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2010年5月

2010/05/02

西川一三を語る (下)


1950年(昭和25)6月13日帰国、一カ月もたっていなかったのだが、GHQ(総司令部)から出頭命令を受け取ったのである。 
中国山脈の山深い寒村の故郷に戻っていたが、急きょ東京に出ることに。  出頭前に行きがかり上、日本の外務省に挨拶に行くが、敗戦国と云うこともあったのか、全く相手にはされなかった。

アメリカは違った、「インドから帰国したそうだが、戦時中、どこどこに いたのか、その任務と行動は?それを詳しくこの通訳に話してくれ」、 それから土日休日のほかは、9時出頭4時解放、1年間に及び調書を取られた。 その間、冬の間も意地でインド服と素足にサンダルをはいて通し、日当1千円を受け取った。 この通訳は、この巧によって2階級特進したそうだ。 8年間の死地を潜り抜けて来たが、日本政府からは一顧だにされなかった。 しかしGHQには売らない、自分の足跡を残したいとの思いで、事実の記録を残すことにした。 こうして「秘境西域八年の潜行」は刊行されたのである。

日本の敗戦まぎわの内モンゴルから西方へ、国境は日本軍と中国軍の 前線地帯、それから先も異国人には厳しい眼が突き刺さるなか、交戦中の日本人の踏査はきわめて困難であった。 そのような状況下、なにをして彼に8年間の潜行をさせたのだろう。

 「張家口大使館調査室勤務」という使命も勿論あっただろうが、それだけでは8年の歳月を、ふさぐことは出来なかっただろう。 彼も書いているが、「あの未知の世界への夢に、毎日をつないだ」とある。 辺境の人や人々、ラクダやヤクに愛情と慈しみと信頼を与え、そして与えられた。大自然の草原や沙漠、湖や河、氷雪の交じる山岳に、そして荒涼とした果てしない大地に畏敬の念と、その美しさに感動する心を持って、旅を重ね続けた。 

書き綴られる記録には、その土地、地域の人達の衣食住にかかわる細かな観察、日常の生活、社会状況、社会構造、経済状況・・・等が次々と語られている。ラマ僧に身を変えての旅だから、いろんな諸民族のラマ僧の世界、寺の生態、組織が細かに幾通りにも綴られている。 そして隣り合う回教、ラマの世界も難しそうである。
まさに野外研究者の眼であった。

テングリ沙漠を越え高廟鎮へ向かう間の、大通河手前の山地で、長蛇のような大道が南北に延びる、赤色ルートに出会った時などは、調査室勤務の眼も見え隠れする。 
赤色ルートとは、西安から蘭州、安西そしてウルムチへ、さらに西方へと続く、かつてのシルクロードなのである。 この絹の道も、海上の絹の道にとって変わられて後でも、西域の人々の公路ではあっただろうが。
日中事変勃発後の日本軍の海岸線封鎖により、蒋政権や延安の共産軍への補給ルートとして、ビルマルートと共に注目を浴びていたという。 それを目の当たりのして、胸に湧き上がるものがあったそうだ。

最後に一つ、文中の抜粋を上げておきたい。
定遠営から聖地タール寺への途に就くために、ラクダ引きの仕事を引き受けたが、これが大変な仕事であると後でわかる。
どのラクダにどの荷物をと、出発の時の荷積み。 到着しての荷下ろし、それからラクダを良い草地への放牧から始まり、朝までのラクダの管理。 たった16頭の自分のラクダの区別がつかない。 気軽にラクダ引きを受けたものだと自分を恨んだと。 この苦労には泣きたい思いだった、そうである。

「・・・というのは、蒙古人たちは生まれながら毎日、家畜の顔に接している。 そのため一見しただけで、われわれが字を覚え、五百字の中からどの字でもすぐ選び出すのと同様、家畜の姿、毛色、顔まですっかり区別している。 人間に名前を付けるのと同じに、牡、牝、姿の特徴によって仮の名を付け、何百頭いようと、いとも簡単に「何々君」と、人に接しているようにラクダを処理しているから、たまらない。 蒙古人と名乗っているのだから、家畜についても彼らと同じでなければならないのに、まったく蒙古の子供にも劣るのだ・・・。」 とあるのだった。

以上、西川一三の八年間の記録である。 特筆すべきは、この過酷な生活環境の中で、病気は凍傷を除けば、たった2回の回帰熱 だけだったことは驚きである。 
この8年間の出来事を、記憶と云う忘却にも等しいものの中から、引き出し、3年をかけ書き上げたということも、潜行と同じく大仕事だったのだろう。

今西の組織する第2次ヒマラヤ計画がまたしても日中事変で再び流れた、今西錦司は今度は内蒙古調査に切り替えた。
1938年のことであった。 「草原をどこまでも西へ旅していったら、いつかは中央アジアに行けるという、大陸の魅了なのかもしれない。 われわれは実際内蒙古で、中央アジアからはるばるやってきたというラクダの隊商を見かけて、胸をおどらせたものである。」といっている。

1939年、第2次蒙古行き、1942年、大興安嶺探検、1944年、西北研究所へ出向く、終戦 1946年帰国。
蒙古の調査が、戦後今西先生の学問的展開の基盤の仕込みを整わせ、あとは醗酵を待つばかりであった。
まったくかかわりあいはなく、ただ時を同じくして、各々の夢を持ち、同じ内蒙古の土地を踏んでいる二人。
*ここでは蒙古善隣協会、西北研究所等についてはふれないでおくことに

すでに長い時が流れたが、当時盛岡の日本山学会岩手支部長、いまは亡き佐藤敏彦さんが労をとり個の西川一三、組織の今西錦司、両氏を引き合わせた。
岩手山登山の前夜、1976年4月1日、盛岡市の小田島旅館 でのことであった。



*この岩手山登山、山は前夜の雪に当日強風雨で中止、1978年再登頂なる
*西川一三(かずみ) 1918年9月17日~2008年2月7日
山口県阿武郡地副村(現、山口市)生まれ 1936年、福岡県中学修猷館卒 、満鉄入社




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