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2010/06/10

AFRICA 1958 ( 1)   


このタイトルは、今西錦司先生が学問上の次のステップを目指し、東アフリカ、 中部アフリカ、欧米を 「(財)日本モンキーセンター第1次ゴリラ調査隊」を名乗り、1958年2月から7月までの旅をしたときの、フィールドノート(個人的な日誌)のタイトルである。 量はノート 13冊分、1冊がだいたい原稿用紙換算で90枚程度、但しこれはあくまで概算であるが、それが13冊あるのだ。

以前なにかのお話の中で、荻野和彦さんの私信に「今西さんのほんとうの偉さ、すごさが分かって いないのでは・・・」という一筆がありました。
ほんとうの偉さ、すごさ・・・。 我々の世代では、すでに功なり名をとげた今西錦司像にしか、接することはできなかったのです。 それなら、でき上がった今西錦司ではなく、その過程のなかで今西錦司の偉さ、すごさとは、を探ることはできないだろうか。 そのヒントは、一つの過程を160日間記録したフィールドノートにあるのではないか。 

このノート、第一次ゴリラ調査隊が1958年出発するまでの経緯を、簡単に説明し ておきましょう。
今西錦司全集第6巻の解題で伊谷純一郎は次のような文を残されておられる。  「・・・今西先生は、1964年に大陸から帰国され、京都大学理学部動物学教室に籍を置いておられた。 籍といっても、無給の講師とかで、教室の北にある別館一階の北向きの部屋(いまは私たちの自然人類学の解剖室になってしまっている)の、コンクリートの床に畳を一枚敷いて、小さな机に向かっておられた。 広大な蒙古のステッぺとはまことに対蹠的な、蟄居というにふさわしい狭い部屋で、若かった私は、何か蕭条とした印象を、この部屋とこの部屋の主から受けたのを記憶している。その当時、先生はおそらく、「生物社会の論理」の稿を進めながら、戦後の混乱と貧困に喘ぐ日本の中で、どうすれば雄大にして健全な生態学を推し進めることができるかという構想を練っておられたにちがいない。・・・」(1974年)とあります。

その当時の今西先生は、1946年6月帰国、翌年には奈良大和の平野村総合調査。 1948年4月九州 御崎馬、12月にはサルに遭遇。 九州の山が内地の山、再開になる。 その後、都井岬の半野生馬、幸島のサル、高崎山のサル、霊長類グループ発足、(財)日本モンキーセンター発足となってゆく。
1948年「自然史学会」を組織、目的は自然科学と人文科学との接触領域における具体的研究の促進、事業は(イ)月例談話会の開催とある、多彩な講師陣を輩出する(~1952)。 1950年京都大学人文科学研究所講師として移る。 1951年「生物誌研究会」(略称FF結成)、翌年AACK再発足、これらがマナスル、カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の母体となる。
1952年マナスル登山隊偵察、1955年カラコラム・ヒンズークシ学術探検を行う。
そして「草原行」「遊牧論その他」「生物社会の論理」「常緑広葉樹林」「御崎馬の社会調査」「都井岬の馬」「村と人間」「自然と文化」「山と探検」「人間以前の社会」「人間」「大興安嶺探検」「ニホンザルの自然社会」「人間性の進化」「日本動物記」「霊長類研究グループの立場」「トリ・サル・人間」「ヒマラヤを語る」「カラコラム探検の記録」・・・等々を発表している。
これが、今西先生が敗戦後帰国してから1957年ごろまでの足跡である。

帰国以来今西先生は、すすむべき先をすでに見据えて、個、組織、会とやつぎばやに行動を起 こしていった。
「・・・本能と文化という対立概念を持ち出し、サルどもの現わす行動のうちに、はた してどのくらい、われわれ人類とおなじ文化的現象と呼びうる行動がみとめられるかを、問題とした。・・・」(今西錦司)  日本の霊長類学が開花して行くときである。

さてこの1958年頃の世相はどんな様子だったのだろう。
はがき5円、封書10円、ふろ代15円、理髪台150円、大卒初任給1万3467円。
平均寿命 男65歳、女69.9歳、4人に一人が栄養不足。
東京タワー、スバル360、一万円札、チキンラーメン、団地族、神風タクシー、 関門トンネル、ロカビリー、南極横断、月光仮面、フルシチョフ、1ドル360円。
おーい中村君、嵐を呼ぶ男、からたち日記、母さんの歌、星は何でも知っている、夕焼トンビ。
週刊誌創刊ラッシュ、松本清張(点と線)、人間の条件[五味川)、三種の神器(TV・冷・洗)、栃若時代、ソニー、エザキダイオード、チョゴリザ。  ・・・・・・。

そして、その第1次ゴリラ調査隊とは、
1955年の秋、人類学民族学連合大会が名古屋であった。ここでの今西さん達のサルのカルチュア論の発表には、大論争がおこった。 発表した側にも今西さんをのぞき、すくなからず動揺があったようだ。
そんなところへ主役のサルを仲立ちとして、名古屋鉄道の人が訪ねてきた。 観光目的にサルを世話していただきたいとの申し出に、我々の考えている比較研究のために世界中のサルを一か所に集めた施設がほしいと訴え、そのスポンサーになっていただきたいと。 お互いの思いが一致し、文部省と交渉し、財団法人として犬山市に作ることに決まった。
1956年(財)日本モンキーセンターは翌年開所した。 

1958年、日本モンキーセンターの世界サルの聚集と欧米の動物園の管理実情視察、余分のサルを持っていたらニホンザルとの交換。そして、もうそろそろニホンザルから類人猿への移行を試みたいと考えていたやさき、それは他ならぬアフリカのゴリラの予備調査のことだった。
経費はセンターの企画として名鉄にお願いをする。 この当時まだ
日本円の持ち出しが統制されていて、名義上は伊藤忠の嘱託ということにしてもらった。 このようないきさつで、二つの目的を持ってゴリラ調査隊は出発を迎えた。

この時、今西錦司 56歳  肩書 京大講師、同行者 伊谷純一郎 31歳 (財)日本モンキーセンター専任。
2月2日 京都発つばめ、3日 東京滞在、4日 羽田発 Air India


以下次回へ








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