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2010/04/22

西川一三を語る (上)


「秘境西域八年の潜行」(上・中・下) 著者西川一三  中公文庫全3巻 (1990年発行)がある。 原稿三千二百枚の大作である。 

西域潜行当時の肩書は、張家口大使館調査室勤務とある。 秘境西域とあるが、広義の解釈の西域と云うことで、難しいことは言わないでほしい。 この本の内容の、おもしろさ、すごさ、偉さは自ら読んでみないと実感はないでしょう。 
表題のとおり、西域への潜行である。 なぜ潜行かとゆうと、時代背景は第二次大戦の日本が敗戦へとなだれ込んで行く時である。

昭和18年(1943年)10月23日、内蒙古トクミン廟 (フフホトの北約180キロ地点あたりか) を日本人青年が蒙古人ラマ僧になり三川ラマ達一行と、まず中国軍勢力圏の寧夏 (ニンシャ) 省阿拉善旗 (アラシャンキ) へと出発した。
・・・と云うと、なにか血踊り肉騒ぐという、冒険活劇ものと思われるかもしれ ないが、その様な面白さ生易しさでは決してない。

とにかく、その足で歩いた8年間の行程を追ってみよう。
1943年10月23日、自分は駱駝2頭を引いて、仲間5人で雪の吹きつける夜中トクミン廟を出発。 ~中公旗王附~狼山山脈を左に見て善丹廟~峠を越えゴビ沙漠~寧夏省阿拉善旗からバロン廟へ。寒気にさらされ、果てしない草原を渡り、沙漠の町に到着した。 この間、トクミン廟を発って、歩いて約1カ月を要している。

バロン廟で約10カ月、次期出発の時を待つ。 この間、1944年の正月を迎える。 日本人と誰ひとり疑うものなく、蒙古ラマの自信を深めるとある。

1944年9月中旬、バロン廟に別れを告げ、駱駝引きとなり定遠営 (阿拉善 の旧名、人口七・八千の蒙、漢、回、蔵の民が雑居する小さな町) で荷を積み出発、青海へ向かう。
定遠営を出発して6日目に甘粛省に入る。 内蒙地方からタール寺参詣の巡礼者間では、アラシャンのテングリ沙漠の通過と大通河の渡渉と甘粛への山越えテングリ峠は三大難所と言われていた。
定遠営出発から17日目 に西寧に到着、4日滞在後西南40キロにあるタール寺へ到着。 この間約1カ月弱で歩き通す。

1945年、タール寺で正月を迎える。 正月7日、トクミン廟出発以来ホーラン山 ( バロン廟を指すのか) まで同行してくれたオールズとイシが三川から出てきて再会。
1月下旬には、内蒙古からの連絡が届く。 命令は連れて帰ってくるように とあったが断る。 伝令の蒙人二人の人情の厚さに、そしてその義理堅さに、敬服すべき民族と、再び内蒙百霊廟へ戻る二人の道中の平安を祈る。
ようやくチベット人隊の駱夫として青海蒙古へ向かうことになる。 この間、4か月余タール寺に滞在し出発の機会を待つ。

2月初旬、ラマ教の聖地青海省タール寺を出発して、タングート、青海蒙古人、 ハクサの青海湖畔を駱駝を追いながら16日目に尚格(シヤン)に到着。春の農耕、夏のツアイダム盆地の蚊の凄さ、砂金採り、ククート旗で捕らわ れていた木村大兄の一行も軟禁がとけチベット巡礼の準備にかかっている という噂、などなど約6カ月、地の果てツアイダム盆地のシャンにさ迷う。
チベットに向かう大商隊の情報を得る。 このためにヤク2頭を手に入れる。

1945年7月13日大安日、大商隊に加わりラサに向け二頭のヤクとシヤンを出発する。 ヤクの尻を追って無人境地帯を南に歩く、タングート人、三千mの高原に横たわるホンハンブダの四千五百mの峠越え。 シュキンゴール山脈そしてコンロンを望む。そのコンロンを越え、ひと騒動の大河を泳ぐ。揚子江の源流を渡り、タンランの峰に登りチベット高原に出る。出発して3カ月目に始めて人里に着く。 無人地帯より怖い人里、ナクチュー泥棒と燃料不足、狡猾なチベット役人、遊牧地帯から農耕地帯へ。 ナクチュー、ラサ間のオルトボルクで日中平和締結を聞く。
歩き通して108日目、10月28日にラサに到着する。


以下次回へ

 

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