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2010年9月

2010/09/29

AFRICA 1958 (11)

>4月8日、昨夜は久しぶりに酔っぱらって早く寝たので、6時には起きていた。 8時30分 driver が約束通りやって来た。 
「最初ノ山ヲコエテ 沢ノ山越エニサシカカル、コノ間 往キニヨイ谷川ガ流レテイルトコロガアッタ、アレヲ思イ出シ アソコデ水性昆虫ヲトッテヤロウト思ッタ」とあるのだ。 
そしてノートには ・・・峠を越え、うっそうとした森林で覆われている右手の山が次第に近づいている。 切り開いた後に小屋がポツンと立っているのが日本の山の炭焼小屋を思わせる。 道は下りになってゆくが、あの森林から出てくる谷川とどこかで出会うに相違ない。 そこで採集しようと腹をきめた。 大へん立派なよい川で、礫がゴロゴロしている、水量も申し分ないが、ただし水は少し濁っている。 こんなよい川は IRSAC と Goma との間には後にも先にもない。 車を止めて谷へおりた。 ・・・・・Africa だからといって、眼をそばだてるような格好なものは見つからなかった。 伊谷はその間に蝶をとったが、ずいぶん蝶が多い、それも種類が多い。 
11.50デ AT、23.0 WT、19.0 altptude1780 。

この時のことを後年、伊谷さんは「確かキボ湖のことだったと思うが、今西さんが細い渓流のほとりで車を止めさせ、川底の石をめくってカゲロウの幼虫を採集しておられた姿が、妙に印象的な記憶として残っている。」と書かれている。

Kahera を通り過ぎて IRSAC が近づく、もう遠くに建物が見えてきた。 空は夕立雲やら入道雲やらが出ている。日本と違って一つの空にいろいろな雲が出ている。 それを見ることは楽しい。 1時10分IRSAC 着。 荷物をこの前と同じ部屋に入れ、食堂へ行くと、おらないはずの Dr.Van 氏がいた、また事務長もいた。 食堂が満員でテラスでビールを飲み、食事した。 みなの姿が見えないので宿舎へ戻り、 ガイドブックをひもといているうちに、はや夕暮となる。 

事務長 Pievaerts 氏が迎えに来てくれたので、同氏の宅にゆく。 奥さんは大柄な穏やかな人だった。 部屋の中は日本土産が上手にいかされて、置かれていた。 世界旅行を船とバスでして、その中の一カ月半を日本で暮らしたという。 
ベルギーでは4月15日から10月まで国際博覧会があって人が混むから早いうちに hotle を reserve せよと言ってくれた。
日本の写真、いろいろな国の color slide を沢山見せてくれた。 色がなかなかよく出ている。
日本では始め都ホテルに泊まったけれども気に入らず、三条大橋のすぐそばの日本旅館に泊まり、畳の上で寝起きしたと云うからなかなか感心だ。 奥さんが穏やかで、Pievaerts 氏が物静かな口調でしゃべるので肩がこらず、伊谷もよく喋った。 11時までお邪魔して、また車で送ってもらった。 
今度の旅行で招待を受けた最初である。

4月9日、8時過ぎに食事をする。 車が来たので、もう一度 Dr.Van 氏に会うべく家を訪ねる。 氏は在宅だった。 Van 氏に stanleyvilleの Dr.Conrtois に紹介状を欲しいと言ったら、快く書いてるれた。 それから Van 氏を乗せ office へ。 Mr.Pievaerts氏に別れの挨拶に行く。 ようやく見つけた Chistiaerisen 氏に従って library ヘ入り、気象の data を写させてもらった。 
いよいよ Bukavu に向う。 ときに12時10分、 Bukavu まではもう何度も通った道だ。 ホテルには1時頃着いた。 午後は部屋で guidebook をくり、それから Grzimek の Chimpanzee を読む。Grzimek の本は大変面白い、文章が面白い。 久しぶりに本を読んでいる気がする。 やはりアフリカ旅行だから、こっちも興味がある。 こんなに面白いなら、もっと早く読んだらよかった。 気がふさぐのを未然にくいとめてくれるであろー。 
夕食をすまし、珍しく一人でコーヒーを飲んでいると、伊谷がコンサートから帰って来た。

4月10日、 Bukavu ― Stanleyville(現、Kisangan)
飛行機は Usumbra から来た。 しかし9時 Bukavu 発が9時20分になる。 離陸するとすぐ Kivu 湖の上に出た。 左の窓をとーしてIRSACの白い建物が小さく見える。 Bukavu から Goma まで車で走れば5時間はたっぷりかかるのに、飛行機はわずか20分で飛んだ、9時40分着。 待合室で、ここは気候が良いと言ったら、相手の商人は「ここはコンゴではないtrue Congo は Leopold か Stanley のような暑い所ではなければならない」と言った。 
整備に1時間もかかって、10時40分 Goma を離陸。 今日は Nyvagongo も Mikeno も karishinbi も、すっぽり雲に覆われていて見えない。

「Goma ヲ出テカラ20分ホドタッタトキ 11時ニナッタトキ、ツイニ大森林ノ上ニ飛行機ハノリ入レルノデアル。 11時10分ダッタ ナント雲ガ去来スル間カラ見エテイルモノハ、太古ソノママナAfrica ノ大密林デアリ、コレガ Tropical rain forest カト、固ズヲノンダ、ソノツギハタメ息ガ出タ。 見エルカギリノドコマデモ密林ガツヅイテイテ、ナニ一ツサエギルモノガナイ。 道ハモトヨリ、ナニ一ツ人手ニカカッタモノガナイ。 人跡ヲ絶シタ世界デアル ・・・・ トキドキ時計ヲ見ル、30分、40分、50分(12時10分前)タッテモ依然トシテ無人地帯デアリ、処女地帯デアリ、大森林デアル。 ツイニ50分スギタトキ ヤット森ノ中ニ開墾地ラシイモノヲ見タ ― 確カデハナイガ 
 ・・・・・ソシテ12時12分ニハジメテハッキリト森林ヲキリヒライテイル所ガ眼ニツイタ。」




以下次回へ



 

2010/09/26

AFRICA 1958 (10)


4月3日、7時起床。 今日は safari に出かける日だ。 
出発前に Dr.Van 氏に自宅まで会いにゆき写真を撮った。 それから Stanley に知り合いがいないので、誰か教えて欲しいと言ったら、medical laboratry を訪ねよ、そこは chimpanzee を沢山飼っているとのことだ。 
そして次に事務長の Pievaevts 氏を訪ねた。 Mikeno のこと及び driver をどう扱うかわからなかったからである。 そうしたら氏は Van 氏が National park の office へ手紙を出しておいたから、万事は明日 Rumangabo へ行ってそこで相談せよとのことだった。 driver の方はこちらから金を渡しておいたから、君らは金を渡さなくてよい、また8日に帰ってきたら夜7時30分に僕の家へ来てくれ、日本の写真を見せるからとのことだった。
出発は11時を過ぎていた。  途中1時近く峠を通過した時の、上からの見晴らしは素晴らしい。 Karisimbi と Mikeno は、上は雲に覆われていた。 
Goma へ入ったのは3時20分頃、車が2回パンクしたが、それでも IRSAC から4時間はかかるものとしなければならない。 ホテルの受付で部屋があるというので一安心、 清潔な明るい、まだ新しい部屋だった。 
外へ出て Lunch を食べようと思ったが、時間外で何もできずサンドウッチとビールで済ませる。 Kivu 湖 beach を見物してホテルへ帰り、約1時間ほど午睡する。 起きた時にはもう夕暮で、空には雲が多かった。 食事後、絵葉書8枚を書き、その他日出二郎宛に手紙を一通書いた。

4月4日、8時約束の車が来ない。 10時になっても来ない、ホテルでは部屋は開けろという。 11時近くになり、とうとうしびれをきらし伊谷が探しに行く、やがて見つけたと帰って来た。 知り合いの一家を乗せて町を走っていたそうである。
出発は8時が11時すぎになる。  Nyiragongo と Mikeno の間の鞍部まで行くのだ。 12時20分、 Rumangabo が見えてきた。 街道を右に折れて Nationalpark の office へゆく。 若い青年が我々を待っていた。 Mikeno は食料は Rushuru (Rutshuru)で買うこと、poter 5人はこちら持ちで、 guide の 2人はむこうでつけてくれるというのである。 
館内を案内し、壁にはった Mikeno の地図について説明してくれた。それによると Arkerey の墓は Mikeno にあるのでもなく Karisinbiにあるのでもなく、Mikeno と Karishinbi の鞍部にあるのだった。そしてここには小屋があるからテントはいらないという。 
なお地図を良く見ると Karishinbi 頂上まで点線が入れてある。
小屋から一日で登れるかと聞くと、それは difficult だという。 向こうはこちらがあまりしつこいので、とうとう登れないわけはなかろーが、それには許可がいる。 Brussel からの許可がいると言っている。 われわれが Arkerey の墓へ行くにも Brussel からの許可をとってある。 それには墓へ行ってもよいが、それ以上はならぬとなっている。 自分は君らが Karisinbi へ行くのを許可できないと言って Brussel からの電報を示したのだ。 
1時40分、ルツリーと日曜日の再会を約して別れた。 日曜に途中までジープで送ってくれるというのだ。  街道に出たところで、こいつを走って Uganda からの赤線(走破した道を赤い線で印す)と、繋いでやろうという考えが今朝、車を待っている間に浮かんだ考えだ。 stop をかけ turn right と言うと driver は変だと顔で示した。ここから62kmある、道はできたてで素晴らしい。 この前は、山の向こうウガンダ側を Buffalo Loge から Fort portal へ向かって走っていた。 その山を越えたところは森林ではなく原野になっている。 そてから Ishasha めがけて下りてゆく。 Ishasha の橋を渡った。 これでウガンダ側との赤線がつながった。 Ishasha を3時30分に出た。 4時15分街道に戻り、いよいよ Rwinde へむかう。 Rwinde camp に来たところ warden が Dr.van 氏から手紙をもらっていると言った。

翌日は Rwinde camp で natinal park を終日動物観察に費やす。 細かな観察記述が続く。 天気がどーも崩れるのではないかと思う。

4月6日、6時前に眼が覚めた。 もう動物を見に行く連中が車をブーブーいわせている。 支払いを済ませて7時 camp を出発。 今日は日曜なのか、教会やら市やらに向う native の人達の多くが街道を行く。 Rushuru 8時着、食料を買う。 Rumangabo 9時20分、ルツリーはすでにジープを用意して待っていた。 ここで着替えをして、ルツリーの運転で office を出発する。 峠を越えて Goma へ入ってから左に曲がり10時20分、とある村落へ着いた。 ここで party が待っていた、poter 5 guide 2 の編成である。 それから30分は native の居住地域だ、トーモロコシ、バナナを植えた間をとーる。 National Park とある制札の下がっている所を過ぎると、
そこからは  jungle についた小経だった。 像の歩いた後が実に生々しい。 こんなことははじめてだ。 ここの登山では案外早く banboo が出てきた。 12時50分、ちょっとした 峠 に出た、もうその前から hagenia の大木が現れた。 Mikeno の山脈を覆っている forest がなんだろーと気になっていたのだが、hgenia であると分かった。 
ここで partey は 飯を食った。 なんだかよく見ないがバナナを切って、それに豆粒のいっぱいある味噌をまぶしたよーな物を食うのだ。 「ソレヲ見テ思ワズ キューリノドボ(糠漬け)ヲ思イダシ、アアソイツガクイタイト思ッタ」。 雨が降ったり止んだりだ。 Mikeno や Karisinbi が雨に洗われて綺麗な緑をその斜面に見せている。 道はどこまで行っても像やバッファローやらの踏み跡だらけだ。 ついに3時45分、小屋が見えた。 Arkerey の墓は小屋のすぐそばにあった。 お参りしたのち、遅い luch だ。 ブドー酒を飲んだ。 8時半、シュラフにもぐる。 小屋の高さ3300m。
・・・・とノートの記述。

この地の調査では Mikeno には200頭いると言われた Gorilla には会うことが出来なかった。 厳しい行動規制、party の中にgorillaに明るいものを参加させることが出来なかったという条件が重なってしまったようだ。 そういう意味ではゴンゴは厳しい場所だった。

4月7日、昨夜寝がけに少し寒かったがよく寝た。 朝6時起床、天気が悪くやがて雨がザーッと来た、ザーッと降ればまた止むのである。 9時30分、出発する。 hagenia の大森林の中を下りてゆく。 動物はいっこうに姿を見せない。 行きに休んだ峠のよーなところ11時05分、雨が激しく降る。 下の方へ下りてくると、さっきの雨で道はぬかるみ像の足跡の中も水溜まりになっていて、靴もズボンも泥だらけだ。 bamboo zoon がこんなに長いとは思わなかった。 筍は一つも見なかった。 一度霧が晴れて、もう近いところに耕作地が見えた。 最後に登山口の池のそばへ出て、1時20分、到着だ。とにかく泥んこになった物を脱ぎすてないことには気持が悪く、 naitive の大分いるところで、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、ズボン下を脱いだ。 そこへ迎えの車がやってきたのだ。 
1時50分頃この Kibvmba(2200m) という村を離れた。 3時半すぎ、 Goma に帰って来た。 



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2010/09/23

AFRICA 1958 ( 9)


3月29日、Entebbe 発 ― Usumbura (現、ブルンジの首都 Bujumbura) ― Bukavu 着。  目的の IRSAC (中央アフリカ科学研究所)は Bukavu ではなく、そこから20キロ以上はなれた Lwiro にあった。 そこに目指す Van den Berghe 所長がいる。

3月30日、日曜日だ。 講演原稿を書くが、つい長くなり昼までには書き終わらなかった。 昼をとうに過ぎているが、つづきを書き終えた。 夕刻 Kivu 湖まで行ってみる。 湖畔にしょうしゃな文化住宅がいくつも建っていたのが印象に残っている。 夜、講演原稿を清書する時間がないので、そのまま IRSACまで持って行くことにした。 Historyof East Africa を読みさしのまま読むときがない。

3月31日、今日 IRSAC へ行くことになっている。 10時半、出発。 DR.Van den Berghe 氏は Brussel で開かれる international exibition (国をあげての催しであった。 コンゴからも native の人達が招待されている。 その2年後の1960年ベルギー領コンゴは独立をするが) に出品するので、大変忙しいという。 
lunch を一緒にしようというので食堂のバルコニーで待っていると、氏は奥さん子供ずれで登場。 食堂は self service だった。 食しながらVan 氏といろいろ打ち合わせをした。 
講演は水曜日の夜になった。 それから Albert National Park は是非見て行けという、そう言えば hippo の野生はまだ見てないのだ。Gorilla を見たいと言ったら、先程は7時間 drive したらみられると言ったが、いまは Gorilla なら Mikeno だ、あそこには200頭はいるという。 Congo 全体で2000頭と言った。 Carl Arkerey (マウンテンゴリラの父と言われている)の墓も Mikeno にあるらしい。 
そこらは National Park で立ち入り禁止地域だから、どーしても Brussel の許可を取らないと駄目だという。 4月10日に Bukavu から Stanleyvill (現、Kisangant) へ飛ぶことに決めておいたので、その間にうまく日程をあてはめて欲しいと言った。 また Brussel の方へ電報を打つことをお願いした。

食後は彼は忙しいからと、代わって奥さんが案内するという。 
まず Gorilla を見せてくれるそーだ。 Gorilla のいる実験動物飼育場というのは、ここ IRSAC の本棟からさらに4キロも離れた山の上にある。 
2頭の♀♂の Gorilla が飼われていた。 大ゴリラがいたのである、背中一面が gray で180キロ以上あると考えられている。 そのあとから小ゴリラがついて現れた。 3歳と4歳の間ぐらいらしい。 バナナを持って立って歩いたところは、日本ザルよりも直立姿勢がホンマもんのよーに見えた。 
其れから Chimpanzee を見に行く、4頭のみな若いのばかりがいたが、すっかりなついて放飼いにされている。
こうして gorilla と Chimpanzee を比較してみると、どーも Chimp の方が動物らしく Gorilla の方が人間臭いよーに思われる。 

ここではその他沢山の動物を見た。 これで帰ると思ったら、なんだか classic な建物に車がついた。 迎えの車が来るので一休みしていってくれと言った。 湖が見え、IRSAC の建物がはるか下の方で白く光っていた。ちょっと壮観が眺めである。 家の中に入り sign book にサインさせられた。 ベルギーなんてやはりイギリスよりも芸術的なんだ。 飲物をいただき音楽を聴くうち迎えの車が来た。
もどると Van 氏はまだそこで exhibition の仕事をしていた。 しかし出てきていろいろと世話をしてくれた。 
宿舎に着いて一休みしていると8時だ。 Holl へ行き夕食をすませて、宿舎へ帰る途中芝生に腰をおろし、ここはたいへん涼しく今日などは暑く思ったことがない。 それにしても結構なことである。

4月1日、Institute へゆき librarian に会った。 library には2000種の雑誌が集まっているというのに驚かされた。 日本の物も来ている。 Karisinbi の gorilla を扱った本に、いままで聞いたことのない人の名前があった。 その他沢山すぎる資料に、再び驚かされた。 すでに時間は昼時だった。 Schedule を fix させるために、どーしてももう一度 Van 氏に会わねばならなかった。 
明日からの車の手配を 事務長の Pieraerts 氏にお願いした。 氏は京都に一月も滞在したそうだ。 Van 氏に相談しなくても14日の Leopord を決めた。

4月2日、頼んでおいた車が来たので Bukavu へ出かける。 10日の stanley 行きは Bukavu 発 Goma 経由。 14日 Leopord 行きもあった。
夕刻 IRSAC に帰ってから、夜の講演会の原稿がまだ清書されていないので、さっそくそれにかかった。  夕食、8時からの講演会だが人が集まっていない。 一度部屋に戻る、こんど行ってみると満員だ。
Van 氏の佛語での挨拶、それから paper を読んだ、ウイスキーを飲んであったのでうまく読めた。 それからスライドになり、伊谷の説明があった。 そして英語版「ニホンザルの自然社会」を見る。 
最後に Van 氏が英語で質問し、謝辞を述べた。 
その時 「コノ辺リノ Gorilla モ acculturate シテキテイル。 彼ラハ原始林ニ住ムトイウガ、食事ドキハ native ノバナナ畑ヲ荒ラシニ来テイル。 Parasiteニモ人間ト同ジモノガ見イダサレル」と、言った。 注意に値するだろう。 
終って Van 氏に「高崎山のサル」を進呈したら、Mrs.Van が大変喜ん出くれた。 safari から帰って来た時に留守というので、明日の朝もう一度訪ねることにする。
カメルーンよりまだ返事が来ない。 カメルーン計画がたたない、17日までに Leo へ返事をくれと手紙を書いた。 safari の方は Van 氏はちゃんと用意出来ていると言ってくれた。 
われわれの AFRICA 旅行もだんだん終わりに近づいてきていると感じがちょっとする。 ・・・・・と IRSAC 滞在記がしめされている。 

今西先生の凄さ偉さ発見の旅も、だんだん終わりに近づいて来ている、はたして到達できるのだろうか。
2日、記述の終わりに次のような記載がある。
「・・・トコロデ オレハ分類ヲヤッタガ ドーシテモ性ニアワナカッタ トイウノハ、 コマカイ差異ヲ気ニスルノガ 、イヤデナラナカッタカラデアル、 非常ニコマカイトコロマデ気ノツク方ガleaderニナッタノデハ、 下デ働クモノハヤリニクイダロー ソーイウトコロヲ考エテイッタノデアル・・・」と評しているが、これが案外資料になるのだ。



以下次回へ  


2010/09/18

AFRICA 1958 ( 8)


ルエンゾリ登山に Fort Portal の町にやって来た。 山中8日間は、諸々の条件の中から引き出された最大予定日数である。 地方弁務官の D.Pasteur 氏もなぜもっと日数をかけないのか、いまは登るのには難しい季節だといってくれたが、それは雨季に入ったからだろうと簡単に解釈してしまった・・・、といっているのだ。 スピーク山塊とスタンレー山塊二つの峰(4890m、5111m)を目指したが共に敗退した。 

その反省は次のように語られている。
敗因の一つには、氷に対する装備がなされていなかったこと。 二つには、ことさら天候が思わしくなかったことが上げられていた。装備の不足を天気の良さで補えないかと考えてみたようだが、それはならなかったのである。
ルエンゾリは、天候をとやかく言っているようでは、はじめから登る意志がないに等しいのだ。 一年365日のうち300日は雲っているという山だから。 ルエンゾリ登山の先例を見ると、我々の登山中の3月20日、21日の天気はルエンゾリとしては、まれに見る好天だったのではないか。 20日にもう一度ピーク試みたらどうだろうか、ガスがかかっていなければ、もっとましなやさしいルートを見つけることが出来たのかもしれない。 しかしこの日を移動のために充ててしまった。 21日、その日は次のピークを試みていたが、もう少し待てばガスが晴れたものを予測できずに下りてしまったのである。
どうしてそんなに早く退却したものかと惜しまれるが、あれは退却でなく、あの時の気持ちをいうと戦いを終了して、これから始まる長い下山の道にすでに踏みだしていたのであろう。 
もう一日、小屋に泊る気で出かけていたら、あのチャンスはのがそう筈がなかった。 日程にゆとりのないことが気持のあせりを招き、結果浮き足立たせてしまったのだろう。 
8日間のルエンゾリは短すぎる、10日はかけるべきだといっていたことが分かった。 もう一度機会があれば時期は1月にしたい・・・、とルエンゾリ登山の反省を整理している。 

さすがの今西先生も、ゴリラ調査の中でのルエンゾリ登山に対しては、万全の登山要素を補ないきれなかったのであろうか。
しかしここまで来たおかげで、多様なアフリカ大陸の新たな体験をまた持つことが出来たのだ。 
「ヤマヲ出テユクトキノ気持ハ日本デモ、アフリカデモ同ジデアル」の思いを込めて、日の落ちた街道を kampala へ と向かった。 

Kampala に戻ると西アフリカへ出発の準備、手続き等で忙しくなった。 そして登山でお世話になった人への報告もあった。 
Miss Denithorp にも会った。 Baumgarte 氏から今朝手紙が着いていたと言った。 いろいろ話をしたが彼女はもう gorilla については執着をしていないようだった。 
Rothery 氏が奥さんとホテルにやって来た。 山の報告をして、借りたピッケル、Bujuku 小屋から持ってきた Bere の冊子を返して、日本から持ってきた双眼鏡をMauntain Clab に贈った。彼は何度あっても気持の良い男である。 
雨がふっている、 Kampala にもいよいよ雨季が来たらしい。

翌日、桑島氏が来てくれた。 氏の車で immigration へ行き、滞在制限の延長をする。 桑島氏の子供二人がマラリヤで、友人の家に世話になっていると云うので、その家に寄る。 氏の奥さんが出てこられて立ち話、来年日本で会う約束をした。 
それから Macreve Universty College へ行った。 Prof.Galloway には病気で会うことは出来なかったけれども、大学での収穫はあった。

桑島氏が子供の病気の状態が良いから、自分が車で Entebbe まで送ってくれるという。 3時半の汽車で Nairobi に帰るという、ウガンダを一緒に safari をしてきた 藤島と別れ、 Entebbe へ出発した。  Entebbe の街に入る途中に、ウガンダ入りした時に会った霊長類研究者 Dr.Haddow 氏に会って行くことにした。 
前回の初対面の時には彼が登山家だということは知らなかった。 Bereのルエンゾリについての小冊子に彼の名前が載っていたのである。 山の話をしたら、彼は middle portal の地、キニアンゴマ、Luigi 一帯など、合計4つの初登頂をしていることがわかった。 
桑島氏にはホテルまで送ってもらい、別れの一杯をやり、お礼を述べて見送りした。 

3月27日、 Bukavn (旧ベルギー領コンゴ、現コンゴ民主共和国の東部の都市)までの飛行機を確認をした。
ホテルに迎えが来て Haddow 氏は同行出来ないが、計らいで institute で訓練された African 五人の随行で近くの Zikaforest へ redtail monkey の観察に出かける。 午後7時切り上げて Haddow 氏の言いつけがあってホテルまで送ってくれた。

昨日は「ルエンゾリの記」を書きあげたが、「ゴリラ訪問記」までは手が伸ばせなかったので、今日はそれを書くつもりで机にむかった。
11時半になり、Osmaston を訪問するが safari に出ていていなかった。 そこにいた同僚に借りていた本を返してもらうよう、お願いをした。 それから Game depertment へ行く。 Anderson も Wander の Kinlok も safari から帰っていた。 
今後この施設を通してウガンダのサルを J.M.C(日本モンキーセンター) へ供給してもらえるように話をした。 そして秘書にはウガンダの「Uganda Game and Sports」 と J.M.C の「Primatis」を、これもこんご交換出来るようをに頼んでおいた。
午後には Haddow 氏との約束で、今日も迎えが来てくれる。 Haddow 氏は、今日は Kampalla へ行かねばならず 、昨日と同じ案内人を付けてくれていた。 Haddow 氏には Primates への寄稿をたのみ別れた。
今日は Bujuko forest に行くという、 Bujuko の森林は forest reserve になっている。 そこに行けば black mangabee が見られるという Haddow 氏の心配りだった。 やはり7時過ぎにホテルまで送り届けてくれた。
今日は東アフリカ最後の夜だ、ビールを3杯(小瓶)をのんだ。 それから「ゴリラ訪問記」を書きあげ、気分がすっとした。
「コレデ明日ハ fresh ナ気持デ西アフリカニ第一歩ヲ印スノダ」




以下次回へ


 


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