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2010年3月

2010/03/21

鹿野忠雄と今西先生 (下)

日本は満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと激動 の時代に突入します。この頃の二人は今西は1933年(昭和8年)京都帝大理学部講師嘱託(無休・常勤)となり、鹿野は台湾総督府嘱託、渋沢敬三・学術振興会の援助、軍専従嘱託等を経ながら調査に打ち込み定職にはつかずにいました。

今西はカゲロウで学位をとり、鹿野は所属する東京帝大ではなく京都帝大で学位をとった。 山岳書で今西が「山岳省察」を出版、鹿野も「山と雲と蕃人と」を出版する。 今西はヒマラヤ計画が流れると、とどまらずに組織を作り上げ、南樺太・冬期白頭山遠征・内蒙古・ポナペ調査・北部大興安嶺・西北研究所と動く。 鹿野はベースを台湾に置き、調査を重ねながら、紅頭嶼・白頭山・フィリッピン・北ボルネオと動く。二人は行動の中で自らの学問形成をはかってゆきます。

ここに一枚の写真があります。 以前も見たことのある写真だったが、金子之史「ネズミの分類学」(2006刊)ではっきした。 それによると・・・この一枚の写真は可児藤吉の「生態学ノート」の巻頭にあり、1940年暮れの鹿野忠雄学位論文提出祝賀会で、京都三条の三島亭に鹿野の論文提出を祝して集まった6人で前列、今西・鹿野・可児・森下、後列安江・徳田とあります。

鹿野忠雄と今西先生の間柄は、お互いの記述の中に確認することは難しいのですが、この写真はある程度のことを物語っています。 そして伊谷さんが今西先生から伺った、鹿野忠雄の回想は案外深いところのものだったのかもしれません。 山と云う共通の認識が、同じ対象物にも目が向けられたこともあったでしょう。 今西先生は道半ばで夭折された方については、あまり語らなかった人だったような気がするのです。

お互いに組織と個、学問の方法論の違いはあったかもしれないがフィールドを舞台とし、専門の領域にこだわらず、自分の目と頭で見てゆくのだと、日本の激動期に東と西の両雄は胎動をはじめておりました。 まるでこうでなければならないというように、残っている写真ではお二人とも白い探検用のヘルメット姿が良く似合っていました。 

1945年(昭和20年)8月15日の終戦、9月2日の降伏終結となるのですが、鹿野忠雄は1945年7月15日を境に消息を絶ちました。今西先生は張家口で終戦、翌年の帰国でした。

1977年(昭和52年7月)、今西先生以下で台湾雪山(旧称、次高山3,886m)登山へ出発しました。 台湾の最高峰はり玉山(旧称新高山3,950m)です。 双方とも一等三角点が残されています。 先生の常の登山姿勢からは、台湾の山が登場するのは少し唐突な気がしました。 最高峰でなくなぜ雪山だったのか、これには何か思いがあったのだろうか。 もちろん山へ行くから三角点の山も目的だったのでしょうが、 先生に問うてみればよかったと思っています。 
先生は、この頃にはすでに公職は退かれており、日本山岳会会長
職も4月には退任され、そういう意味では晴れて本当の晩年という
時でした。 ただこの年は園子夫人を亡くされた年でもありました。 忌明けを待っての出発でした。 

その時の、雪山登山は、かつて鹿野がサクラマス調査でも長く滞在したシカヨウ社(現、環山)を経て、次高山(現、雪山)へ、道すがら樹木の枝先の葉を、手の感触で確認しながら歩いておられました。 三六九山屋(3,100m)で大型台風に遭遇、強風と殴りつけるような大粒の雨にあおられる粗末な板小屋で長い停滞に会い、時間切れにて下山のやむ無きにいたり、台風の爪痕残るなかを下山しました。 

この先は、一つの推測と思われお読みください。
もしこの時が、快晴であったなら次高山のカールを見、鹿野が研究に取り組んだ次高山を、わが目で心ゆくまで眺められたことだろ
うに。 時はちょうど7月の下旬、山頂で東南の方角海のかなたは、「人間以前の社会」(1951)の序に ― 私は本書をサイパンで戦死した一人の友人にささげる。可児藤吉・・・― 可児が戦死したサイパン島の位置だ。 見えることはないが南 の彼方には鹿野の消息の断ったボルネオがある、これも7月下旬。 先生はあの当時の徳田研究室の雰囲気を思い出していたのだろうか。 この人たちはみな巧みに絡み合っていたのだ。
過去は振り返らないといわれていた先生だが、去来するものはあったのではないだろうか。 ただただこれはあくまで推察にすぎないのだが・・・。

今西先生は柳田國男が「海上の道」を最後の著書として完結に至ったことをたとえて、俺もあの最後を目指すと、おっしゃっておられました。 先生の、それは「自然学の提唱」そして「『生物の世界』への回帰」であったのだろうか。



2010/03/16

鹿野忠雄と今西先生 (中 )


鹿野忠雄は昆虫学、生物地理学、地史学、先史学、民族学と、すでに学 問の世界でも細分化がはじまるそのころ、領域にこだわらず自分の目指 す興味ある分野につきすすみました。 それぞで立派な仕事を残しており、人物の大きさをみることが出来ます。

もちろん台湾での山の活動の広さ深さも素晴らしく、山中70日とか150日 という話から、初登頂の山が20座を超え、台湾の山に氷河地形の発見や ら、山住みの部族との友情、恋、共同生活と、彼らに対して心から純真な愛情を持ち讃えていたのです。 

もちろん目は山地ばかりでなく、海にも むかっています。 紅頭嶼(現在の蘭嶼)でのヤミ族との生活、この目線 が、やがて新ウォレース線の訂正になってゆきます。

梓書房より出された 『山』 第一巻第五号(昭和九年発行)に「臺灣山岳 の印象」という文章を寄せています。 ・・・臺灣山岳の何が僕を斯くの許り惹きつけているか、・・・それを明快に云ひ表す事は仲々容易な事でな い。・・・ と、いっていますが正に明快に生き生きと、その魅力を内地 の山岳と比較して表しております。

鹿野忠雄に関する記述は多くないのですが、山崎柄根・宮本常一・伊谷純 一郎・金子之史・・・等がありますが、その中で伊谷純一郎著 「自然が ほほ笑むとき」-鹿野忠雄のこと- の文中に、
・・・戦後、私は今西先生について九州の山を歩くようになった。 その頃 、二度だったか三度だったか、鹿野忠雄の名を聞いたのをおぼえている。  鹿野というのは徹底的に台湾をやった男だということ、アラインゲンガー(独行者)であったということ、幅の広い探検家であり登山家であったのに惜しい男をなくしたものだとおっしゃっていたのが、いまも耳の底に残っている。手放しで人をほめる人ではなかっただけに、それが忘れられなかったので ある。 ・・・  と伊谷さんは書かれています。

鹿野忠雄1906年(明治39年)東京生まれと、今西錦司1902年(明治35年) 京都生まれ。 今西先生のほうが4歳年上ですが、敗戦までお二人はおなじ時代を共有してきました。 

生まれこそ関東と関西の違いはありますが、共に小学生の三・四年生頃よ りの昆虫採集に始まり、素晴らしい採集標本との出会いが、昆虫への思いをお 互いにいっそう嵩じてゆきます。 
中学生になると共に採集と山登りと遠征に。
高校生では鹿野は台湾へ、山と新種採集に暮れる。 今西は京都、山と スキーに暮れる。 やはり二人とも前後して「山岳」への投稿が始まる。 
大学では、鹿野は台湾より東京帝国大学地理学科へ、次高山の氷蝕地 形の掌握、台湾人類学論文の発表へ。 今西は京都帝国大学農学部農 林生物学科へ、山とスキーで初登攀を重ねる。 カゲロウ時代はじまる。 
大学卒業後、鹿野は大学院へ、台湾の山地、島の調査をさらに重ねる。  新ウォレース線の修正証明、動物地理についての考察。 今西は大学院 理学へ、万年雪・森林限界・雪崩・カゲロウ等、山岳に関しての論文を発表をする。

と、いうようにざっと見てもよくにた共通点をもった経歴をたどります。 
上 文では同じ学年のように勘違いなされるかも知れませんが、年齢には 4年の開きがあります。 同年齢の時期になされた事項です。                            

・・・以下次回へ

2010/03/11

鹿野忠雄と今西先生 (上)

カノタダオ・・・この名前をご存知ですか。 幼少のころ培った出来事が夢となり、その実現にむかい邁進した人物がこ こにもおりました。 その人が鹿野忠雄です。

1906年(明治39年)東京に生まれる。 年譜をおってみると、
小学校4年生 ごろより昆虫採集をはじめるとある。

中学校では休暇は山か昆虫採集にあて、すでに雑誌に論文を投稿してい たそうだ。 昆虫学者と知り合い、彼の持ってきた台湾の昆虫標本の美しさ に目を奪われ、南の自然の豊富さと華麗さを見、台湾に思いを馳せる。 大正十年から数年、夏には二、三か月は北海道・樺太へ山と採集に通ったという。

中学を卒業、台湾に台湾総督府台北高等学校ができるのを待ってから翌年 入学、時代は大正から昭和へと移る。 
台湾の大自然のなか山と採集、台湾 の山地を駆け巡る。 このころの採集に関しては逐一学会誌に報告発表をしているとある。 
登山、先住民部落訪問、紅頭嶼、ウォレース線・・・興味の尽 きることはなかった。 関心が民族誌や生物地理学へ変わってゆく。
1年留年で、台湾の山の初登頂を重ねるが、次の年も出席日数が足りぬた めまた物議を起こすが、人物を見ていた時の校長のはからいで卒業となる。

1929年(昭和5年)東京帝国大学地理学科進学。
台湾で霧社事件が起こる。 鹿野はこの事件を「結果には原因がなければならぬと」新聞紙上で論じた。夏休み台湾に戻り山地で活動、次高山(雪山3,886m)で氷蝕地形を掌握。台湾人類学論文を発表し始め1926年来の植物学論文は終わる。

1933年(昭和8年)大学卒業大学院進学。 
台湾島及び紅頭嶼調査、次高 山再調査を重ねる。 その後、ウォレース線修正証明、台湾動物地理についての考察。 
1936年(昭和11年) 朝鮮北部白頭山へも氷蝕調査、この年 渋沢敬三に会う。 1937年(昭和12年渋沢敬三・学術振興会の援助を受け 台湾民俗誌調査・採集を行う。日中戦争勃発。
民族誌学研究の成果が称賛を受けるが、地理学主任教授の覚えは悪し。

1940年(昭和14年)33歳で結婚。台湾原住民図譜1・2出版準備、この年 から昆虫論文生物地理学研究を締めくくる。
1941年(昭和16年)京都帝大に提出の「次高山彙に於ける動物地理学研 究」が学位をとる。 「山と雲と蕃人と」出版。

1942年(昭和17年)マニラへ。 大学学術機構整備、敵国ベイヤー教授 救出。 1943年(昭和18年)民族学と先史学の論文。南洋諸島全軍壊滅。
1944年(昭和19年)37歳、この頃出発を前に三田の常民文化研究所に通い著作出版のための仕事に奔走する。
陸軍専従嘱託身分で金子総平と北ボルネオへ 民族調査。軍服を着ていたが頭には白い探検ヘルメットをかぶっていたという。
1945年(昭和20年)38歳 敗戦直前の7月15日以後、北ボルネオにて消息を絶つ・・・。

ざっとおった年譜ですが、これで鹿野忠雄の全容をとても言い尽くせるものではあり ません。 大樹を見たときの幹の一部分です、生い茂る枝葉の部分を含た大樹の全体像に興味がある方がおられたら、次の二冊の著書をお勧めいたします。

■「山と雲と蕃人と」-台湾高山紀行- 鹿野忠雄 著 
 2002年  文遊社 刊
■「鹿野忠雄」 台湾に魅せられたナチュラリスト 山崎柄根 著   1992年 平凡社 刊                   

・・・次回へ

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