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2010年7月

2010/07/28

AFRICA 1958 ( 4)


「・・・窓ハ編戸ニナッテイテ、湖ノ方カラツメタイ風ガサカンニ吹イテクル、コレハナニヨリノ御馳走ダ、ココハホトンド赤道ノ下ナンダカラ、冷シイナドトハイエタ義理デハナイハズナンダカラ・・・」 ウガンダ、ヴィクトリア湖の湖畔に位置する閑静なきれいな場所であるエンテベのホテルでは御機嫌である。 
エンテベは1962年独立をするまでは、イギリス領ウガンダの首都とされていた。 現在も国際空港はエンベテにある。
東アフリカ諸国をつなぐヴィクトリア湖は、世界第3位の大きさである。 水面標高が1134m、ちなみにカンパラの標高でさえ1千2~300mぐらいはあるだろうか。

エンテベでの2日間は忙しかった。 
日中は、歩くとやはり汗が出てくるのだ、が気持のよい汗だ。 この赤道の 暑さは暑いといえど真夏の暑さでなく、春の暑さという方が良い、と感想を述べている。 Game Worden の Mayor Kinloch 氏に会いにゆく、Kinloch 氏の不在のあいだ Mr.Anderson と云う人が相手をしてくれ、ゴリラ、チンプのことを書いたパンフを貸してくれた。 Ruwenzori に登りたいのだが、の相談には、山に明るい人を紹介してくれた。 その後、現れた Kinloch氏は役人らしさがなく、にこやかに応対してくれ、地図とパンフをくれた。 そしてチンプのbaby がいるから案内させると、案内人を付けてくれた。 そのチンパンジーはウガンダで捕れたもので、チンプのいるところが大分はっきりした。
次に Ruwenzori の件で紹介してもらった Mr.Osmaston 氏を自宅に訪ねた。 Uganda mountaineering club 発行の案内パンフと地図をくれた。 山の話、アフリカの植物のについて沢山教えられる、vebitation への興味が あると知ると本を貸してくれた。 そして現地で、山に明るい人への連絡を取ってくれると約束してくれた。
「ドノ人モ コノ人モ 親切ナ人バカリダ・・・」 とある。
遅くまで、今日もらった資料読みにかかってしまったが、しかしまだ借りた文献がある。 ここでは暇があると思っていたが、とても暇などはなかったのである。  

翌日、「・・・昨夜ハ相当オソクマデ文献ヨミニカカッテシマッタ、ネタノハ2時ヲマワッテイタダロー、シカシマダ昨日カリタ文献ガノコッテイル、breakfastノノチ、伊谷ニLandOffice デ地図ヲ買ウノト、モウ一度 Mayor Kinloch ヲタズネテ Baumgartel 宛ノ紹介状ヲモラウ仕事ヲ引キウケテモラウ、ソノ間コチラハroomデ文献読ミヲツヅケタ、昨日イライ次第ニRuwenzori ニ対スル興味ガワイテキタ、 ・・・・・・・・オレモ日本ヤヒマラヤデ Höhenstufen ヲヤッテキタモノダ、Africaデモコノ問題ニ素知ラヌ顔ヲスルワケニハユカナイノデアル・・・」と、言っているのだ。
午後、Osmaston 氏の office を訪ねて好意に礼を述べ、昨日の興味ある本を一冊借りることをお願いする。 
「・・・彼ハ困ッタヨーナ顔ダッタケレド、ヨカロートイッテ、・・・」 
大事な本のようだったが、わざわざビニールの袋に入れてから貸してくれた。
それから前日見逃した Botanical garden に寄る。 tropical rainforest の model がつくってあった。 
そして最後に いろいろなサルが飼われているという、 East African Virus Research Institute へ行った。  そこでMr.Alec Haddow 氏にあう。 言葉はすくなくてもお互いの共通の interest というものがあり、お互いに通いあうものがあると見える。 彼は primatologist だ。 J.M.Cにある本にくらべて、彼の書庫にある本は、ずっと手垢がよけいについていた。 彼が使用しているに違いない。 再会を約して別れ、カンパラにむかった。
56歳と云えば決して若いとはいえない歳であるが、新しい知識にむかうこの貪欲さは何であろうか。 
カンパラのホテルに土屋、藤島両氏あらわれる。この藤島氏は岳人でもあった藤島敏男の子息である。

さすがにカンパラに着いた翌朝は、なんだか二日酔いのような体調になり、食欲がなかった。 前夜は伊谷に薬をもらって飲んで寝たようだ。 
伊谷と藤島は自動車の交渉に行ってもらった。 
用事で外出をするが、この日は疲れのせいか忘れ物をよくする日だった。  自動車交渉は桑島氏のおかげで予想外にうまくいったと報告を受ける。 
約束の時間に Uganda mountaineering club の Mr.Rothery 氏がホテルにきてくれた。 若いが話もゆっくり話してくれよくわかる。伊谷もでてきて会った。 いろいろの紹介や、Fort Portal の地方責任者へ紹介状を書いてくれ 、自分でも手紙を出しておくと言ってくれた。
「山男ハ Osmaston トイイ Rothery トイイ、ミナ物静カナ、親切ナ男バカリノヨーナ気ガスル、ウレシクナッタ」 とあるのだ。 

完全休養日を設けたカンパラ二日目に、カンパラ在住の噂の日本人桑島氏に初めて会った。 小柄な人だった、そとの暮らしが長いのでもう日本語を忘れてしまった、と云うのはウソだった。 夕食の招待を受ける。 日中は休み、日本への手紙かきをする。

カンパラ最後の日、桑島氏にいろいろな買い物をお願いする。 Kisoro の camp でお粥が啜れるように桑島氏が 茶碗を用意してくれた。 午后に荷物がそろったので詰め替え作業をする。 ジュラルミンのスーツケース、ショルダー、リュック、最後にいつも持ってゆく、薄汚いカラコラム帰りの何でも入れを持ってゆく。 会計予算、一日一人75shr でやってゆくことにする。
 Information office に Baumgartel 氏から待っているという 手紙が着いていた。 夕方、桑島氏が婦人同伴でこられ、醤油(支那)、味噌、もろみの缶詰めをいただいた。夕食にご一緒にと誘うが子供を病院へ連れてゆかねばならぬと云うので後日を約す。
「・・ベランダデ冷ム 月ハ中天ニアリ 街ハネシズマッテイル・・」
自動車も用意ができた。 カンパラでの準備も終了、いよいよ明日から20日間のウガンダ、ゴリラ調査だ。



以下次回へ






2010/07/11

AFRICA 1958 ( 3)


この当時(1958年)、調査地のケニア、タンガニーカ、ウガンダ、ルワンダ、コンゴ、カメルーン等の国々は、まだ独立前夜だった。
前進基地 ケニア・ナイロビには2週間滞在をする。 
その間に Rumuruti と Arusha へ数日間、用話のため出向いている。

東アフリカの窓口ナイロビでの目的は、日本モンキーセンターのサルの聚集とゴリラ予備調査、二つの目的のための現地情報収集が先ず課せられたことであったろう。 勿論、出発前の準備には怠りなくとも、その確認を取ることであった。
「・・・カメルーンの低地ゴリラに関しては、出発間際に吉場(健二)が届けてくれ、旅のつれづれに読んだメルフィールドの、「ゴリラは私の隣人だった」(1956)という本に書いてあることが、カメルーンに関する知識の全てと云う心細さであった。・・・」とすらある。 しかしカメルーンには上野動物園にゴリラ三頭を送ったという、動物商フィリップ・キャロルがいる。 

出発時の情報は心許ないものであっただろう。 しかし、いやだからやるのである。 ナイロビでは林田領事に紹介していただいた Coryndon MuseumのL.S.B.Leakey氏に会い東アフリカのゴリラの状況を聞き、人も紹介してもらった。 Museum からゴリラに関する本を買ったり、領事にお願いして何冊もの本を貸し出してもらい、忙しい時間の中で読書時間を作りゴリラ情報を貪欲に収集する。 いろいろな情報をつかんでゆく中で、アフリカの旅行がもはや、すっかり自動車の時代になっていることを実感する。

サルの聚集の話ではナイロビの北方、約200キロ地点にある Rumuruti を訪れている。 ナイロビに事務所を持つ動物商 Carr Hartleyの farme である。 沢山の動物に会い、用話を済ませている。 Leakey 氏の事務所でもそうだったが、ここでも家族が飼っているだろう野生動物に、先生はうっとりして見つめている。 本質的に動物は好きなんだろう。 ここでも本業にかかわる動物商の持っているゴリラの情報を仕入れている。 
Rumuruitへ 行くときにナイロビでは、「・・・マオマオノアマリ札ツキデナイノガ ブチコマレテイル concentration campノ前ヲトーッタ・・・」と、ケニヤで起こっているマウマウ団事件のことも直視している様子だ。 このサファリでナイロビに戻ってから、見て来た植物に付いてが気になることがあるようで、早速にBotanical Garden に出向いて、気になっていたことを解決したようだ。 気になることはすぐに確認をしている。
アフリカに着いてからの、初めての一泊のサファリで「・・・今日ハ大イニ愉快ダッタ ハジメテアフリカノ空気ヲ吸ッタヨウナ気ニナッタ・・・」と、いっている。

もう一度は、今度はナイロビの南方、約250キロ地点にある Arusha (当時タンガニーカ、現タンザニア)を訪れた。 ここでは Tanganyka game Farmeの Mr.Rule を訪ねた、彼も動物商である。
彼に会って驚いた。 何のことはないナイロビに来る時 Bonbay (現、ムンバイ)で一緒になったおっさんだ。待合室へ、ヘルメットをかぶった親父があらわれ何者だと思わせた、その人であった。 印度へ動物を運んだ帰りだったそうだ。 好感のもてる好男子だった。 やはり動物を見てまわる、用話ではサルはいくらでも手に入れることができるということだった。 
ここでも「・・・Mr.Ruhe の frau ガ胸ニダイテ出テキタ、右ノ胸ニハ vervet monkey ノ子供、左ノ胸ニハ dog-lacedbaboonノ子供デアル 二匹トモシガミツイテ ヨク馴レ、可愛イイコト 日本ザルノbabyニ劣ラナイ・・・」と、動物を見る目がどうしようもないような様子である。
farme からホテルへ帰る夜道で頭上に南十字星をみる。 
Arusha ではこの後、山と釣りに挑戦している。
山は Meru 山(4565m)を日帰りで登山する。 「・・・今日ハホントウニ伊谷モヘバッテルラシイ、モウ止メヨウト、思ッタコトガ二度ホドアッタガ、登レテヨカッタ、伊谷モ登レテヨカッタ」と、ある。
日本を出て、休むことのない行動の中での、山登りはこたえたようだ。  釣りは鱒を釣る。
「・・・Tanganyka ノ4日ハカクシテ終ッタガ、ナイロビトチガイ、日本人ハ1人モイナイトコロデ勝負シテ、マアトニカク、meru ニモ登リ troutモ釣ッタ、上出来ダ、ナンラ思イノコストコロハナイ」と云っている。
ここでも相変わらずの自然、人と社会状況、生き物への観察眼は休むことがないのだ。

ナイロビ滞在では領事・副領事、それに奥さんたちにもお世話になっている。 館には公的な Application をお願いする。  商社の人達とも大勢の人に会い、現実直視の実践的な話に耳をかたむけている。 お呼びのかかるパーティには出席をして、たえず人の中に身を置いている。 これも大事な調査隊の仕事であろうか。
今後の行動予定の資金不足を計算し、ここ(ナイロビ)でしか資金の調達は難しいと見ると、借金をお願いしている。  泰然としたイメージとは裏腹に、先の読みの深さと、そのあとの行動は迅速である。

滞在中には National Park へは3度も訪れている。一度は大雨のために門が閉まっていた。 先ずはアフリカの 動物たちに会えるだけあっておこうとしているようだ。いろんな名前の動物が次から次へととめどなく出てくる。 これでアフリカがぐっとまた身近になった。 どうも先生は、高貴な姿をしたキリンがお気に入りのようだ。

ナイロビでの逸話には、副領事の浅井さん宅でのパーティーでは二回とも酩酊してしまったようだ。 きっと居心地が良かったのだろう、しきりに飲み過ぎを反省をしてはいるのだが・・・。 せっかくの奥さん手製のうどんを食いそびれたので、再度お願いをした二回目も記憶には無いようである。
もう一つは、ナイロビでサファリ服を手に入れたのだが、それがまったく似合わず気に入らないようで、購入した失敗を大いに嘆いているのだ。 その時一緒に買った伊谷さんの値段の高い帽子と、自分のサファリ服が、ともに似合わぬものの例えのようにいっているのだ。 とにかく、自分の敗残兵のようなサファリ服はしまいこむことにしたそうだ。 あんがい服装には気をかけられていたのだろうか。

いよいよ、前進基地としてのナイロビの滞在は終わったようだ。 領事を始めとして、お世話になった方々に別れを伝えて、2月26日次の予定国ウガンダへ出発をした。  




以下次回へ



2010/07/01

AFRICA 1958 ( 2)


羽田発の便が、香港が霧で出港は2時間おくれ真夜中となる。 

では、この間を 利用させていただいて・・・、
人は今西錦司を評して、比類なき天性のリーダーだという。 その言に決して間 違いはないだろう。 常に pioneer を目指した、今西先生92年間生涯の山・探検・学問研究の歩かれた道のあとを見れば、一目瞭然である。
そして、それらが生まれ出る過程はどのようなものであったのか、それを垣間見られれば偉さ、凄さが、ぐっと近くなってくるのではないか。  そうでなければ、晩年の泰然自若とした先生の姿にしか接したことのない者には、偉さ、凄さは天性のそなわったものとしてすまされてしまうだろう。 
先生の後年のリーダー論のなかでリーダーの条件として、
a、人間的な魅力  b、覚悟があること c、洞察力のあること
の三点をあげておられる。
b、というのは、物事に動ぜず、使命感を持って、人事をつくす。
c、直観力、勘 のええ人・・・・、 との註釈がある。

いつだったか、「アノナー  ドンナ山カテナ 家アケンナラント思フトナ 心サミシクナルコトアルンヤゼ・・・」、 とおっしゃられた。
それは剛の先生から出てこられる言葉とは、思ってもみなかったのである。 眉と眉のあいだに、しわをよせて、一文字に結んだ口のまま、眼鏡の奥の目が笑っておられた。 先生でもそんなことを思われるのかと、いっしゅん先生がぐっと近くに居られるような気持にさせられた。

さて、羽田-ホンコン-タイ・バンコックに到着。 戦後3度目の海外行である。
羽田を夜なかの出発、朝には台湾南端を飛びながらガランビをはっきりと目にし、ホンコンで は久しぶりに接する中国人民衆に興を持ち(終戦後10か月程北京で過ごす)、インドシナ上空では眼下のジャングルを見、コラート高原をくだり、真冬の日本から暑さのバンコックだ。 あくる日、バンコック発に乗る予定がアクセス・アクシデントで出発日を延ばす。
ちょうど、大阪市大調査隊の梅棹忠夫らが、バンコックへ帰ってきたところで、 会える。 みな元気で調査も上手くいっていることに喜ぶ。 
次のナイロビ乗継まで暑いバンコックの4日間、休むことなく良く食べ、飲み、 話し、会い、歩く、先生56歳。
動物園なども動物ばかりでなく、園内の配置のあり様、また園内にどのような人達が訪れているのかをつぶさに見ている。 siamese と chinesseの関係、働く女性、街の経済状況と、何事にも貪欲な眼がひかる。 そして、なかなか金銭感覚にもシビアなめんがある。
日本出発間際に得たアフリカ訪問者へのコンタクトの手紙を数通送っている。  なんともよく動くのである。 4日間が大変よい warming upができたと記し、アフリカの地へ飛び込むpionieer を再確認している。 

2月9日、 バンコック発-カルカッタ-ボンベイ-カラチ-アデン-ナイロビ着。  機内の様子、機上からの景観、立ち寄る飛行場等にも観察の眼は休むことはなかった。 10日、「・・・酔イガ サメヌウチニ モウナイロビダ、 ココハイママデノ savanna トチガッテ青々トシテイル ナカナカ広イシ コレデハ足ヲモタヌ ワレワレニトッテ 困ッタコトニナリソーダト思ウ、 街ノ上ヲ一週シテ 飛行機ハ赤土ノ滑走路ノ上 ニ着陸シタ・・・」、とある。

今西先生の求める学問研究の舞台として、アフリカが登場するのは定められ た一つの大きな流れであったのだろう。 その流れの中ほど近くに蒙古があった。 
Nairobi に降り立った時の印象が語られている。 「・・・アツイトイッテモ タイトクラベレバ モノニナラナイ 第一高原ノ風ガ吹イ テイルノガ ナニヨリモウレシイ コレハ空港ヘオリタトキニ スデニソート感ジタノダ 高原ニ帰ッテキタ 蒙古以来何年カブリニ 高原ニ帰ッテキタノダトイウ気ガシタ・・・」、 確かに暑いタイから標高1600mのケニア・ナイロビに立てば、この気持ちは正直な感想だろうと思った。
しかし、アフリカ到着一週間後、ナイロビ北方ケニア山近くの Rumuruti へ動物 商 Carr Hartly の farm を訪ね用話を行った時、そこから北を見るとずっと地平線がつづいていた。
「・・・コレハ久シブリニ見タ チヘイセンダッタ ソレニ今日 rift vally デ マサイ ガ牛ヲ追ッテイルノヲ見 蒙古ノパオヲ オモワセルヨーナ キクユ カンバ ノ家ヲ見 ジリジリ照リツケル高原ノ暑サト ソノ上ヲ吹ク清凛ナ風ナドガ カラミアッテ 高原蒙古ヘカエッテキタヨウナ気持ガシタ ソシテ蒙古ガタトヘ ホアンヤン ヤ 狼ガイヨウトモ ドコヘ行ッテモ 蒙古人ノ牧野ガアッタ・・・」、と地平線、風、野獣、放牧等と彩られてくると、空港で味わった高原の風とは一味ちがう、蒙古の印象が鮮明に胸中をしめてくる。
アフリカの山(ケニア山)すそは、おそろしく広い、いくら走っても、どこまで行っても、おなじよーな高原を走っているばかりである。 それにちっとも燈火が見えてこない。
「・・・イツカ蒙古高原デ 日ノ暮レタトキノ サムシカッタコトヲ チョット思イダシタノ デアル・・・」、とまで言っている。
そして、ナイロビへ戻る途中では、「・・・ Nyari マデノ荒漠タル原野ヲ 牛飼ガチラホライルニスギナイ サビシイトコロ ヲ通ッテキタアトデ コンナ開墾ノススンダトコロヲ通ト チョード蒙古人チタイカラ漢人チタイヘ 出テキタヨーナ気ガスル・・・」、と表現している。 
こののち、タンガニーカ(タンザニア)のアリュウシャを訪れた時にも、「夜ハマタ空気 ガ冷エテ サワヤカデアル 張家口アタリノ夜ヲ思ワセル・・・」、とケニアでは蒙古のたとえがよく出てくる。 
地理的環境の似ているところを見ている、というのでなくなく一つの大河の流れの中で、蒙古とは特別な位置を持っていたのだろう。



以下次回へ




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