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2010年10月

2010/10/31

AFRICA 1958 (14)

いよいよ、アフリカで最後の調査地カメルーンに移動する。 
4月20日 二日ほど寝不足が続いていることも手伝って気分が重い、朝食ヌキ。 9時、伊谷が迎えが来たと言ってきた。 領事とこ全部、井上さん、武田さんも見えている。 
コンゴ川は昨日スタンレー銅像の所から見たときも立派だったが、この埠頭から見たところもなかなか良い。 ちょーど ferry がついて沢山の人が上がって来た。 大きな汽船が二艘岸についていた、川を上下するもので Stan へ行くものはもっと大きいとのこと。 ferry は10時に出る。 だんだん人が乗ってきて、ほぼ一杯になった。 記念撮影ののち、お礼を述べて乗船した。 対岸の Brazzabill まで15分ぐらい。 

着いたところで入国手続きをすまし、親切な人が Air France のバスがつくという Beachi hotel を教えてくれた。 ここで コンゴフランを替えたら、100フランが450フランに変わった。 700フランの予定だったが、いつの間にレートの変動があったのだろう。 バスが来るまで、コンゴ川を見晴した食堂で食事を始めた。 Leo から今日の飛行機に乗るのは、われわれ以外にはないらしい。 Air France のバスは12.40に来た。 はたしてここから乗ったのは、われわれだけであった。 荷物の cargo 扱いの件やら、佛領出国、Cameroun 入国と念入りに査証をやられウンザリしていたところ、一人の英語の出来る乗客が親切にアドバイスしてくれ助かった。 こんなことで、1時発の飛行機に辛くも滑り込む。 出発が遅れて1.30頃出たのだ。 ―Libreville ― Douala についに着く 5.00。 

ここでまた煩い手続きをすませる。 Air France の車がない。 いろいろの人が来たり帰ったりしているが、みな自家用車だ。 もう一人のアメリカ人が我々と同じホテルの車を待っている。 係の女性にホテルに電話をしてもらい、ようやくに車が来た。 そのアメリカ人と3人で、それに乗ってホテルへ。 今度は部屋を予約してあったのに、ないという。 アメリカンも断られている。 ようやく別のホテルを取ってもらい、また3人で移動した。 大きなホテルだったが、やや旧式だった。 部屋には大きな扇風機が回るよーにしてあった。 テラスでウイスキーを注文したところ、一杯200フランで、東アフリカに比べおっそろしく高い。 
夕食後、伊谷が散髪するというのでついていったが、街を歩くだけでは街は殺風景で Bukavun の美しさはない、 Wisky a gogo のありそうな気配もない。 寂しいから帰ると言って、伊谷をほっておいて帰った。

4月21日 6時45分車が出ると言うので6時に起きた。外では雨がザアザア降っている。 Cameroun は雨季らしい。  空港へ行く客は3人だった。 8.15離陸、Yaounde までは1時間足らず。 Yaounde は平野らにあるのではなくて、低い山にかこまれた複雑な地形の所に発達している。 その向うに谷もある、高さも2700フィートあるという。 空港に着いた。 土はやはり赤い、滑走路は舗装してない。 

Carrol が出迎えに来ていた。 ホテルに行く前に自分の家に行こうと言って、町とはどーやら方向の違う舗装してない道を走る。 マンゴーの並木が植わっていた。 森林を伐りひらいたよーな所にある、彼の farm にやって来た。 キャロルは custam に行かねばならぬので動物を見て待っていろといって、彼の弟子の一人案内につけてくれた。 動物を見て回った。 動物たちは出荷した後なので、ストックが少ないのだと言った。 しかしイロイロいる。 ここには居候のドクターとカメラマンがいた。 ドクター夫婦とカメラマンをまじえてコーヒーを飲んでいるところへ、キャロルは帰って来た。 キャロルは君たちが欲しいと思うものはなんでも捕って見せると言った。
食事になり、なかなか美味い物を食えた。 食事が終ってキャロルの車でホテルへ送ってもらう。 
睡眠不足を取り返すべく3時半シャワーを浴びてよこになった。 この部屋は車の音がとても喧しく、これは明日でも反対側の部屋が空いたら変わるとしよう。 
Gorilla の本を読みだし8時過ぎになってキャロルが来た。 キャロルの友人のホテルへ連れて行ってくれた。 そこで夕食をしたが食物はわりにうまい、野菜サラダが美味かった。 

4月22日 伊谷に Air Frace へ time table を調べに行ってもらう。 木曜日に Santai Isabel から Bate を経て Madrid へ飛ぶ便が一つあるという。 木曜日というと5月1日か、次は8日だ。 8日ではちょと遅すぎるが ・・・キャロルは今はドクターが safari に出て行かないと動いてくれないだろう。 といってこんな宝の山へ入っていながら宝を得ずに帰るわけには行かない、ゴリラもチンパンジーも必ず見せると彼は言うのだから。 11時過ぎにキャロルが迎えに来てくれたので、彼の友人のホテルに寄って部屋を見た。 喧しくないだけが取りえで、此処だって hot bath はないし上等ではない。 けれども Yaounde でろう城と言うことになっても、ここなら書き物読み物が出来そーに思えた。 そこでこちらに変わることを決めた。

キャロルの家に行き昼食をよばれる。  食後、ドクターが餌 ― ほとんどバナナだが、その他パパイア、マニュオック、南京豆 ― を買いに車で行くから行くかというので、することはないのだし近くの様子を知るために伊谷と行くことにした。 farm からは3人が行く。 バナナはどうして買うのかと思ったら、farm の若い女性ジュリエットが窓から顔を出し「バナナ! バナナ! バナナを買うぞ!」 と怒鳴って行くのである。 車は止まらないでジュリエットがアナウンスして行く。 さて帰りになると、アナウンスを聞いてからとりに行ったものらしい。 車を止めると降りて、買い付けるのである。 帰って来たらキャロルはいなかった。 

もう夕食だ、雨は止んだが気温は下がって、半ズボンでは肌寒い。 犬と戯れたり、 hamadryas (マントヒヒ)を見たりして時間をつぶす。 その間に自動車で来た訪問客が2組もあった。 その一人にホテルまで送ってもらうようにしているところへ、キャロルが帰って来た。 飯を食って行けという。
食堂へボーイが2人で大きな箱を担ぎこんできて、部屋の隅に置いた。 もちろん病期の baby gorilla が2匹そのなかに入っているのだ。 夜はここに寝かすのだ。 ドクター夫人は8日間ほとんど寝ないで2時間ごとに milk を与えたが、いまはすこし病気が治ったので naitive girl が夜は付きっきりで milk をやっているのだという。 ジュリエットがその役目を引き受けているらしい。

食後、ドクターと話していたが baby ゴリラは2匹とも moniliasis (旧称、カンジダ症)という病気にかかっているのだが、これは native から感染したものだといった。  食事中もゴリラが泣く ―コ、コ、コ、コ、というような声で、それは母親を呼んでいる声だそうである― と、ドクターが立っていちいちゴリラを抱きかかえてやっていた。 ドクターはキャロルが呼んだのか、押しかけか知らぬがいずれにしても service に努めており、また子供のない彼等はホントーにゴリラを可愛がっているのかも知れない。 
そのうちにキャロルが帰って来て送ろうと言ってくれたので、皆に送られ車にのる。 ホテルは戸は開いていたが誰も起きていなかった。 日記をつけて12.15就床。

4月23日 午前中、メルフィールドの Gorilla を読んだ。 
部屋を空け、ロビーで待っていると、ドクターとカメラマンが迎えに来た。 ホテルに行く前にキャロルの家に行く。 伊谷は今日はゴリラとチンパンジーの録音をすると言うのだ。ゴリラの Bigman はなかなか泣かない。 今日ははじめて頭をなぜてやったら、肩に手をかけて抱きついてきたのには往生した。 チンパンジーは喧しいと言うのはホントーだ。 同時に感情が激するとすぐウンコをボタボタたれる。
キャロルと事務的な話しをしたかったが出来ず、ドクターがホテルまで送ってくれた。  夕食後、Gorilla を読みつつ眠くなり、蚊取り線香をつけて11時寝た。 

4月24日 もう Yaounde に来てから4日目になる。 アメリカ領事館へ Mr.Cutler を訪ねる。 この間頼んでおいた viza のことなど親切に面倒見てくれるらしい。 ホテルの食堂でコーヒーを飲んでいたらキャロルが来た。 キャロルの街の用事に付き合い、その後彼の家に行く。 伊谷はキャロルと商談をした。 値段を聞いてセンターに手紙を出した。 キャロルは商談が終ると昼寝をした。 
こちらは何もすることがないので、またドクターに頼んでホテルまで送ってもらうことにする。 
明日は Air France に交渉して、いよいよヨーロッパに渡る飛行機を予約しておこうと 思う。 そしてドクターの都合がつかなくても、何とか forest へ行けるようにキャロルに頼んで見ることにしよう。 

4月25日 Mr.Cutler を訪ね領事館へ行く。 キャロルが来ていた。 Cutler 氏に昨日と同じよーに車に乗せてもらって、先ず bankへ行く。 伊谷は Air France へ行く。 Air France の方は間違いなく取れると言うから、これで schedule をよーやく立てることが出来た。
昼食を取り、それから部屋へ帰って午睡した。 この2~3日は今までにない休養を取っていることになる。 これもよいだろー。 夜は伊谷に誘われて音楽会へ行く。

4月26日 昼までメルフィールドを読み終わり、昼飯を食い、昼寝しよーとしていたらキャロルが来た。 ここまで遥々持って来た双眼鏡を進呈した。 娘に上げると言って喜んでいた。 
かれの farm では午睡の最中だった。 ドクターが出てきた、どこへわれわれは gorilla を見に行くのか、またいつ行くのかと、多少事務的になって追及したところ Djaposten のかれの station へ行くらしい。 Mendjum Mey に続いたところだ。 
明日から Mr.Pesek というフランス人がくるので、その人の車に乗せられて、そこまで行くらしい。 ドクターは Mobil の road map を一対くれた。 それを見るとやはり300キロはある。 とにかく明日は Pesek に会う必要があることが分かった。 キャロルはまた車で出て行ってしまった。 車のないわれわれは、また捨て小舟だ。 Bigman と遊ぶとワイシャツが汚れるので、今日は彼のオリには入らなかった。 ドクターはマンドリルの cage に入って彼と遊んでいる。 
カメラマンを捉まえて素性を質したところ、はじめからここに居たのではなく、ドクターのカメラマンとしてやって来たのだ。 常は Douala よりも北の方 Nkongsamba に住んでいると言った。 
ドクターが水を買いに行くと言うので同乗して、ホテルへ帰りたかった ―もう farm の電燈もついたし― 、しかし直ぐ帰るから君らは待てと言うので待つ。 煙草がきれ何もすることがない。 伊谷はfarm で炊事を手伝っている。 
ドクターとカメラマンが帰って来たので食事となる。 9時過ぎドクターにお願いしてホテルにとどけてもらう。 ホテルは今日は土曜日なので band が始まっているが、まだ人は集まっていなかった。今日は昼も降り、夜も降り、よく降る。

4月27日 今日は日曜日なので10時頃まで近くの charch で歌う讃美歌の声が聞こえてきた。 その声は日曜日-安息日に相応しい、いかにも平和に満ちた声のよーに聞こえた。 
朝多少曇っていて、遠くに見える森が靄でぼかされていたのだが、昼近くなって曇り空から薄日が射して来た。 うすら寒く日向に出たくなる。 アフリカでなくて何処かもっと北の国にでも来ているよーである。 
荷物をつくろーかと思ったが出発が確定するまでは、その気になれないものだ。 それよりも文春の原稿を書く気になり、その構想をはじめた。 
昼になり飯を食おうと下へ降りて行ったら、キャロルが現れ、午前中に2回も訪ねたが寝ていたと言う。 キャロルと一緒に飯を食ってから、彼の家へ行った。 
Mr.Pesek の車はまだ着いていないだろうと言う。 伊谷は昨日の続きで farm の native (主にバミレケという Yaounde から西の方に住む)の歌を録音する。 キャロルは昼寝だ。 
仕方ないから文春の構想をつづけて何とか40枚書けそーになった。すると早く筆を取りたくなって、むずむずして来る。 原稿用紙を持ってくればよかった。5時ごろキャロルが起きて来て、それから同乗して Mr.Pesek の車の止まって居る所へ行った。 車は来ている。 キャロルは native の market へ行ってゴリラの milk を買って、もう一度家へ帰った。 
それから食事までにいろいろゴリラの話を聞いたが、France Africa の bush なら何処でも知っている、ここらを今までに一番見ているのは自分だと言った。 
ゴリラは monogamy (一夫一婦)であること。 寝るときは♀と子供は木に登り♂は木の下で寝ること。 family 間の battle は見たことがないこと。 Solitary の female はいないこと。 二年に一度子供を産むこと。 9カ月で生れること。 性交は face to face であることなどを話してくれた。 この辺りの gorilla は black だが海岸地方にいるものは grey であることなど話した。 
9時過ぎもう一度 Mr.Pesek の車を見に行ったところ誰もいない、明日出るのだったら荷物が沢山積んであるはずだから、荷物を積んでない所を見ると明後日になるだろー。
他の車を探してみよーとホテルまで送ってくれた。  

4月28日 今日は Sanbmelima の方へ行くと言った。 11時頃もう一度ドクターとジュリエットも来た、しかし原稿書きが忙しいので伊谷だけ同乗していった。 昼食は一人でゆっくり食った。 4時ごろまた書きだしていたら領事館から使いが来たので、Cutler に会いに行く。 地図を3枚くれた、パスポートが戻って来たが間違っているので、もう一度問合せるのでもう少し待って欲しいとのこと。 
キャロルの話では Abung-Mbang 行きのバスは明日の朝3時に出ると言う。 荷物作りをしている所へ Mr.Cutler がパスポートを届けてくれた。感謝して礼を言った。 

うたた寝をしながら伊谷の帰りを待つがなかなか帰らず、寝間着に着換え寝た。 夜半1時半に伊谷は帰って来た。 やっぱり3時出発だろーか、それが気になって2時に眼が覚めた。 次には3時に眼が覚めた。 伊谷が起こしに来ないところをみると予定が変わっただろー。彼の様子を見ようと電燈をつけたら、ドアーのところに紙切れが一枚あって Djaposten は止めてSangmelima の方へ明日行くことになったと書いてある。 そんなことだろーと思っていた。 それから熟睡した。



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2010/10/17

AFRICA 1958 (13)

4月14日、伊谷に sabena へ monkey を送るについての問い合わせに行ってもらい、それから彼の chek をフランに替え10,000フラン持って研究所にDr.Vanden Pitte を訪ね、この金でビッショプの所からサルを買おうと言うのである。 雨がしょぼついて来たのでコ―モリ傘を持って出かけた。 
Dr.Pitte に会い謝礼を述べ、サルのことをたのんだ。 雨が激しくなった。 Dr.オーストリッチに会い、別れの挨拶をした。 
飛行機は12.45だ。 それまでテラスで待つことにした。 するとムッシュ・ビショップが現れた。 きっと Pitte 氏が zoo の方え連絡してくれたのだろう。 われわれとビッショプ両方で、なははだたよりない会話だが、サルを送る打ち合わせをすませた。 
Kairo へ送り、そこから KLM で運ぶと、東京まで3日で行ってしまうそうだ。 

われわれの飛行機は遅れて1.15に出た。 Boend ― Coquilhatville ― Leopoldvill に7.45着いた。 
空港 には丸山領事が迎えに来てくださっていた。 車の中で手紙を受け取ったが、たった3通。 その中の1通は藤島からという寂しさ、伊谷にいたっては河合からの1通届いていただけであった。 
今夜は領事の公邸で食事という。 2カ月ぶりに日本食らしい日本食にありついて大満悦。 
領事に送ってもらいホテルへ帰る。 桑原の手紙と Frou からの手紙を読んだ。

4月15日、一日休養に近い過ごし方をする。
4月16日、伊谷が調べて来たところによると Duala 行きは日曜日にあるとのこと。 これで予定通り日曜に出発出来る。 
領事館から荷物を部屋へ運び込んだ。  原稿書き、毎日新聞用をはじめ出す。 

昼になり副領事の井上さんの車で領事公邸へ行く。 
午後も原稿書きを続ける、伊谷は動物園へ。 コンゴ紀行と題して、(1)には Rwindi camp を、(2)には Mikeno を、(3)に飛行機から見たcongoの forest を書くつもりで、(2)はもっとも書くことが少なかろーと思っていたら、かえって書く枚数に不足をきたしたし、書き足らない思いだった。 
伊谷が動物園から帰って来て、 monkey もとても種類が豊富だという。 明日にでも見に行ってみる必要がある。
例の門っこの飲物店で生ビールを売っているのを見つけて飲んだ。 コップは日本のに比べ小さいが一杯8フランは、こことしては全く安い。 今日は3杯のんだ。 
テラスで休んでいるとイロイロなものを売りに来る。 毎日持ってくるが、いつ売れるかと思われる。 しかしいつか売れたら良いだろー。
伊谷は Leo に着いてから、今までよりもよく喋るよーになっていた。 やはりスランプの状態になっていたのかもしれない。
原稿はもう一日分残しているが明日書くことにして手紙を書く。

4月17日、朝食を食った、それから領事館へゆく。 領事に会って借金の証文を渡し、出発以来一度も使ったことのない印を押した。 それから部屋に帰って、浴衣を洗濯に出し、12時まであと2時間しかないが毎日分の原稿の最後の分を書く。 しかしこれはcongo の大森林の描写という、今度の旅行のとっておきのところなので大いに脂がのり1時間半ほどで5枚書き上げた。

午後、大学へ行く。 領事館の方で arrange 済み、真っ直ぐに zoology の Prof.A.Bonillon 氏を訪ねる。 われわれがprimates に興味を持っていると言ったら、イロイロ txt-book 的な本を見せてくれる。 それから laboratory を一巡案内してくれた。 
Dr.vande pitte 氏からの紹介である prof.Vincent 氏に会うため医学部へ案内してくれた。 
Viment 氏はまだ40にならない若い、髪も眼も黒いいかにも energisch という人だった。 こんな若い人が部長になることは日本ではまずないことだ。 実験室を案内される。
もとIRSAC にいた prof は生憎 paris へ行っていておらなかった。Vincent 氏は Pitte 氏から通知を受け取られていたらしい。
 Pitte 氏には一方ならぬ世話になっている。 大学は4時過ぎに辞した。 
それから原野のほうを drive してホテルに戻った。 原野は虫の声でいっぱいだった。 
8時、井上さんと別れ夕食をとる。 Climax 論になり最後に、「人ノイナイ大自然ノ現象ヲ説明スルタメニハ、自然ヲモッテキテ説明スベキデアルトイウ説ヲ立テテ伊谷ヲ煙リニマイタ」 
部屋にかえって2-3の手紙と日記をつけた上12時に就床。

4月18日、今日は10時に熱帯医学研究所へ見学に行く。 手配は領事館の方でしてくださった。 
いろいろ案内してくれるが、こっちはなにしろ医学の知識がなに一つないので困った。 早く monkey を見せろというのだが、なかなか見せてくれない。 
papio は polio にも sieeping sickness にもかからないということを若い案内のお医者さんから聞いた、この医者はDr.オーストリッチを知っていた。
先ほどのProf の所へ戻ると、わしわ日本語をいくらか知っている。どーぞおかけなさいと日本語で言われてびっくりした。 
しかしここは医者なら一応見ておくべきかも知れないが、われわれにはお門違いだった。 時間になったのでこちらを辞したのち、ホテルに帰った。 

午後、動物園行きは武田さんがついて、領事の車で行くことにした。 この間から2ー3度通った naitive town を通って、右側が植物園、左側が動物園だ。 
なるほどサルの種類は、よく集められている。 はじめて見るサルもいる。 ここも外見よりも中が広い、一巡した。 なおこの動物園にはアメリカのものやヨーロッパのものも来ている。 brownbear だとか、オオカミとか、コヨーテなどがいた。 ゴリラはいなかった。 
夜は井上氏の家で握り寿司とおでんの御馳走だった。 10時半まで飲んで、井上さんの車で送ってもらったが、よくおぼえていない。

4月19日、二日酔いだ、朝食も食わなかった。
Leo の動物園とモンキーーセンターのニホンザルと交換の話がととのった。 伊谷がさっそく河合に手紙を出し、われわれが外国にいる中に3匹(♂1♀2)のニホンザルが、ここに来ることになるだろう。

昼食は領事の家に行く。 帰りは領事の家族と一緒にスタンレーの像のあるところへ案内された。 
そこはコンゴ川を眼下に見下ろす丘の上にあった。 Leo と Braza を同時に眺められる景勝の場所だった。 
スタンレーの像は 大きなものだった。 ヘルメットをかぶり、眼は炯炯としていた。 1904年に死んでいることを知った。 
それから Leo 第一の住宅街を車で回った。 米国総領事の住宅だという、副総督の住宅とか、総督の住宅とかを見たが、住宅と言わず公邸という。 ベルギーの国旗がたたっていた。 
ホテルに戻り午睡するともなくbed の上で休養した。 それから起きて cercopithtcus の探検表をつくり、スーツケースや行李の荷物をつくった。
なお時間があったので武田さんがこの間届けてくれたを読んだ。 
ちょーど西堀達が羽田へ帰って来た頃の新聞だ。 南極のことが分かって大へん面白かった。 昨夜、御馳走になったとき井上さんと夕食をする約束したらしい。
8時、ホテルを出てレストランへ行き食事をとる。 井上さんがもう映画が終ったからと、子供を迎えに出て行った。  
やがて奥さんと子供二人つれて戻って来たので、奥さんは matini を飲み、子供はぷっディングとオレンジジュースを飲んだ。 音楽を聞こーと言うのでsabena の guesthouse へ行った。 結局、みんなで何軒も店を変えて、ホテルへ帰ったのは1時半だった。 
部屋に帰り日記をつけたら2時半。 Leo は都会だということを知った。



以下次回へ








2010/10/14

AFRICA 1958 (12)

4月10日、飛行機は雲と同じ高さになり、やがて雲より低く下りた。左手に大きな川が見えてきた。 コンゴだ、 12.20やっと native の部落が森の中に見え出し、道が森の中に見え出し、その道を車が走るのが見えたと思うと、森に続いてヤシをいっぱい街の中に植え、広々とひろがったStanleyville の街がもう眼の前に現れて来た。 この近代的な街と太古のままな大森林とがあまりにも近くに相接しているのに驚いた。 それで実に愉快なことは、ここまで来ると右を見ても左を見てもビュービューたる地平線の繋がりがあって、山らしいものは何一つ見えないことである。 
12時30分、飛行場に着いた。 これで初めてアフリカへ来て以来1000m以下の所へ降りて来たのだ。 さずがに暑い。 
Hotel は Sabena guest house の道を挟んで前にあった。 諸事節約のため二人部屋をとる。 

昼飯を食い、さっそく Medical laboratory に Dr.Courtois を訪ねることにした。 目的地まで、言葉の通ぜぬ taxiに乗ってしまい、ようやくに到着する。 
建物の玄関にて案内を乞うが、やはり言葉が通せず往生する。 しばらくして英語の話せる人が出てきたので、Dr.Von氏の紹介状を渡した。 一度引っこんで2階へ来いという。そこはアメリカのペンシルバニアから来ているという人がいて、この人を通じて相手方にようやく通じたらしく、今度は下へ来いという。 そこでようやくDr.オーストリッチという若い青年が現れ、この人がここから30キロ離れたとこにある、ここのcampのチンパンジーの世話をしているらしい。 
われわれはアフリカのmonkey を買いたいのだがという話しに、それなら zoogicalgardem の director の Bishop氏に会うのが良い。 しかし今日は終わりなので明日の朝、電話で連絡をしてあげるといってくれた。 
明日はとにかくオーストリッチ氏が午前中にcampに案内してくれることになり、そして宿まで送ってくれた。 ところで宿から laboratoryは1町とはない距離にあった。 さっきはdriverにグルグル引っ張り回されたのだった。 ホテルに帰り日記を書いた。 
夕食、テラス ではバンドが入っている。 歌とダンスだ。 
部屋に帰り Grzimek を読む、12時に寝た。

4月11日、6時起床、頭痛がまだ治っていない。 テラスで朝食。 8時半、テラスで待っていると Dr.オーストリッチ がリーエジ大学の prof.welsch.Mauviceというオッサンを連れて迎えに来た。 chimpの飼育場はどこにあるかと思っていたらコンゴ川の下流のようである。 川に沿って下ったところで ferryで渡る。 これはコンゴ川ではないようだ。 
Chimpanzee の飼育場はガランとした雨天体操場のよーなものが二棟建っていた。 奥の方の建物に先ず行く。 いまここでは70頭ほど飼っていて、今までに200頭以上殺しているそうだ。 実験に使ったのではなくて、飼育中に死んだのも相当いるそうだ。 
Pan paniscus (ボノボ) は40ほど手に入ったのだが、どーしても餌さをとらないので飼っていなかった。 
驚いたことにこの建物の土間に大きな木で焚火をした痕があり、まだ温もりが残っている。 これは夜火を焚いてやらないと cimp が風邪をひくからだと言う。 
ゲージはわれわれの使う運搬用を少し大きくしたぐらいだが、それにみな布がかぶせてある。 これも風が吹くと彼らが風邪をひくからだと言った。 風邪をひくと2~3日で死ぬそーだ。 
首にどいつも番号札のついた首輪をつけていたが、オーストリッチは彼等は too human で too individualistic だから番号で呼ばないで名前で呼んでいる。 その名前の中にはシモーヌ、シモンだとかカガノビッチだとか言うのがあるそーだ。 
ここは1956年に建って、仕事は1957年、去年よりから始めたものだそーだ。 理由としてここでは chimpanzee が沢山手に入ること、chimpを使えば他のサリを使うより人間に近いからという。 それにここの chimp はまだ人間の病期に infest されていないからと言った。 
これらの chimp をどーして集めたかと言うと、フランスから専門家を呼んだという。 第一飼育舎の healthy な chimp は約20頭ばかりだった。 
第2飼育舎に移る。 ここで奥から運搬用の車に一匹の chimp が移された。 オーストリッチはその腕から血液を抜いた。 Prof.Mauviceの実験に使うらしい。 彼が今日われわれと一緒に来た理由がわかった。 
chimp の血液型は all A で B が見つからない。 その A は人間 と非常によく似ているそーだ。 奥の方にはすでに infestされた連中が飼われていた。 Porio (急性・)の 他に hepatites(肝炎) の実験などに使われていると言った。 
〈・・・そのあとまだまだ続くがこの辺にして、先に進もう・・・〉

paniscus を見たいなら Stanley から300キロほどへだった Yohuma へ行けば幸運ならみつかるだろーと言った。
帰り、ferri を待つ間に沢山の蝶だ、それもいろいろの蝶が飛んでいる。 こんなのは今までに見たことがない。 いよいよわれわれは trne tropicに来た、そして来ているのだという印象を深めた。 sabena まで送ってもらった時が11時半。
オーストリッチはヨーロッパから来る人をここで迎ええばならないと言った。 reception で彼の奥さんを紹介された。 青年だと思ったがもう二人の子供がある。 伊谷よりは年取っているのだろー。 ここで捨てられてはこれからの計画が立たないから、われわれはムッシュ・Bishopにいつ会えるかだローと言ったら、電話で laboratory へ問合せてくれ、明日の朝8時半に彼の laboratory へ来てわれわれを待つということだった。 

昼食後、すこし午睡をとる。 伊谷はコンゴ河へ蝶をとりに行くと言って出掛けた。 電話があり起きたので guide-book を勉強をし、6時前 テラスへ行くと伊谷がいた。 
夕食をとり、1時間ほどGrzimek を読んで寝た。

4月12日、Dr.J Van DE Pitte 氏に会う。 彼は所属のワルツーア氏が Brussel へ行って不在中 Leopoldvillの大学から代理にやってきているのだった。 その大学のDean氏 に紹介状を書いてもらった。
8時半になったらBuf.Maurce および昨日Brussel から着いたという2人のProf が現れ Pitte 氏が車を操縦して zooに向う。 やがて車が来てMarcel Bishopが現れた。 岩田久仁雄のよーなちっとも威張ったところのないおっさんだ。 
Tshopo 川の橋を渡ったところから、動物園はずっと Tshopo の流れにそって上流に広がっていて、後ろは森であり、その森を取りこんであった。 
ここが動物園だと思ったのは柵にそってウォーターバック が何匹もいたり、中にはいるとチンプの1~2歳がうろうろしている。 放し飼いにしている、すぐそばにはブラックマンガバイがいる。 そこに像が二頭いた。 それから行くとmonkey のおりがあって cercopitheeus が合計8種類いたことになる。
bongo と okapi が飼われているという、車で右側の丘の上にあがる。 そこに行くと金網にそって okapi が歩いていた。 はじめて見るokapi だ、ジラフとまったく似ていない。 しかし普通の buck やシカとは身体つきが違う。 自然の横縞でだんだらになっている。なんとも優雅な動物である。 
そのそばに日本流にいえば売店があって、そこで soft drink を飲んでいた時 okapi の♀が出てきたと言うので行くと、それは bongoだった。 これは現在世界で飼われている one only specimen だという。 
Dr.Pitte 氏をとおして Bissehop オヤジにコンゴのサルを買いたいと話したところ、chimp なら政府の許可がいるけれど、普通のサルはいらない。 一個平均1000フランだという。 
明日の日曜日forest を見に行きたいと言ったら、オッサンが使っている捕獲人を案内に出すと言ってくれた。 Brussel から来た Prof.Dallenagneも行くと言うから、これでどーやら車の心配をしなくてもtropical rain forest が見られるところまでこぎつけたとホッとした。 ビショップおっさんに言わせると、Epule は okapi専門のどうぶつえんで chimp は少しいるけれど、サルはここのよーには集まっていないそーだ。 わざわざ車を雇って300キロもあるEpuleまで行くことはなさそうだ。 
丘の上のゲージには大キナ chimp が二匹いた。 その隣にはおっさんによく馴れた2歳の lion の♂がいる。 Nanda via binotataという変な動物が木の上で二匹寝ていた。 
ここの okapi はここからわずか80キロの所で捕えたという。 dongo は現地語で賢いということだそーで、射殺は出来ても、彼を生け捕ることはなかなか難しいそーである。 
最後にここの zoo に来て一番値打ちのあったのは、 pan paniscus の一歳未満だけれど、生きた 奴を見たことだ。 見るからに賢そーであるが、やっぱりadult が見たいものだ。 
ここで捕った chimp の数はいままでに375だとも聞いている。 zoo を出てビショプおっさんが明日のガイドを頼みに先行し、其れについて行った。 明日は7時半に研究所へ集合と決まった。 
灼熱の日差しに眼がクラクラとしそうだ。

昼はオーストリッチの所へ呼ばれているので、テラスで待っていると、そこに Brussel の prf 達もいて、車の都合で明日の予定があぶなかったforest行きは、行くことになったことを知った。 まことに結構である。 
オーストリッチが迎えに来てくれた。 ずいぶん走った、街のいちばん端だという。 彼の家の周りには、住宅がポツリポツリ建っている。 いい家に住んでいると思ったら、ここはビショップおっさんの家だった。 彼が住まないのでstate が買ってこれを宿舎に使わせてくれているのだ。 自分は lucky だと言った。 彼は絵が好きで、友人の collection にある北斎や歌麿をみて感心したと言った。 彼は今はbacteriology よりも zoology に興味がを持っているといった。 
四つの女の子と二つと一つの子供の、お父さんである。 奥さんは髪も眼も黒い理知的な女性だった。 
いろいろの話しにおよんだ。 
午後は Prof.タラニエを river に案内しなければならないというので、家族の写真を撮ったのち、オーストリッチにホテルまで送ってもらった。 明日のforest 行きも、オーストリッチが車を運転するのだという。 
prof.ダラニエは IRSAC に行って現地人の使う葉を研究するのだという。 彼は pharmaclogy の prof である。 
今日はものすごくよく照りつけて、汗がとめどなく出てくる。 
テラスで Grzimek を2章読んだ。 

7時半に食堂に行き食事が終えたのが9時まえ、今日もバンドが入っている。 伊谷を残して、部屋に帰り Grzimek を読んで11時半寝床。 

4月13日、6時起床。 Stanleyvill を離れる頃パラパラと雨が来たが、やがて空は晴れ、カンカン晴れの熱帯の日照りとなりる。 60キロ余り走ったBabacoro という部落で、さらに local guide として17-18才の若い青年を2人ひろい、車はバックする。 沢山のサルのいる森林が近くに在るのだという。 ときに8時45分である。 
とある一軒家、戸がしまり人気はなかったが見捨てられた様子はない。 その家の前に車を park した。 
それから歩きだした。 森の入りがけに巾2mぐらいの川を倒木を利用して渡るが、こんな平地のどこから出てくる湧水か知らぬが透明な水が流れていた。 だんだん森の中に入って行く中に、またもや像の足跡が出てくる。 目的のモンキーは30―40分進んだが見つからない。 また木も大きくならない。 
1時間ほど前進した時、先頭が止まっていた。 案内の様子からモンキーのいるらしいことがわかった。 
それでも話しに聞くような primaeval forest の届かぬ、下生えのほとんどない、地下のよーな印象、そして時々風もないのに大きな木がバサッと倒れる、と言ったよーなものとはあまりにも隔たった若い森だった。 たしかにモンキーは我々の追跡から逃げよーとしている、ついに発見した。 大きな光沢のある褐色の毛におおわれた大ザルだ。 Dr.オーストリッチはgolden colobus だろーといった。またもう一つ所を発見した。 もっと大きなサルだった。 
10.30追跡を止め道路に戻り、10.40帰路につく。 行きはまだ地上の落葉の上にも forest floor の bush にも露がべったりとついていたけれど、帰りにはもう大かた干上がっていた。 
道路まで戻ったら、カート太陽に照りつけられ、とめどなく汗が出た。  12時車は帰路についた。 
この reverse は tyipical な primeval forest でないかもしれないが、しかし forest へ入ってみても、あの飛行機から見たforestの広がり、 forest の海は到底味わえないことを知った。 地上をいくら這いずりまわっても、それは像の背を歩く蚤の様なものだ。 とーてい像そのものの姿をとらえることは出来ない。 
Stanleyvill へ帰った。 

食後、部屋のテ-ブルの上にあった薬瓶を伊谷が見つけて、これを毎日のんでおられますかと言うから、そーだこれは日本を出る時、パンビタンだと渡されたので、もう2週間も前から毎日服用していると言った。 伊谷はびっくりして、これはクロマイだと言う。 なるほど、そー言えばこの前Rwindiかどこかで伊谷のくれたクロマイがパンビタンと同じ色をしていると思ったのである。 
午後は Grzimek を読む。 
明日の朝はいそがぬので12時寝る。 
〈・・・明日は Leopoldvill(現、Kinshasa) へ移動する・・・〉




以下次回へ 







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