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2010/07/01

AFRICA 1958 ( 2)


羽田発の便が、香港が霧で出港は2時間おくれ真夜中となる。 

では、この間を 利用させていただいて・・・、
人は今西錦司を評して、比類なき天性のリーダーだという。 その言に決して間 違いはないだろう。 常に pioneer を目指した、今西先生92年間生涯の山・探検・学問研究の歩かれた道のあとを見れば、一目瞭然である。
そして、それらが生まれ出る過程はどのようなものであったのか、それを垣間見られれば偉さ、凄さが、ぐっと近くなってくるのではないか。  そうでなければ、晩年の泰然自若とした先生の姿にしか接したことのない者には、偉さ、凄さは天性のそなわったものとしてすまされてしまうだろう。 
先生の後年のリーダー論のなかでリーダーの条件として、
a、人間的な魅力  b、覚悟があること c、洞察力のあること
の三点をあげておられる。
b、というのは、物事に動ぜず、使命感を持って、人事をつくす。
c、直観力、勘 のええ人・・・・、 との註釈がある。

いつだったか、「アノナー  ドンナ山カテナ 家アケンナラント思フトナ 心サミシクナルコトアルンヤゼ・・・」、 とおっしゃられた。
それは剛の先生から出てこられる言葉とは、思ってもみなかったのである。 眉と眉のあいだに、しわをよせて、一文字に結んだ口のまま、眼鏡の奥の目が笑っておられた。 先生でもそんなことを思われるのかと、いっしゅん先生がぐっと近くに居られるような気持にさせられた。

さて、羽田-ホンコン-タイ・バンコックに到着。 戦後3度目の海外行である。
羽田を夜なかの出発、朝には台湾南端を飛びながらガランビをはっきりと目にし、ホンコンで は久しぶりに接する中国人民衆に興を持ち(終戦後10か月程北京で過ごす)、インドシナ上空では眼下のジャングルを見、コラート高原をくだり、真冬の日本から暑さのバンコックだ。 あくる日、バンコック発に乗る予定がアクセス・アクシデントで出発日を延ばす。
ちょうど、大阪市大調査隊の梅棹忠夫らが、バンコックへ帰ってきたところで、 会える。 みな元気で調査も上手くいっていることに喜ぶ。 
次のナイロビ乗継まで暑いバンコックの4日間、休むことなく良く食べ、飲み、 話し、会い、歩く、先生56歳。
動物園なども動物ばかりでなく、園内の配置のあり様、また園内にどのような人達が訪れているのかをつぶさに見ている。 siamese と chinesseの関係、働く女性、街の経済状況と、何事にも貪欲な眼がひかる。 そして、なかなか金銭感覚にもシビアなめんがある。
日本出発間際に得たアフリカ訪問者へのコンタクトの手紙を数通送っている。  なんともよく動くのである。 4日間が大変よい warming upができたと記し、アフリカの地へ飛び込むpionieer を再確認している。 

2月9日、 バンコック発-カルカッタ-ボンベイ-カラチ-アデン-ナイロビ着。  機内の様子、機上からの景観、立ち寄る飛行場等にも観察の眼は休むことはなかった。 10日、「・・・酔イガ サメヌウチニ モウナイロビダ、 ココハイママデノ savanna トチガッテ青々トシテイル ナカナカ広イシ コレデハ足ヲモタヌ ワレワレニトッテ 困ッタコトニナリソーダト思ウ、 街ノ上ヲ一週シテ 飛行機ハ赤土ノ滑走路ノ上 ニ着陸シタ・・・」、とある。

今西先生の求める学問研究の舞台として、アフリカが登場するのは定められ た一つの大きな流れであったのだろう。 その流れの中ほど近くに蒙古があった。 
Nairobi に降り立った時の印象が語られている。 「・・・アツイトイッテモ タイトクラベレバ モノニナラナイ 第一高原ノ風ガ吹イ テイルノガ ナニヨリモウレシイ コレハ空港ヘオリタトキニ スデニソート感ジタノダ 高原ニ帰ッテキタ 蒙古以来何年カブリニ 高原ニ帰ッテキタノダトイウ気ガシタ・・・」、 確かに暑いタイから標高1600mのケニア・ナイロビに立てば、この気持ちは正直な感想だろうと思った。
しかし、アフリカ到着一週間後、ナイロビ北方ケニア山近くの Rumuruti へ動物 商 Carr Hartly の farm を訪ね用話を行った時、そこから北を見るとずっと地平線がつづいていた。
「・・・コレハ久シブリニ見タ チヘイセンダッタ ソレニ今日 rift vally デ マサイ ガ牛ヲ追ッテイルノヲ見 蒙古ノパオヲ オモワセルヨーナ キクユ カンバ ノ家ヲ見 ジリジリ照リツケル高原ノ暑サト ソノ上ヲ吹ク清凛ナ風ナドガ カラミアッテ 高原蒙古ヘカエッテキタヨウナ気持ガシタ ソシテ蒙古ガタトヘ ホアンヤン ヤ 狼ガイヨウトモ ドコヘ行ッテモ 蒙古人ノ牧野ガアッタ・・・」、と地平線、風、野獣、放牧等と彩られてくると、空港で味わった高原の風とは一味ちがう、蒙古の印象が鮮明に胸中をしめてくる。
アフリカの山(ケニア山)すそは、おそろしく広い、いくら走っても、どこまで行っても、おなじよーな高原を走っているばかりである。 それにちっとも燈火が見えてこない。
「・・・イツカ蒙古高原デ 日ノ暮レタトキノ サムシカッタコトヲ チョット思イダシタノ デアル・・・」、とまで言っている。
そして、ナイロビへ戻る途中では、「・・・ Nyari マデノ荒漠タル原野ヲ 牛飼ガチラホライルニスギナイ サビシイトコロ ヲ通ッテキタアトデ コンナ開墾ノススンダトコロヲ通ト チョード蒙古人チタイカラ漢人チタイヘ 出テキタヨーナ気ガスル・・・」、と表現している。 
こののち、タンガニーカ(タンザニア)のアリュウシャを訪れた時にも、「夜ハマタ空気 ガ冷エテ サワヤカデアル 張家口アタリノ夜ヲ思ワセル・・・」、とケニアでは蒙古のたとえがよく出てくる。 
地理的環境の似ているところを見ている、というのでなくなく一つの大河の流れの中で、蒙古とは特別な位置を持っていたのだろう。



以下次回へ




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