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2010年1月

2010/01/23

一通の手紙 (三)

今西先生の第2随筆集「山と探検」岡書院1950年の一編に、要約すれば 次のような文章があります。

・・・すべてを棄て蒙古からの脱出、北京で送還されるまでの忍辱生活、 帰国したらあれやこれやの考えも、帰ってみれば思うようには運ばない。 家にかえって、まずなにかなしに、五万分の一や二十万分の一の地図を見始めたのである。十数年間座右からはなしたことのないオックスフォードの世界地図も張家口へ置き去りにしてきた。さびしいとき、満たない気 持ちのときに、地図を開いてみる習慣のある私が、いま内地の地図を見ていたところで、ちっともおかしくないのではないか。・・・(山の数をかぞえる1946年)

登山家であり探検家でもあった先生が、地図と並々ならぬかかわりを持 ってこられたのは、容易に理解できます。生涯登山1552山に使われた 地図にその記録の赤いルートが描きこまれているのです。わたしの知っているかぎりは、5万の地図に4Bの鉛筆で予定ルートが書き込まれます。目的地の山には△マークが入っています。
その山登りが終わると家に帰られてから、やわらかな濃い赤鉛筆で、4B鉛 筆線上をなぞられ、地図上に色濃いしっかりとした、完成ルートの赤線 が出来上がります。

二十万の地図には山に向かう予定ルートが、やはり赤い線で書き込まれて ゆきました。ちなみ二十万の地勢図の概要を見れば、その特徴は府県程 度の地図における地形・水系・交通網・集落の概況を一目に把握する・・・とあります。交通網に赤い線が走ります。
目的地も着けば良い、というのではなく自身の決めたルートが大事でした。 道を逸脱してよくお小言を頂戴しました。

後年、先生の赤い線の引かれた五万と二十万の地図のことが今西美学と して何人かの方々に取り上げられておられました。
地図上に赤い線が引かれ、今西先生自身の地図が作られてゆきまし た。おこなったことに必ず報告書を出された先生は、地図の赤線はその報告書 も兼ねていたのかもしれません。

そしてこんなこともありました。「― JACの70周年晩餐会(12月6日、土、 京王プラザにて)に松本から車で出席してくれませんか、そして翌日小生を松本(または塩尻)まで乗せていってほしいのです。山へは登りません。こ の際メインロードに赤線を入れておきたいのです。 ―」1975年9月11日付

この地図上に一本通ったルート線がほしい、確かに地図の美学はあったのです。

2010/01/05

一通の手紙 (二)

増補版・今西錦司全集11巻が1993年6月に刊行になりました。 解題を伊谷純一郎先生が担当しておられ、その最後に追記があり ます。

引用をさせていただくと、  ―『自然と進化』のなかに「地図の整理 法」というエッセイがあり、「タンザニアのアリューシャ」という町で、 赤道が当地を通過しているという標示を読んだときは」云々という文章があるが、これは明らかに今西先生の勘違いである。亡くなられ た方の文章に手に入れるわけにはゆかないので追記する。アリュ ーシャは南緯三度と四度の間だが、ここカイロとケープタウンのちょうど中間点だという表示が、ニュー・アリューシャ・ホテルの角にあり、 先生の御記憶ちがいである。―  とあります。

ここに一通の葉書があります、  「・・・7月16日のおたよりでご指摘 のアリューシャを赤道がとおっているというのは錯覚でしょうか 地 図を見るとナイロビでさえ南半球にはいっているのだから 明らかに間ちがいです ご指摘ありがとう、 京都は連日35°以上でたいへ んな暑さです・・・」  この葉書は今西先生よりの、1978年7月24 日付けの手紙です。「自然と進化」筑摩書房1978年刊、の単行本を読んだことを、別要件の手紙に添えてお知らせした時の御返事で した。伊谷先生の解題追記のご指摘より15年前のことです。

両氏のお人柄がにじみ出ています。伊谷先生は姿勢を崩さず、ま正 面から最後まで今西先生と対峙しました。 今西先生は門外漢のいう事にでも、決して「コイツワ~」というような、分けへだてはなく、必ずそれに誠意をもって対処してくれました。人 をそらさぬ強い魅力を持っておられました。 リーダーに不可欠な要素の一つ人間的な魅力、先生のリーダー論にもこのことがありました。

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