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2010/03/16

鹿野忠雄と今西先生 (中 )


鹿野忠雄は昆虫学、生物地理学、地史学、先史学、民族学と、すでに学 問の世界でも細分化がはじまるそのころ、領域にこだわらず自分の目指 す興味ある分野につきすすみました。 それぞで立派な仕事を残しており、人物の大きさをみることが出来ます。

もちろん台湾での山の活動の広さ深さも素晴らしく、山中70日とか150日 という話から、初登頂の山が20座を超え、台湾の山に氷河地形の発見や ら、山住みの部族との友情、恋、共同生活と、彼らに対して心から純真な愛情を持ち讃えていたのです。 

もちろん目は山地ばかりでなく、海にも むかっています。 紅頭嶼(現在の蘭嶼)でのヤミ族との生活、この目線 が、やがて新ウォレース線の訂正になってゆきます。

梓書房より出された 『山』 第一巻第五号(昭和九年発行)に「臺灣山岳 の印象」という文章を寄せています。 ・・・臺灣山岳の何が僕を斯くの許り惹きつけているか、・・・それを明快に云ひ表す事は仲々容易な事でな い。・・・ と、いっていますが正に明快に生き生きと、その魅力を内地 の山岳と比較して表しております。

鹿野忠雄に関する記述は多くないのですが、山崎柄根・宮本常一・伊谷純 一郎・金子之史・・・等がありますが、その中で伊谷純一郎著 「自然が ほほ笑むとき」-鹿野忠雄のこと- の文中に、
・・・戦後、私は今西先生について九州の山を歩くようになった。 その頃 、二度だったか三度だったか、鹿野忠雄の名を聞いたのをおぼえている。  鹿野というのは徹底的に台湾をやった男だということ、アラインゲンガー(独行者)であったということ、幅の広い探検家であり登山家であったのに惜しい男をなくしたものだとおっしゃっていたのが、いまも耳の底に残っている。手放しで人をほめる人ではなかっただけに、それが忘れられなかったので ある。 ・・・  と伊谷さんは書かれています。

鹿野忠雄1906年(明治39年)東京生まれと、今西錦司1902年(明治35年) 京都生まれ。 今西先生のほうが4歳年上ですが、敗戦までお二人はおなじ時代を共有してきました。 

生まれこそ関東と関西の違いはありますが、共に小学生の三・四年生頃よ りの昆虫採集に始まり、素晴らしい採集標本との出会いが、昆虫への思いをお 互いにいっそう嵩じてゆきます。 
中学生になると共に採集と山登りと遠征に。
高校生では鹿野は台湾へ、山と新種採集に暮れる。 今西は京都、山と スキーに暮れる。 やはり二人とも前後して「山岳」への投稿が始まる。 
大学では、鹿野は台湾より東京帝国大学地理学科へ、次高山の氷蝕地 形の掌握、台湾人類学論文の発表へ。 今西は京都帝国大学農学部農 林生物学科へ、山とスキーで初登攀を重ねる。 カゲロウ時代はじまる。 
大学卒業後、鹿野は大学院へ、台湾の山地、島の調査をさらに重ねる。  新ウォレース線の修正証明、動物地理についての考察。 今西は大学院 理学へ、万年雪・森林限界・雪崩・カゲロウ等、山岳に関しての論文を発表をする。

と、いうようにざっと見てもよくにた共通点をもった経歴をたどります。 
上 文では同じ学年のように勘違いなされるかも知れませんが、年齢には 4年の開きがあります。 同年齢の時期になされた事項です。                            

・・・以下次回へ

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