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2010/03/11

鹿野忠雄と今西先生 (上)

カノタダオ・・・この名前をご存知ですか。 幼少のころ培った出来事が夢となり、その実現にむかい邁進した人物がこ こにもおりました。 その人が鹿野忠雄です。

1906年(明治39年)東京に生まれる。 年譜をおってみると、
小学校4年生 ごろより昆虫採集をはじめるとある。

中学校では休暇は山か昆虫採集にあて、すでに雑誌に論文を投稿してい たそうだ。 昆虫学者と知り合い、彼の持ってきた台湾の昆虫標本の美しさ に目を奪われ、南の自然の豊富さと華麗さを見、台湾に思いを馳せる。 大正十年から数年、夏には二、三か月は北海道・樺太へ山と採集に通ったという。

中学を卒業、台湾に台湾総督府台北高等学校ができるのを待ってから翌年 入学、時代は大正から昭和へと移る。 
台湾の大自然のなか山と採集、台湾 の山地を駆け巡る。 このころの採集に関しては逐一学会誌に報告発表をしているとある。 
登山、先住民部落訪問、紅頭嶼、ウォレース線・・・興味の尽 きることはなかった。 関心が民族誌や生物地理学へ変わってゆく。
1年留年で、台湾の山の初登頂を重ねるが、次の年も出席日数が足りぬた めまた物議を起こすが、人物を見ていた時の校長のはからいで卒業となる。

1929年(昭和5年)東京帝国大学地理学科進学。
台湾で霧社事件が起こる。 鹿野はこの事件を「結果には原因がなければならぬと」新聞紙上で論じた。夏休み台湾に戻り山地で活動、次高山(雪山3,886m)で氷蝕地形を掌握。台湾人類学論文を発表し始め1926年来の植物学論文は終わる。

1933年(昭和8年)大学卒業大学院進学。 
台湾島及び紅頭嶼調査、次高 山再調査を重ねる。 その後、ウォレース線修正証明、台湾動物地理についての考察。 
1936年(昭和11年) 朝鮮北部白頭山へも氷蝕調査、この年 渋沢敬三に会う。 1937年(昭和12年渋沢敬三・学術振興会の援助を受け 台湾民俗誌調査・採集を行う。日中戦争勃発。
民族誌学研究の成果が称賛を受けるが、地理学主任教授の覚えは悪し。

1940年(昭和14年)33歳で結婚。台湾原住民図譜1・2出版準備、この年 から昆虫論文生物地理学研究を締めくくる。
1941年(昭和16年)京都帝大に提出の「次高山彙に於ける動物地理学研 究」が学位をとる。 「山と雲と蕃人と」出版。

1942年(昭和17年)マニラへ。 大学学術機構整備、敵国ベイヤー教授 救出。 1943年(昭和18年)民族学と先史学の論文。南洋諸島全軍壊滅。
1944年(昭和19年)37歳、この頃出発を前に三田の常民文化研究所に通い著作出版のための仕事に奔走する。
陸軍専従嘱託身分で金子総平と北ボルネオへ 民族調査。軍服を着ていたが頭には白い探検ヘルメットをかぶっていたという。
1945年(昭和20年)38歳 敗戦直前の7月15日以後、北ボルネオにて消息を絶つ・・・。

ざっとおった年譜ですが、これで鹿野忠雄の全容をとても言い尽くせるものではあり ません。 大樹を見たときの幹の一部分です、生い茂る枝葉の部分を含た大樹の全体像に興味がある方がおられたら、次の二冊の著書をお勧めいたします。

■「山と雲と蕃人と」-台湾高山紀行- 鹿野忠雄 著 
 2002年  文遊社 刊
■「鹿野忠雄」 台湾に魅せられたナチュラリスト 山崎柄根 著   1992年 平凡社 刊                   

・・・次回へ

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