誰が早かっ たのかなどということにはまったく関心がなかったのではないかと思います。・・・ 」

 さきほどの日本の生態学のなかに、可児の評価をめぐって、という項がある。
 「・・・可児藤吉は内田よりずっと今西に接近しており、今西スクールの中では森下と並ぶ位置にある。その残した業績は、まとまったものとしては第二次大戦中に研究社によって出版された『日本動物誌』のシリーズの第4集昆虫の上巻に載せられた有名な『渓流棲昆虫の生態』だけであるが、それは彼の生態学研究者としての能力を示すものであった。それは河川の基本構造を瀬と淵の組み合わせから説明した河川環境論によっても示される。ただし可児の仕事は未完成で、その論文には大きな研究を進めているものにしばしばみられるように、意余って言葉足らずというところがった。彼が早世したためにその思考をめぐってさまざまな解釈がうまれ、亡き後にいろいろな波紋をよんだ。」 棲みわけをめぐって、
 「・・・可児説を推したグループ徳田・渋谷らは、今西の神格化に対抗して可児を神格化して独自の生態学を建てようとした面がある。この動きは戦後間もない頃の日本の社会主義的潮流の一部を代表としている。徳田らは可児が若い頃にマルクス主義に接近したことを強調して可児の学問の『ただしさ』の証明とし、可児を日本の生態学の元祖のように主張した。しかし残された論文について冷静に考えると、可児のめざした方向は、おそらく徳田や渋谷の主張するところとは違ったもののように思われる。・・・」④と、ある。
 
 今西錦司と可児藤吉については、金子之史の「ネズミの分類学」2006刊、に「1.4 今西錦司と可児藤吉―生物社会の論理vs渓流棲昆虫の生態、自然認識と縮尺論」等、詳しく述べている。⑤

 今西先生と徳田御稔の関係は、「1936年動物教室へ配置一転換になり徳田さんの研究室と一部屋於いて隣同士になった。そしてわれわれ二人は仲よく京都探検地理学会⑥の世話をしていたが、
徳田さんの部屋へゆくと紅茶がでる、ということも一つの魅力だったのかもしれない。たまたま可児藤吉君も農学部から理学部へ移ってきていたので、徳田さんの部屋で顔を合わせる機会が多かった。そんなとき、われわれはお互いにいろいろな話をした。私は徳田さんから進化論について教わることが多かった。なんといっても、進化論の研究では、徳田さんの方が先輩であったから。徳田さんはまた私や可児君の方から生態学や社会学についての知識を吸収した。もちろんお互いにさかんに論議しながらである。それは今日でいうなら、一種の共同研究のばであったかもしれない。・・・」とある。
 そして、「戦争が苛烈になって、われわれは北へ南へとちじりになり、やがて可児君はサイパンで戦死する。われわれの蜜月時代はわずかのあいだしか続かなかったのである。戦後になって、徳田さんと私は些細なことから疎遠になり、やがて私は理学部を去って人文科学研究所に籍をうつしたまま、とうとう亡くなられるまでお眼にかからずじまいであった。・・・」
 些細なこと、とは何であったのだろうか。

 戦後、徳田さんは一方的に可児擁護説やら、発表物には今西のメンションはなさらないとの、意思表示を今西さんにおこなったが、今西は受けてはいない。
 1977年、講談社学術文庫「生物進化論」徳田御稔、本書を講談社学術文庫に推薦し、あわせてながい解説文を寄稿されている。
 その解説の最後に「・・・読者よ、願わくば熟読玩味せられよ。私が本書をあえて講談社学術文庫に推薦し、あわせてその解説をもお引き受けしたゆえんはここにあるとともに、そうすることはまた、徳田さんに対してはいつかはしなければならなかった私の友情のあかしとして、お受けとめていただけるならさいわいである。」
で、ながい解説は終わっている。本書を是非一読を。

 今西先生という人は人間性の大きな方だったと思う、そしてその振幅も大きな幅をもっておられたと皆がいう。その振幅のいろいろな極にふれられた方は驚かれるであろうが、その全体をきわめると、それが今西先生の今西錦司たる所以であろうことになっとくする。。

カゲロウがながくなってしまった。たぶんそれほどに先生の中でのカゲロウは大きな時代を背負ったからだろう。
 さて、ここでまた山に戻ろう。




①梅棹忠夫(1920―2010) 中央公論8月号、「ひとつの時代のおわり」1992年。今西先生ご逝去の翌日、原稿の依頼を受け、2日間の口述筆記でしあげられた原稿という。内容は11の項目で語られている。

②徳田御稔(1906―1975)・渋谷壽夫等のグループ。マルクス主義を背景にルイセンコ説を主導した。

③岩田久仁雄「今西さんとのつきあい」今西錦司全集第9巻月報9号1975年講談社。

④大串龍一「日本の生態学―今西錦司とその周辺―」1992年、東海大学出版会、より。…この動きは戦後間もない頃の日本の社会主義的潮流の一部を代表としている。…とあるが、確かにこの動きは学問の世界ばかりでなく芸術分野でも起こっていたのでは。

⑤金子之史「ネズミの分類学 -生物地理学の視点」2006年 東京大学出版会、より。

⑥京都探検地理学会、1938年12月楽友会館で発起人会が開かれ今西は幹事に就任。会長・羽田務京大総長、呼びかけ人は今西錦司、徳田御稔と中心になり会の結成に尽力する。1939年1月第1回例会が拓かれ、1943年11月第21回が最後となる。
 この京都探検地理学会について、「交友のころ」1976年、再録
今西錦司「自然と進化」1978年 筑摩書房。
 「・・・この会の由来を、ここで簡単にのべておくことにする。1938年12月2日に、日本生物地理学会の十周年記念講演会が東京で開かれ、私もそこで『内蒙古旅行談』という話をしたが、講演会のあとでは盛大な晩餐会が催された。『たまたまこの会に京都から徳田御稔君が出ておられた。そしてわれわれ二人とも東京における学術探検熱の頗る旺盛なることを知って、これはどうしても京都にも京大を中心として、学術探検の母体になるような会を興す必要があると感じた。帰学後早速同志とはかり、諸教授の賛同を得て、12月26日に最初の打ち合わせ会を開いた。出席者17名であった。』(略)」これで徳田さんと私が、なぜ京都探検地理学会の運営に、協力しなければならなかったが、ようやくはっきりしてくる。
 この京都探検地理学会というのは、当時の京大総長羽田亨先生を会長にいただき、賛助員として文・理・農・医の4学部の有力教授(名誉教授をふくむ)21名をおねがいし、第一年度会員数59名という、まことに全学的な、専門の枠をこえたユニークな会として発足している。この原稿を書こうと思ってさがしてみたところ、年報第4輯まで見つかった。第4 の巻末の会員名簿みると、会員数は115名にたっしている。・・・」 とあるのだった。
 このへんあたりで鹿野忠雄とつながりができたのかな・・・。





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2015/08/28

今西先生の山 (14)


 さっそく「再販へのあとがき」①を・・・・、昆虫と山の少年が「生物社会の論理」への変遷を抜粋していってみよう。かつて岩田久二雄が「初めに会ったときには私は今西さんを登山家と思っていたが、西陣の古い屋敷にいって、その膨大な昆虫標本が、全目にわたって克明に自ら採集されているのに驚いた。」 と言わしめた。 その昆虫と山の少年が、
 「高等学校がおわって、大学にすすんだ。農学部の昆虫へ入ったのであ。るそこまではよいが、ここで転機がきた。その頃までの学界の傾向として、昆虫をやるといえば、それは分類をやることであり、それがある程度までできるようになったら、こんどはその地理的分布を論ずることである、とわたくしは思っていた。だからわたくしも、うまくゆけばウオレース線やブラキストン線のような、分布境界線を発見したい、と思っていたかもしれない。」 
このことが、 
 「しかるに大学にはいって、わたしははじめて生態学なる新興の学問があることを、知るようになった。そして、生態学こそわたくしのやるべき学問だ、と考えるに至った。なんとなれば、いままで山登り、昆虫採集は昆虫採集で、なんの結びつきもなかったものが、生態学を媒介とすることにより、それが一つになる。山は単なる研究室の役目をはたすにとどまらないで、これからは山そのもの、自然そのものが、研究の対象となってくるからである。」 
 と、ここまで来た。当時は山岳学さえ意図していた。
長くはなるが先生の語る文章は、その時を彷彿とさせてくれる。
 「そのうえ、アメリカの生態学者たちの唱える遷移学説は、わたくしに新しい自然の見方を教えてくれるものであったから、わたしはわけなくその追随者となった。しかし、じっさいに仕事をしようという段になって、はたと困った。アメリカの自然と日本の自然とは、あまりにもちがいすぎていたのだ。日本の自然スケールが小さくて、やたらにこせこせしてるうえに、たえず人工が加わることによって、それが一層複雑化され、あるいはエラボレートされているため、大陸の悠々せまらぬ、大味な自然に当てはめてあみだされた学説を、いきなり適用しようとしてみたところで、駆けだしでは動きがとれないことを知ったのである。それで、比較的人工のすくない、水の中がよいと考え、渓流にすむ生物の生態をやることになった。渓流の生物であれば、また山とも縁がふかいであろう。
 はじめは生態学の方法にしたがって、共同体というので、ある場所に見いだされる生物を全部採集していたのである。その大部分は昆虫の幼虫であるが、採集してきて、分類の専門家に鑑定をたのんでも、当時はまだ種名の判定できぬものがすくなくなかった。なんという種類かさえわからずに、なにが共同体であろう。生態学は分類学が一応完成されたうえに、はじめて成立する学問であることを知らされた。それで、生態学をやろうときめたとき、一たんすて去った分類学ではあるけれども、もう一度自分で、分類学から出直すことにした。そして、そのためにえらんだのが、カゲロウである。」 
 こうしてカゲロウが誕生する。ここまでにいたるには湯浅八郎、本田静六、川村多実二等の影響をうける。
 「分類学に二つはないが、そのころのわたくしは、分類学が目的で分類学をやっていたのではなくて、生態学のために分類学をやっていたのだから、考えようによっては、大きな犠牲をはらい、たいへんな廻り路をしていた、というようにもとれる。しかし、分類学をくぐっておいたことが、やがてわたくしの生態学を組みたてるための、強力な指針となって生きてくるのである。それについては、あとでのべる。
 一方で、わたくしの山に対する情熱は、山岳生態学に対する第一歩として、日本アルプスの垂直分布帯を、その研究テーマにとりあげさした。その関係から、クレメンツ信者であったにもかかわらず、わたくしはメリアム一派の生物分布帯派に、仕事のうえではより近づいたともいえる。すなわち、すてたはずの分類学へもどっていったのと同じように、分類学とともにすてたはずの生物地理学へ、いつの間にか足をつっこんでいたわけである。しかしこれも、わたくしのためには、たいへん役にたった。
 このようにして、わたくしは一方では、渓流にすむカゲロウの分類をやると同時に、その分布をしらべ、他方では日本アルプスの垂直分布帯を、いかに別つべきかに専念して、一般の生態学者が試みるような、共同体の分類や記載ということを、ちっとも本気になってやらなかった。そのうちにはからずも、カゲロウ幼虫の流速のちがいに応じた棲みわけから、種の社会および同位社会というアイディアに到着した。しかし、これを従来からの、共同体を対象とした生態学と、いかに関係づけるかという点で、苦心もし勉強もした結果、生活形というものをもってきて、ようやく統一をはかることに成功したのである。」 
 ・・・ 一般の生態学者が試みるような、共同体の分類や記載ということを、ちっとも本気になってやらなかった ・・・、 こんへんのことが、『採集日記 加茂川 第一冊 March 1935年』 その2ページにかけて知ることができるのではないか。
 「生態学者の中には、わたくしが生態学といわないで、わざわざ社会学ということに対して、あきたらなく思っている人があるらしいけれども、それはここのところの理解が足らないからである。いままで生態学のすすんできた道は、まず生物的自然としての、全体的な共同体を取り上げて、そこから出発することであった。しかるにわたくしはまずその共同体を構成する、究極的な単位としての種の社会を取り上げ、そこから出発した。共同体が一方の極なら、種の社会は他方の極である。そこに従来の生態学と社会学との拠りどころのちがいがあるとともに、種の社会を媒介した、社会学と分類学との結びつきが考えられてよい。わたくしが分類学をくぐったことが、役に立ったというゆえんである。
 さて、カゲロウ幼虫の分布からヒントを得た、同位社会というアイディアは、日本アルプスの垂直分布帯の別かち方にも、ただちに適用することができた。すなわちモミ属に見られる同位社会の棲みわけによって、日本アルプスの南半の山の垂直分布帯が、明確に区割りされるようになったのである。しかし、なおここに一つの問題がのこった。それは垂直分布帯として認められるような、同位社会の棲みわけと、流速に応じて並ぶ、カゲロウ幼虫の同位社会の棲みわけとを、どう結びつけるかということであったが、それはカゲロウ幼虫ににも垂直的な同位社会の棲みわけが見られることを介して、二つにして一つなりという同位社会の二系列的構造の主張となり、それがひいては極相論にまで展開する。
 しかしそのまえに、もう一段階必要であった。私は種の社会から出発して、全体社会としての共同体に至るまでを、一応社会構造論的に説明できるようになったのちに、日本アルプスをはなれて探検にうつり、そこではじめて日本とはタイプの異なった、いろいろな自然に接する機会をえた。そして、その自然の中には、大陸的という点では、クレメンツやシェルフォードが対象とした、アメリカの自然にほうふつたるものがあったから、そこで彼らの理論を検討することができたとともに、またわたくし自身の理論をも試すことになったので、いきおい両者の優劣が比較されることになった。その結果が本稿の第Ⅲ章・第Ⅳ章の内容であって、わたくしはもはや何としても、クレメンツやシェルフォードに従いきれず、ついに彼らの学説に対して反旗をひるがえすことになったのである。
 いまかえりみると、本稿を書いた当時は、相手の立場も考えないで、あまりにも切りこみに熱中しすぎたきらいが、ないでもない。あるいは、相手の立場をたてることが、自分の立場をたてることになるのだ、ということを忘れていたともいえる。それでここに一言しておきたい。
 そもそも古典的な生物地理学や、メリアムにはじまる生物分布帯は、生物の種類相しか論じなかったのに対し、新しい生態学が共同体をとらえて、地理区や分布帯のかわりに、極相共同体を前面に押しだした点は、確かに進歩であるけれども、両者はともに、大地域的な棲みわけのみを問題にして、小地域的な棲みわけを問題にしなかったか、あるいはこれを従属的なものに見てしまった。しかしそれは、彼らのとりあげた舞台がが、世界全体であるとか、あるいは北米全体であるとかいった大地域であったため、そこにピントを合わし、それを表現しようということになると、いきおい小縮尺的な表現をとらざるをえないことになって、小地域的な棲みわけはおのずから消去されてしまうのである。すなわちこれは縮尺の問題であった。
 しかるにわたくしは、渓流といったような、もともと小地域的・部分的なものを、舞台としてとりあげたため、小地域的な棲みわけの方に、さきにぶつかってしまった。そして、そこから出発したため、大地域主義とのあいだに、くいちがいを生じた。しかし垂直分布帯をやっていたお蔭で、大地域主義の立場もとりいれ、両者を調整することによって、大地域主義も小地域主義も両立できるようにした。
 これは学問の進歩である。生物地理学、生態学 ― これはもうすこし限定して、内容に忠実であるためには、共同体学といった方が良いかもしれなぬ ― 、それから社会学と、だんだん生物的自然の構造が、こまかいところまで掘りさげられ、しかも全体の構造を見失わないだけの、また相互の関係を見失わないだけの理論で一貫されながら、大きくも小さくも、任意の部分をえらび出して研究できるということは、これはたしかに学問の進歩である。
 そして、ここまでくるためには、分類学がすでに存在していたからこそ、社会学が成立したのである。わたくし個人の経歴からいっても、すでにのべたごとく、分類学・生物地理志・共同体学と一応遍歴したうえでようやく社会学までこぎつけたのであって、それはまるまる二十年の歳月①を要している。
 7年まえに出した本稿の初版には、各省のおわりに「あとがき」をつけておいたが、それは今日から見ると、アウト・オブ・デートになってしまったので、その部分をやめ、そのかわりにしようと思って書きだしたら、以上のような半自叙伝風のものになってしまった。本文も未完成で、とくに第Ⅲ章および第Ⅳ章のおわりにちかい二~三節は意に満たないところがあるのだけれども、いまはなおさないことにした。」 

 と、ここまでが「生物社会の論理」までの前半部分であり、後半はこれからの方向で、『再販へのあとがき』は終わっている。
 なぜ水棲昆虫だったのか、からはじまり机上の学問でなく実践の学問の姿勢の変遷がよく読みとれる。 
 なお思索社版③には、発表年代順に8編の論文を載せている。これらは「論理」への駒の一つ一つであり、執筆はすべて「論理」以前のものである。
 「今西錦司全集第四巻」 生物社会の論理 1974年 講談社、
に森下正明が解題で詳しく述べられている。


この項次回へつづく。


  

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2015/08/17

今西先生の山 (13)


 かなり古いこと、私たちの仲間がシェルドンの方法に興味を持った。これはアメリカ男性を材料にしてった方法だ。日本人に適用できるか実証が必要だと今西が言いだした。7人で真っ裸になり写真をとり、シェルドンの規定する17の計測部位をはかり評定を出した。… と桑原武夫が書いている。① 
 その結果、今西先生は気質評定として内臓緊張性・身体緊張性・脳緊張性すべてが4とでた(ちなみに桑原武夫は3・2・4であった)。 市井での今西先生は、情に篤い。リーダーとしての今西先生は秋霜烈日という言葉で例えられるよう 非情なのである。
 
 その次には、「・・・今西さんの特色はその風格にある。一見カーク・ダグラスが似ているという外観ではない。大きさというか、克明にして大局をつかむ鋭さを、研究の上では勿論のこと、社会観においてはずさないというところにある。十年も昔、私は一方的におしかけた門弟を、世話し利用されつづけたあと、あまりの厚顔さに破門した。それをつたえきいた今西さんは、『なんで破門したんや、おれならせんな』と一本釘をさされた。  その後またぞろ同じ人物に足を掬われかけて、今西さんの忠告を思い出した。今西さんは確かに私より人間社会を大きい目でみている。今西さんは社会での各人の行動の責任は社会全体の連帯すべきもので、とくに私的繋がりのある場合には、そうであるべきで、破門とか追放とかいうものは何の解決にもならぬと、いうのであろう。 ・・・」②と岩田久二雄氏が書いている。
 
 今西先生の人となりが少しづつ見えてくる。  自然の中の現象は、みても気が付かずにすんでしまうこともある。 それはたぶん自然現象ばかりではないだろうが。  
 その現象を理論にまで持ちあげた今西先生の『生物社会の論理』が1949年毎日新聞社から出版された。 その後絶版になっていたのを、1958年になり陸水社から再販されたが、間もなく同社のご主人が亡くなられ、再び絶版となった。
 それを1971年思索舎版として再出帆することになった。いままでとの違いは、「生物社会の論理」だけでなく論理の構成に至る八つの論文を年代順に配列したとと思索社版へのあとがきにある。  
 陸水社版の「再販へのあとがき」を読むと今西先生の昆虫と山の少年が「生物社会の論理」へたどりつく変遷が良くわかる。


この項次回へつづく




①人間 人類学的研究 序にかえて 桑原武夫 1966 中央公論社
②今西錦司全集 第9巻1975 月報9号 今西さんとのつきあい





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2015/06/12

今西先生の山 (12)  

 さて、ここで水棲昆虫の話が出ると、やはり可児藤吉に登場していただくことになるだろう。
 可児藤吉は、1908年1月1日岡山県勝田郡に生まれ、1944年7月18日サイパン島で戦死している。1930年京都帝国大学農学部農林生物学科入学。卒論に「ノミの触角の比較形態学的研究。」森下正明の2年先輩。1933年卒論「賀茂川におけるブユの分布」、1937年「賀茂川の水温同時観測の記録」。1938年京都帝国大学理学部大學院に転籍、同郷の川村多実二教授の指導を受ける。「流水における動物の生活状態」。1938年「大滝川三浦平付近の動物生態学的研究」。1939年「大滝川の動物生態学的研究Ⅱ」。 1944年「渓流棲蟲の生態 -カゲロフ・トビゲラ・カハゲラその他の幼蟲に就いて-」(森下正明研究記念館、資料より)という経歴を残す。
 森下正明さんといえば、今西先生が亡くなられ今西家に戻られて、座敷に安置されていた、その光の少ない枕もとでぽつねんと座しておられた姿が印象的だった。

 ここに、森下正明 研究記念館論文収蔵室・資料室・可児藤吉の項に『・・・河川の蛇行と河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで、今西錦司とともに現在の生態学基礎となる「棲み分け理論」を築いた。・・・』、 とある。

 可児の1930年京都帝国大学農学部入学以後の動きは、ときには川村多実二教授という共通上司の下におられたのかもしれないが、結果的にそう見えるのかは別として、今西先生の跡を追うような足取りをもっていた。1934年頃には、すでにお互いの面識はできていたのではないか。岩田久二雄、可児藤吉、梅棹忠夫,川喜田二郎と同じく、今西先生の飲み仲間の、というか今西グループの一人になっていた。

 「1933年も終わりに近いある日、今西さんは昆虫研究室の大部屋にたむろしていた岩田久仁雄さん、可児藤吉さんをはじめわれわれを若者どもを集めて一つの調査計画を提案した。それは川原、可変林、くぬぎ林や、松林、常緑広葉樹林など各種植生地における動物群集の一年を通じての調査である。地域は京都近郊の西賀茂がえらばれれ、毎月一回10メートル方形区法による定量調査は1934年1月から12月まで大部屋全員の参加の下に実行された。これはわが国では今まで行われたことのなかった多人数のチーム・ワークによる群集調査であった。この計画にあたっての今西さんの頭の中には、あるいはクレメンツ流の遷移の各段階に応じた動物群集の把握といった考え方があったのかもしれない。
 しかし見落とすことができないのは、この時の今西さんの資料整理の方法であって、それはその後のこの種の調査に時として採用されるような鱗翅類幼虫とか、クモ類とかいった分類群をはじめから一括してしわけるという安易な方法をとらず、はじめから種分け作業を行ったことである。多くの幼虫を含む群衆構成員のそれぞれの種名を、正確に同定することはもちろん、かりの名をつけての仕分けでさえも容易ならぬ作業である。
 この困難の道をあえてえらんだのは、生物群集は種の重複相に他ならず、各種社会が地域的にも環境的にもどれだけの範囲にひろがっているかを知ることこそ生物社会を把握するための基本であるという、「生物群聚と生物社会」(1936年、本巻所載)の考え方が、この時すでにでき上っていたことを示すものであろう。
 そして同時に、季節的な棲みわけを代表させるにたりる指標動物
を見出すための努力のあらわれでもあったと思われる。あとの問題に関しては、方形区調査の他に、目にふれ易いチョウチョやトンボについて、調査地点間のルートに沿ってのセンサスを今西さんは同時に行っているのである。」①

 可児藤吉が1936~1937年に行った「賀茂川の水温同時観測の記録」などは、1934年今西先生の西賀茂動物群集調査に参加していた可児がとりいれたチーム・ワーク調査方法ではなかったろうか。

 ここでもう少し森下正明氏の解題を読んでゆこう。
 「私が今西さんを知ったのは、1933年私が京大農学部の2回生として昆虫を専攻することになってからである。 今西さんはこの時すでに理学部に移ってはいたが、農学部の方にも嘱託として席が残っており、昆虫研究室に時々その姿を見せていた。私たち新入りがはじめて研究室に出頭した時、今西さんは部屋にいなかったけれども、他の先輩からここが今西さんの席だと教えてもらったその机上の本棚に詰められているのは、すべて地理学と植物学の本ばかりで、昆虫研究室の名にふさわしい昆虫の本などは一冊もみあたらなかったのには、開いた口がふさがらなかったものである。
 1933年といえば今西さんがカゲロウ幼虫4種について、渓流の暖流部から急流部のかけての棲みわけ現象にはじめて気がついた年であることを、今西さんは後に書いている。しかしたまたまアリの垂直分布に手をつけかけていたその頃の私は、今西さんのカゲロウの仕事よりも、同じ年に続けざまに出された『分布の研究方法』、『ドリアス植物群』、『ケッペンの気候型と本邦森林植物帯との垂直分布に於ける関係に就いて』などの論文を、絶好の道しるべとしてむさぼり読み、それによって今西さんの書棚の本の種類をとおしてとりわけ『分布の方法』(本巻所蔵)は、区系地理学的な分布境界線問題一辺倒のわが国の動物地理学に、はじめて生態地理学としての進路を示した珠玉の作品である。それは私ばかりでなく、少なくとも区系地理学にあきたらなさを感じていたすべての分布研究者にとって、指導書ともなったことと思われる。終戦時ボルネオで消息を絶ったままになっているすぐれた地理学者の鹿野忠雄氏が、かつて私たちとの会談の折、〈私も今西さんの『分布の研究方法について』を折にふれ読み返しては、そこからいろいろと教えられています〉と語ったことを今でも私は覚えている。
 『分布の研究方法について』に示されている考えは、今西さんにとってもその後の生物社会構造論建設の土台に当たるものであった。分類と種の生態の知識に精通することによって、環境と結びついた種の分布のひろがりをとらえなければならぬというこの文中の主張を、今西さんはみずから実践することによって、『生物社会の論理』へいたる道を開拓したのである。」②

 さらに・・・、
「ここで一言述べておく必要があるのは、『棲みわけ』現象の発見は、『棲みわけ原理』の確立のための最も重要な第一歩であることは間違いないにしても、『現象』が『原理』にまで高められるためには、その間にもう一つの重要な概念によって媒介されることが必要であった。
 それは『生活形』という概念であった。 今西さんが論文の中で正式に生活形という語を用い、これを理論体系の重要な柱にしたのは、1936年に書かれた『生物群聚と生物社会』からである。ここで正式にといったのは、たとい生活形という言葉を持ち出してはいなかったにせよ、今西さんの仕事の中では、その概念の内容が、その理論建設の対して実質的の役割りを果たしつつあったからである。垂直分布帯の研究では、森林を構成する多数の植物のうち、樹木という生活形をもったものだけがえらび出され、この同じ生活形に属する種類の間の分布が比較されている。カゲロウ幼虫で今西さんが最初に気が付いた棲みわけ現象というのも、実は大礫の上に生活する同じ生活形種類の関係であった。生活形の持つ意味を意識した時、今西さんの社会構造論には一段の深みができる。それまでは種社会の積み重ねとして比較的単純にかんがえられていた全体社会の構造が、生活形を橋渡しとすることによって、より現実的な、より具体的な構造としてとらえられ、ここから新しい分析の道が拓かれたのである。『群聚分類と群聚分析』(1937年、本巻所載)はこの段階への到達を示す作品である。
 しかし『群聚分類と群聚分析』に取り上げられた対象は、生物社会とは書かれていても実際の例としては植物社会だけが挙げられている。これはいうまでもなく植物の生活形社会層が景観的にもとらえ易いということとともに、一方、動物の生活形の把握が容易でないという事情の反映でもあろう。もちろん大哺乳類や昆虫類といった大まかな生活形分析だけならば、問題はないというところだろうが、少なくとも層内の各種が棲みわけ関係で結ばれているような生活形社会層は、いったいどのような原理によって見出すことができるのか。『生活形とは形態ををとおして見た生物の生活様式』という定義の表面だけを見ていたのでは、この答は容易には出てこないであろう。
 正直なところ、この問題に対して今西さんがどれだけの苦心を払ったか私には分からない。しかしやがて今西さんは、生活様式の内容は生活の場をとおして理解すべきであるということ、そしてそれによってはじめて社会構造をなり立たせる原理となり得ることを悟るにいたある。『生活の場をとおして』という一見何の変哲もないこの一語の奥に、今西さんの生態学者としての長い自然探求の経験の中から、ようやくにじみ出ることができたエッセンスともいうべきものを、私は味わうのである。
 このように生活様式を生活の場をとして把握するということは、生活の場がちがえば生活様式もまたちがってくるべきだということの理解でもある。生活様式というひと筋縄ではとらえがたいものを、その生物の形態とその生物の場をとおして把握したとき、その生活様式がすなわち生活形である。こうして今西さんはカゲロウ幼虫の生活の場の分析をとおして生活形分析に成功し、さらに一般的な生物社会構造論、すなわち生物的自然の構造は具体的な社会単位である種のうち、いくつかの類縁的に形態的に相似た種が、相似た生活の場を棲みわけることにより、一つの生活形社会―同位社会―を構成すること、そして相似た生活形社会同士はさらに生活史のずれなどを通して同一地域に重複することによって複合同位社会を構成するといった包括的な理論をかくりつする。この理論は今西さんの学位論文としてまとめられ1938年および1941年に英文で発表され、後に『生物の世界』の『社会について』の章の骨組みとなったものである。『生物社会の論理』の前半においては、このような理論構成にいたるすじ道が、それぞれの理論段階での具体的愚弟的資料とともに述べられている。」③
 独創的な着想と研究スタイルは名人芸のよう、と言わしめた森下正明氏の今西全集第4巻の解題である。興味のある方は是非一読されることをお勧めいたします。

 なお、1937年今西先生はカゲロウの総仕上げに春は木曽(長野県木曽郡)木曽川本流から、木曽の谷をでて、松本平をへて白馬村、姫川、中土(長野県北安曇郡中土)までの河川で、再確認の調査を行っている。夏には北海道、南樺太まで踏査をおこなう。そしてこの年、今西学位論文の草稿がはじまる。

 可児藤吉は若くして戦死したために道ちは中途した。本人によって残されたものは1944年研究社「日本生物誌」第4巻に『渓流棲昆虫の生態 ― カゲロウ,トビゲラ,カワゲラ,その他の幼虫について―』がある。ここにも棲み分け現象は記述されている。可児はこの論旨の最後に次のように書いている。
 「なお、読者諸氏には今西錦司氏の著書『生物の世界』(弘文堂・昭和16年、特に『社会について』の項)をお読みになることをおすすめする。これは生物の生活について書かれた優れた理論の書である。私の記述を読まれて抱かれる不満は、この書物によって必ずにみたされる事と思う。」とある。
 この社会の項では、今西先生の棲み分けが論じられている。

 今西先生は「人間以前の社会」1951年岩波新書71として出版の
著書の序で「本書は、1949年に出した『生物社会の論理』の姉妹篇である。わたしの生物社会学は、いまのところ、この2冊の本にもられた内容が、別々なままで一つの体系をなしているものと、考えていただきたい。 ・・・・・ わたしは本書を、サイパンで戦死した一人の友人にささげる。可児藤吉 ― かれのように熱烈な批判と、誠実な助言とを惜しまなかったひとを、わたしはふたたび見いだしうるであろうか。かれなくしていまの私の学問の道はさびしい。」
             一九五一・四・一〇 京都下鴨にて 著者
 
 とある。お二人の関係はこのようだったことには他言はないのだろうと思われる。 可児藤吉がサイパン島で戦死した時、今西先生は中国の張家口に、岩田久二雄氏は中国の海南島にいたのだった。

 この項次回へつづく



①今西錦司全集 第四巻 昭和49年12月12日 第1刷発行 講談社   発行/ 解題 森下正明 より
② ①と同じ。
③ 同上。





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2015/04/30

今西先生の山 (11)


 今西先生のカゲロウの仕事は、何も知らない。それに近づくには本人の遺した記述、他の人がそれを論じたもの以外には知る由もないだろう。ここで先ず本人の残した記述にせまることに他ならない。

 「渓流のヒラタカゲロウ」は中央公論社1969年発行の「日本山岳研究」のなかの、書下ろしの1編である。
「 私が西陣の旧居から、現在の下鴨へ移り住んだのは、一九三二年だった。そこに、父の買っておいてくれた地所があったからでもあるが、またその頃、私はカゲロウを研究のテーマにしていたので、彼らの幼虫がその中で生活している川のちかくに住むことが、何かにつけて都合がよいということも、移転を決意させた一つの理由であった。その川というのは、京都を貫通する加茂川のことであり、こうして私は加茂川と結ばれていったのである。
 一九三三年の初夏のある日、私はいつものように加茂川へ採集に出かけた。採集したカゲロウの幼虫は、もういままでに何度もとったことのある、いわば顔なじみのものが多かったが、その日私はいままでに気づいていなかったことを発見した。私がその頃ホーム・グラウンドにしていたところは、加茂川が山間部をはなれ、これからいよいよ沖積平野に流れこもうとするところで、その頃はまだ河川の改修工事もいまほどには進んでいなかったから、そこには多少なりとも川原の発達が見られ、その川原には加茂川とともに有名なチドリがすんでいた。
 さて、そのあたりの加茂川には、その季節になると、四種類のヒラタカゲロウの幼虫が、いつ行っても間違いなく採集できた。エクディオナラス・ヨシダエ Ecdonurus yoshidae 、エベオラス・ラティフォリウムEpeorus letifololium 、エペオラス・カーバチュラス Epeorus curvatulus ,エペオラス・ウエノイ Epeorus uenoi、がこれである。そしてさきにものべたように、私はもう何度となくこれらの種類を採集していたのに、その日になってはじめて、これらの四種類が、川の中にでたらめにばらまかれているのではなく、一定の順序をもって分布していることに、気がついたのである。すなわち、川岸にちかい流れのいちばん弱いところには、ヨシダエしか棲んでいない。もうすこし流れが速くなると、ヨシダエがおらなくなって、かわりにラティフォリウムが出てくる。さらに流れがもう少し速くなると、こんどはラティフォリウムが姿を消し、それに変わってカーバチュラスが出てくる。最後の流心部の、流れのいちばん強いところで採集すると、そこからはもはやウエノイばかりしか出てこないことがわかった。意外な発見におどろき、場所をかえて採集をくりかえしてみたが、何度やても同じ結果が出てくるばかりである。
 いままでに何度も採集を積み重ねていながら、こんな明白な事実に気が付かなかったのは、迂闊といわれても仕方がない。しかし、いままでにだれもこういう現象が存在するということを、報告したものがなかったのだから、私はここに、あえて発見という字を使うのである。ところで発見というものは、山登りでたとえてみれば初登頂のようなもので、ほんとうの初登頂が一回きりのものであるように、発見もほんとうは一回きりのものなのだ。だれかが私の報告書を読んで、どこかで私の発見したと同じ現象を見いだしても、それはすでに発見ではなくて、私の発見した事実にたいする再確認であるにすぎない。
 再確認には、発見にともなうような驚きも、また喜びもないであろう。私はこの発見を契機とし、また出発点として、やがて私の「すみわけ理論」をつくりあげてゆくのだが、この理論の一応できあがった姿は、私の別著『生物社会の理論』をみてもらうことにして、本稿ではもっぱら、この発見を手がかりとして、私がさらにヒラタカゲロウ幼虫の加茂川川流域のおける分布をしらべ、その棲みわけを明らかにしてゆくとともに、この加茂川流域における分布を一つのモデルとして、日本アルプスの渓流における彼らの分布を追求し、その結果としてえた垂直分布相を、さらに水平分布相と比較検討するため、北海道や樺太の調査を試みたというところまでに、記述の内容を限定しておきたい。
 なお、こうした調査をとおしてえた、膨大なし資料が私の手元にあって、いつしか整理したうえで発表したいと思いながらも、果たさずにきた。本稿を草するにあたっても、いろいろな事情から、またこれらの資料を参照することができないのは、かえすがえすも残念である。そのために、たとえば採集地点のくわしい記述が省略されているような場合も、すくなくないと思うが、御實恕ねがって、私の以下に述べる研究が、どのような意図のもとに行われ、どのような結果をみるに至ったか、またその結果については、どのようなところにどれだけ調査未了の部分をのこしたうえでの結果であるかを、ご理解願いいただけるならば幸いである。 ・・・・」とカゲロウに関する回想の序章で始まっている。

 1927年夏、日本アルプスの渓流で始まった水棲昆虫の研究が、1933年初夏、研究の一つの手がかりに、達したところである。

 この頃のカゲロウのフィールド・ノートがある。
「採集日記  加茂川 第一冊 March 1935年」 
その第1ページから2ページにかけて。

三月九日、実ニヨイ天気ナノダ。 コノ日川村多実二教授ハ半年ノ外遊ヲ終ヘテ帰朝セラル。 神戸埠頭ニ出迎ヘタ。
帰宅スレバコップヲ伏セタ中ニカゲロウ一匹、コレEpeoru ikanoisno
ノ本年度ニ於ケル初メテノ採集ナリキ。
三月十日モヨイ天気ナリ、三月十一日モ又晴、九日午后ニハ雨ガ降リソウニ見エタガ ソノ暖気モ単ナル春ノ訪ズレヲ知ラスモノニ過ギナカッタ。十一夜春寒ムニテ ストーブヲ焚カネバ我慢デキナカッタ。
カクテ十二日ノ快晴 ― 大快晴ガ訪レタ。 本年度初メテノ採集ヲナサント午后ソウソウ家ヲ出ヅ。
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渓流昆虫ヲヤリ初メテ以来 モウ今年ハ九年目ダ。 何トシカシ自分ノ仕事ノ覚ツカナキ事ヨ。 渓流生物研究所ノ本部ニ於ケル始祖川村教授ノ下ニ学ビテソノ高弟上野氏ト比較アルナラバ、余ノ非才ハゼイ言ヲ要セヌ然ナリ。 我ニ ファーブルヤハドソンノ如キ naturalistト シテ観察眼モナク、サリトテ laboratory ノ work ニハ辛抱デキナイ。 fild ヘ駆ラレルノハ研究ノタメノミダロウカ。
故 山ノ懐ニイダカレテ 又春日ヲ迎エ、光ト風トヲ栄養トシテ生ヲ續ケル。 ソコニナス所モナキ無名ノ naturalist デハアッテモ、楽シミハ盡キナイモノガアル。 ソコニハ何モイラヌ人ノミ味ワッテ事ノ出来る自然トノ黙約ガアル。 ソレダケデ沢山ダ、ト思ッタリシテモモ見ルガ、シカシ又考ヘ直シテ、コノ自分ヲ何等カノ形ニ表現シタクナル。 ソレハ科学論文ニ於イテ■■レルベキ性質ノモノデナイ。 ソコデ自分ハ「渓流生活者」トシテノ自分ヲ画カウト決心スル。 コノ採集記ヲツケ出ス所以ハ、今マデ記録ヲトラナカッタ自分ハココニ新シイ一ツノ目的ヲ意識シテ、ソノシリョウニマデ供セントスルモノニ外ナラナイ。
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先ズ川原ヘ出テスグ石ヲ起コス・・・・・

採集日記の始まりである。この1935年1月は、京都帝国大学白頭山遠征隊長として朝鮮白頭山遠征で新年を迎える。今西先生33歳の時である。
この年は昨年の台風に続いて、京都の河川が6月28日~29日の豪雨にて大氾濫を起こした。その時の模様が、「採集日記 加茂川 1935ノ第四冊 June 洪水記」 P143 にある。

 「採集ノートノ執筆ガ餘ニオクレタ。 約一ヶ月ノオクレニチカイ。 コレヲ考ヘルト平気ダト云ヒ乍ラモ、矢張リ大出水ガ余ノ mental side ニマデ、可成ノ影響ヲ與ヘタモノデナイダロウカ。
人間ノ計画ナド、自然ノ計画ノ前ニカクモモロキモノデアル。 自然ヲobserve スルベキ naturalist トシテハ自然ソノモノヲ見、ソレニ征ッテ行クヨリ他ニ道ハナイ。 ケレドモ人間ハソノ生活ヲ人間ノ計画ニ征属セシメテヰル。 ダカラソコニ失望モ生ズルワケデアロウ。
マア取敢エズココニ6月ノ採集ノートヲ記シ、ソノ責ヲ果シタ上、ソノ后ニ於イテ、コノノートガ継續サレナクトモ、ソレハヤムエナイノデアル。」
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その後、「自然ハ一寸微動シタ、・・・岩ヲ一ツ動シタテイドダ。 ソレダノニ人間ハコレ丈困リ、又泡食クッテイルノダ。 ・・・人間丈デナク、川ノ虫モ自然ノ微動デ姿ヲ消シタ。 我々ノ仕事モコレデ一旦ハ中絶デアル。」 (July,1935 於 大津記)と、p154にある。









 

2015/04/14

今西先生の山 (10)


 そのころを、先生ご本人が語っている。   
「・・・京大卒業後(注・1928/3月大卒)私は幹部候補生として入隊した。入隊したときから普通の兵隊と違って星が二つついていた。徴兵検査に合格したとき試験管からから「お前は何に志願するか」と聞かれた。私は即座に「山が好きやから山砲を志願する」といったところ「山砲は台湾にしかない」といわれ、結局桃山(京都市伏見区)の工兵隊に入隊したのである。そして近くを流れる宇治川で毎日のように鉄船を漕いだり架橋のの演習をやったりしていた。十カ月たって曹長で除隊となり、そのあとで陸軍少尉に任官した。そういう軍隊の経験があったから、私は赤紙の召集令状を気にしていたのである。・・・・・ 顧みると、私はカゲロウの研究に十年もかけたことになるのだが、しかしその間カゲロウの研究ばかりに没頭していたのではない。その間に私はいろいろな分野のいろいろの本を独学で読みあさっていたのである。それからもう一つ忘れてならないのは、大学卒業前後から私はヒマラヤ探検を計画するようになり、その方にずいぶん多くの精力をそそいできた。しかしここではもう少し研究の話を続けよう。 なにごとによらず最初は師について学ばなければならない。問題はそれからで、一生涯その師の説からぬけ出られない人もいるし、基本だけはがっちりとり込んでおいて、ある時期が来たら、それを乗り越えて自分の本来の力を発揮するという人もいる。どちらのタイプの人もいてもよいのだが、私はあとのタイプに属していた。というのは農学部時代に信奉していたクレメンツの単極説をその後ひっくり返すことになるからであって、そのきっかけは実はカゲロウの研究から出てきているのである。
 下鴨の家に移った後、一九三三年に私は゛棲み分げを発見するが、このことはまた私にとっては「種社会の発見」であったといってもよい。つまり棲み分けとは、Aという種の社会とBという種の社会とが棲み分けているということにほかならないからである。しかし、この発見も゙読書百遍意自ら通ず゙のことわざ通り、何回も何回もカゲロウの採集に行っていながら気づかずにいたのに、ある日突然気が付いた。気が付いてみると、何ということか、どこでもここでもちゃんと棲み分けしているのである。
 (種)とは生物社会における構成の基礎単位である。しかし種というものも、分類学者が取り扱っているかぎりでは一つずつの個体を対象として、分類学者が観念的に作り出したものだといわれても仕方あるまい。しかるに私が棲み分けで見つけたのは、同じ種に属する個体がある地域内に集中しているということだった。
 このことから種とは自然においては、ある一つの空間内にその種に属する個体が集まることによって、一つの地域社会を作り出しているということができる。そのような具体的な存在をさして、私はこれを「種社会」と呼ぶことにしたのである。・・・」①  と、ある。

 この先の一つの到達点が1939年の学位論文であり、1941年数えで40歳の時の第一著作の「生物の世界」である。
 「・・・今西さんは研究と登山と探検とを巧みにつかいわけたと考えるのは、実は本当の今西さんをつかんでいないからであって、実はそれらを今西さんは一つとしているのであって、そこに今西学が荒唐無稽でない理由があるだろう。・・・」と岩田久二雄が言っている。

 まずはカゲロウから入ろう。1927年水棲昆虫の採集が始まって1928年の卒業論文から1939年の学位論文までを、先生はカゲロウの10年と位置づけている。大学院を農学部から理学部にうつった
遠因ともなったと言っておられる②、カゲロウの分類もてがけられてゆく。



①「そこに山がある」私の履歴書より、1973年日本経済新聞社
②今西先生の山(6)に掲載。



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