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2010年4月

2010/04/25

西川一三を語る (中)


ラサ到着、4カ月ぶりの風の当たらぬ家の中に。 人類の展覧会のラサの街、乞食の多いのに感心、 祖国敗戦の噂聞く。 
どこかの寺に入籍しないとラサでの在住が難しい、素性が暴かれる。インド潜行を 決める。 シヤンより同行の者がシカゼに行くという。 ラサには数日の滞在にして、これに便乗してチベット西巡回の聖地を訪ねることにする。 

10月 初旬(この辺り暦の読み方が、入り混じり難しい) 、ラサ出発。 眼を楽しませる街道風景、シカゼのランプル寺、旧教派の本山サチャ寺、物乞いの練習、通用しない百円紙幣、巡礼者に身をやつしシカゼ、サチャ、の聖地を巡る。 

12月の2日か3日、シカゼを後にインドに向かう。インドへ向かうに托鉢をしながらがの移動になる。 ラサ 出発2カ月余の昼過ぎパリーへの公路を南へ、パリー到着4日目の朝、逃げ出すように最後の目的地カーレンポンに出発。 早くて5日、遅くて7日の行程、いよいよヒマラヤ越えのチャンスが到来。 チュンビー渓谷を経て雪の6,700mのザリーラ峠のに立った時には眼の前の正面には8,600mのカンチャジェンガ、遥か西方にはナンガバルバットの勇壮があった。 

峠を下りる途中では、着てる毛皮の服を注意される。 とても信じられなかったが、下るたびに確かに気温がどんどん上がった。 英国人にも合う。
リンタムの部落からはネパール人とシッキム人とが初めて姿を見せていた。 そのうちにインド人も現れる。 植生の変化の驚き。
リンタムを経てインド・シッキムのカーレンポンへ着く、ラサを出て約3カ月近くがかかっていた。 同行のバルタンには、生まれて初めてのことばかりであった。  電燈も蒙古を出て3年ぶりだった。木村肥佐生と会う、彼の集めた情報を見聞きして敗戦のかなりの情報を知った。

1946年1月下旬、カーレンポン着5日後にカルカッタへ向かう。 カーレンポン~シリグリ間 60キロは倹約のためバスに乗らずに2日がかりで歩く。 シリグリから汽車に乗る。 バルタンにとっては異次元の世界だった。 カルカッタでの6日間、友とは弥次喜多道中であった。 日本の敗戦を確認でき再出発の途に立つ。

カーレンポンに引き上げてきたが、現実に生きるということは難しかった。 ヒマラヤ越えのアルバイトに、金になる物の運び屋家業をする。ブータンでも何でも売れた。ザリーラ峠越え5回目の時に遭難、足に凍傷を負う。 カーレンポンで傷のため働けず、乞食の群れに入りこみ3カ月を暮らす。 この中であらためて仏教修行を考えてみる。5月上旬、3か月余の乞食生活に別れを告げ、木村君とも再会を約し、住み慣れたカーレンポンを後にして、新しい望みに燃えラサに旅だった。 

4月中旬、(暦の読みが難しい)カーレンポンを出発して21日目に半年ぶりにラサに舞い戻る。  直ちにラサ、レポン寺でイシラマの下、ラマ僧修行に入る。 レポン寺の一年を綴る。
1947年レポン寺での正月、ラサの宿に出てきた木村君にチベット東部地区西康省への同行を依頼される。 レポン寺には1年近くの修行期間だった。 3月(陽歴)上旬のある日、師イシラマの反対にあうも、友とラサを出発。 修行の身であったが西域の秘境を踏査してみたいのと野望と、インド、アフガニスタン、ビルマなどにもとの思いがあり、手始めに西康省踏査は格好の場所だったのである。

白雪の山また山、千仞の谷また谷、アジアの大河の源流、この三つによって構成されている のが褐色に塗りつぶされた西康省である。(余談ではあるがつい最近、西川が踏査した玉樹辺りで大きな地震があったニュースが流れた)1・2・3月は雪、4・5・6月は頭を割るような雨、7・8・9月はまだいいが、10月には冬がやってきて獣のような穴ごもり、これが西康省の形容である。 
九死に一生の旅、飛ぶように売れる針、とんでもない災難と9カ月の過酷な旅であった。 ラサに戻って数日を待たずインド、カーレンポンに発つ。 7度目のヒマラヤ越えナツーラ峠10月の声を聞こうとする秋晴れのことである。 この時はチベットとの最後の別れになるとは思わなかった。

カーレンポの新聞社に入社する。 1948年の正月を迎える。 春には一人前の職工になっていた。 チベット、英語、インド語の活字広い、 組み立て、構成、印刷、シナ語からチベット文への翻訳、全てこなす。
初夏には二名の蒙古ラマが来るとの情報。 トクミン廟のラマ僧で知りあいであった。内蒙で別れて 5年ぶりでインドで再会する。
秋が来て新聞社を辞める、1年近くなっていた。 苦行僧の門を叩く、修行を重ねインド放浪に備える。 稲の刈り取られている秋の日に同行の仲間をつれ巡礼姿の苦行僧に身をやつし出発をする。 とにかく同行の者、皆お金がない。 薩摩の守(無賃乗車)至上主義の努力につぎ込む。 
カルカッタを経て、ブッダガヤ、サルナート、クシナガルとインド3大聖地巡礼を済ませ、感激にひたる友と別れてインド仏跡地を訪ねて西へ向かう。 

途中、スバス・チャンドラ・ボースの名前がよく出る。
1949年ガンジス平原を走る列車の中で正月を迎える。 
ガンジー夫人に会う。
カシミールからアフガニスタンへの潜入は夢破れる。 カシミールではインド、パキスタンの 激しい戦いが繰り広げられていた。
5月初旬、ラクソールからネパール、カトマンズへ向かう。 カトマンズで老ラマに再開、このラマは満州蒙古らなでチベットレポン寺の顔見知りのラマだった。病んでいたのを助け連れて帰る。 師イシラマの話に感涙。 無事ラサへ帰って行った。 やく1年振りでカーレンポへ帰還する。 これで一応インド放浪の旅は終わった。
長い間のインド大平原の無銭旅行に対し、ただ、インド政府と厚い人々の情に頭を下げるだけであった。

ビルマ潜入の希望が強くなる。 今までの国はいずれの国もラマ教徒であれば入国許可証などという面倒なものはいらなかったが、ビルマに入るにはラマ教徒といえども許可証を必要とするとのことであった。 その間の事情は省くが、鉄道工事苦力の群れに入り機会を待つことにした。 2カ月後には苦力頭になっていた。 
9月、木村君がチベットを追放され、台湾に送還される情報が入る。 その本人からの連絡で会うが、それから一月ばかりのちの10月2日遂に捕らわれられた。 木村君から漏れたのだろう。
調べの後、カルカッタへ送られる。 10月末、監獄へ収監され8カ月暮らすことになる。 1950年、蒙古を出て7度目の正月を監獄で迎える。

5月12日、カルカッタより日本に帰ることになる。
6月13日の朝、神戸港に着く。
蒙古を出て8年、祖国を出て15年だとあった。

ここまで8年間を忙しくたどってみた。
本の中の行程を読むと大雑把に見てこの8年間は、或るカ所への定住が約4年間、移動している時が約3年間とわけられる。 残りの一年はどちらとも言い切れない月日である。 18歳で祖国を離れて、25歳から8年の潜行そして帰国、果敢な青年期であった。


以下次回へ

2010/04/22

西川一三を語る (上)


「秘境西域八年の潜行」(上・中・下) 著者西川一三  中公文庫全3巻 (1990年発行)がある。 原稿三千二百枚の大作である。 

西域潜行当時の肩書は、張家口大使館調査室勤務とある。 秘境西域とあるが、広義の解釈の西域と云うことで、難しいことは言わないでほしい。 この本の内容の、おもしろさ、すごさ、偉さは自ら読んでみないと実感はないでしょう。 
表題のとおり、西域への潜行である。 なぜ潜行かとゆうと、時代背景は第二次大戦の日本が敗戦へとなだれ込んで行く時である。

昭和18年(1943年)10月23日、内蒙古トクミン廟 (フフホトの北約180キロ地点あたりか) を日本人青年が蒙古人ラマ僧になり三川ラマ達一行と、まず中国軍勢力圏の寧夏 (ニンシャ) 省阿拉善旗 (アラシャンキ) へと出発した。
・・・と云うと、なにか血踊り肉騒ぐという、冒険活劇ものと思われるかもしれ ないが、その様な面白さ生易しさでは決してない。

とにかく、その足で歩いた8年間の行程を追ってみよう。
1943年10月23日、自分は駱駝2頭を引いて、仲間5人で雪の吹きつける夜中トクミン廟を出発。 ~中公旗王附~狼山山脈を左に見て善丹廟~峠を越えゴビ沙漠~寧夏省阿拉善旗からバロン廟へ。寒気にさらされ、果てしない草原を渡り、沙漠の町に到着した。 この間、トクミン廟を発って、歩いて約1カ月を要している。

バロン廟で約10カ月、次期出発の時を待つ。 この間、1944年の正月を迎える。 日本人と誰ひとり疑うものなく、蒙古ラマの自信を深めるとある。

1944年9月中旬、バロン廟に別れを告げ、駱駝引きとなり定遠営 (阿拉善 の旧名、人口七・八千の蒙、漢、回、蔵の民が雑居する小さな町) で荷を積み出発、青海へ向かう。
定遠営を出発して6日目に甘粛省に入る。 内蒙地方からタール寺参詣の巡礼者間では、アラシャンのテングリ沙漠の通過と大通河の渡渉と甘粛への山越えテングリ峠は三大難所と言われていた。
定遠営出発から17日目 に西寧に到着、4日滞在後西南40キロにあるタール寺へ到着。 この間約1カ月弱で歩き通す。

1945年、タール寺で正月を迎える。 正月7日、トクミン廟出発以来ホーラン山 ( バロン廟を指すのか) まで同行してくれたオールズとイシが三川から出てきて再会。
1月下旬には、内蒙古からの連絡が届く。 命令は連れて帰ってくるように とあったが断る。 伝令の蒙人二人の人情の厚さに、そしてその義理堅さに、敬服すべき民族と、再び内蒙百霊廟へ戻る二人の道中の平安を祈る。
ようやくチベット人隊の駱夫として青海蒙古へ向かうことになる。 この間、4か月余タール寺に滞在し出発の機会を待つ。

2月初旬、ラマ教の聖地青海省タール寺を出発して、タングート、青海蒙古人、 ハクサの青海湖畔を駱駝を追いながら16日目に尚格(シヤン)に到着。春の農耕、夏のツアイダム盆地の蚊の凄さ、砂金採り、ククート旗で捕らわ れていた木村大兄の一行も軟禁がとけチベット巡礼の準備にかかっている という噂、などなど約6カ月、地の果てツアイダム盆地のシャンにさ迷う。
チベットに向かう大商隊の情報を得る。 このためにヤク2頭を手に入れる。

1945年7月13日大安日、大商隊に加わりラサに向け二頭のヤクとシヤンを出発する。 ヤクの尻を追って無人境地帯を南に歩く、タングート人、三千mの高原に横たわるホンハンブダの四千五百mの峠越え。 シュキンゴール山脈そしてコンロンを望む。そのコンロンを越え、ひと騒動の大河を泳ぐ。揚子江の源流を渡り、タンランの峰に登りチベット高原に出る。出発して3カ月目に始めて人里に着く。 無人地帯より怖い人里、ナクチュー泥棒と燃料不足、狡猾なチベット役人、遊牧地帯から農耕地帯へ。 ナクチュー、ラサ間のオルトボルクで日中平和締結を聞く。
歩き通して108日目、10月28日にラサに到着する。


以下次回へ

 

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