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2010/12/05

AFRICA 1958 (18)

5月11日 (つづき)  マルセーユの空港で1時間ほど待ったのち、夜がうっすら明けて来た時、また飛行機に乗る。 右手にギザギザの山が望まれた。 またウトウトしているうちにパリだった。 
空港で両替をし、伊谷の分も合わせて46000フランを得たので、パリは3日泊る事に決めた。 いろいろな人が往き来している。 アフリカから来た夏シャツ姿のわれわれは寒くなってきた。 アナウンスで電話がかかっていると呼び出しがあり、待ち人の角田さんは用事で行けないので、パリ市中にあるエール・フランスのoffice まで来てほしい、そこから先は田中というのがいる、と言うのだ。 

パリの今朝は曇っている。 こんな曇り方と言うものは日本にはあってもアフリカにはないな。 街路樹はさすがに五月だ。 もう葉を出し、有名なマロニエの花が咲いていた。 エール・フランスの事務所に着く。 田中さんが待っていてくれた。 カメルーンではわれわれ二人しか日本人はいなかったが、ここまで来るともう日本人がいくらでもいるらしい。 

5月12日 11時過ぎ角田さんが部屋を訪ねて来た。 新聞記者とは見えない、穏やかな intelli である。 一緒に出て、フランス料理をよばれる。 これはやはり東京を出て以来一番うまい。 それから伊谷はルーブルを見に出かけたが、部屋に帰ってベッドの上でウトウトしていた。 朝方だか、いまだか忘れたが、またこぶらがえりがした。 右の足も左の足もする事がある、原因不明である。 
角田さんが7時頃、もう一度訪ねると電話をして来た。  夕方までうとうとして、それから久し振りに bath に入ったら、やや爽快になったが、確かにこの眠たさは疲れが出ているだろー。 

角田さんが来て ―昼もそうだが― いろいろ政治の話と芸術の話をしてくれた。 伊谷は演奏会に行くと言うので、8時半一緒に出た。伊谷をメトロのところまで送り、それから角田さんのoffice へ入って、 center からの手紙を受け取り、また Primates と並行使用の letter paper を受け取った。 まだ、来ているそーである。 田中さんがいて、新聞にゴリラの事が載っていると、5月9日の新聞だ。 どうして今まで出なかったのだーろ。 それから飯を食いに行こうと言ってmain street を離れた心寂しい道をウロウロした。 支那料理を食おうと言うのである。 
ホテルまで角田さんに送ってもらい、明日のコーヒーは9時に部屋え持って来てくれるよう頼んで12時に寝る。 今晩一晩ぐっすり寝て、明日からは新しい一歩を踏み出すとしよー。

5月13日 9時まで寝た。これで少しは疲れがなおった。 
10時過ぎ、角田さんがやって来た。 飛行機のリザーブのことでいちど Air India へ行ってくれとのこと。 それをすましそれから大使に会いに行く。 経歴が変わり種。 大使の公邸は立派なものだ、映画に出てくるよーな家だった。 経歴が多彩だけあって、会って話してみると話がわかる。 気持がよい、是非われわれの仕事が続けられるよー、心にとめておいていただきたい、と言って別れた。 桑原の紹介状のあるユネスコの人に会いに行った。 この人は全くの事務官で役人であって、会ったけれどもこれは何の反応も示すところがない。 桑原もこんな男を紹介するとは、奴の男をさげているよーなものだ。 角田さんや大使が、是非合えと勧めなかったはずだ。 

ホテルへ帰り、ロンドンまでの予定が大体出来たので London の小川と斎藤、ブリュッセル、チューリッヒ、シュルツなどに手紙を書いていると、日が暮れ9時になった。 
伊谷と二人でレストランのある街まで出て、ブラブラ歩いてみる。途中でビールを一杯飲み、昼のレストランで夕食する事にした。レストランを出て、もう少し歩いてみた。 
帰って、文春の原稿を読み直し安藤氏の封筒に入れたら、いつの間にか1時半になっていた。  bath にも入らず、さっそく bed にもぐり込んだ。

5月14日 起床8時。 10.30からルーブルを見に行く。 彫刻、ミロのヴィーナス、案内人の女が一群の観光客を前にして、得くとして説明をしている彫刻はよい加減にして絵画に回る。 伊谷独走居士と逸れぬよーに気を配りながら行く。 
古典は面白くない。 ラファエルがちょっと注意を引いたが、ダヴィンチの前へ来て、俄然光彩陸離たるものを発見。 色と言い、その女の頬笑みと言い、これは素晴らしいものだと思った。 モナリザの絵だけにはガラスがはめてあった。 それからセザンヌが出て来るまでの時代にコロ―やミレ―があるのだが ―他にもあるだろーが― コローの青い着物を着た女は良い絵だと思った。 ミレ―の晩鐘が案外小さい、くすんだ絵で―もっと大きい絵だと思っていた― 失望した。 セザンヌ以後のゴッホやゴーギャンは近代美術館の方にあって、ここには陳列されていない由。 
ルーブルを出て行くと画商の show window にゴーギャンやピカソの印刷した絵が並んでいたが、今見て来た絵と余りにも違うのに驚いた。 またピカソなんか一生のうちにどうしてこうもかわれるものかと不思議である。 
それから歩いて、第一日に角田さんに御馳走になった家へ行って昼食をとり、ホテルへ帰った。

角田さんが7時頃、連絡して来ると言ったので、待ていたが音沙汰ない。 8時半にホテルを出て角のレストランのテラスでオリーブの実でビールを飲み、それからルイさんに教わった支那料理を食いに行く。 
今日は午前はそーでもなかったが、午後はくもり ―沈滞特有の曇り日― で夕方には少し雨が降った。 それで出掛けにレーンコートを着て、ベレーをせっかくパリへきたのだ、かぶってやれと思って ―着て出た。 一時あがっていた雨が、また降り始めて来た。 夜の街を散歩しながら、フラリフラリと小雨の降る中をホテルまで帰った。 就床12時。

5月15日 朝、角田さんの奥さんが電話をかけてこられた。 角田さんは、昨日アルジェリアでクーデター(1954~1962年アルジェリア戦争中の1958年5月13日フランスのアルジェリアを掲げる現地軍人、コロン達のクーデター)があって、信任投票も何もあったものでない、新聞記者はみなカンズメだと。 
奥さんに伊谷が今日の午前中モリジアニの展覧会を見に行きたがっていると言ったら、 reception で払いをしていると taxi で奥さんが現れた。 角田さんから昨夜電話がかかっていたのだが、食事に出ていて失礼した事をのべ、部屋に来てもらう。 モリジアニは午前中は閉館と言うので残念だが仕方がない。 
この間、角田さんと支那料理を食いに行った時、通りの壁にドゴールと書いた紙が沢山貼ってあった。 今度のクーデターも背後に軍部が動いている事は間違いない。 しかし角田さんは共和国の面目にかけても軍の独裁にはなるまいと言っていた。 
奥さんの親切に謝し、昼飯を食いにレーンコート、ベレーというスタイルで出てゆく。 食事をすませ、例の通りまで戻って来てシトロンを一杯飲み、それから車を拾ってホテルへ帰り荷物を積んで、ホテルのルイともう一人のおばちゃんに別れて、エールフランスの車の出るところへ行った。 
このホテルは安くて、その上角田さん顔が利くので、快く休めた。家はやや古ぼけていたが bath room などは清潔だった。 第一静かなのが有難かった。 これで大ぶアフリカの疲れが取れた。 オルリー空港行きのバスが出る。 
角田さんが忙しいのに、見送りに来て下さって感謝に耐えない。 

飛行場では cargo の事は伊谷に任せた。 伊谷が搭乗時刻にやっと間に合った、しかし cargo は送れないと言ったそーだ、やれやれ困ったな。 

飛行機は6000m以上を飛ぶ、下はすっかり雲である。 これでは Alps も見えないだろー。  Swiss に入ると、これはまるで箱庭のよーだ。 青々とした畑、黄色いのは菜でも咲いているのか、家は赤屋根に白い壁、たくさん窓があいている。 
5時半ごろZurich 着、バスで都心に向う。 日本人留学生が一人迎えに来ていて、ホテルまで連れて行ってくれた。 
ホテルはこじんまりとした、ピケット夫人が言ったとーり、清潔な部屋だ。 驚いた事に便器の腰掛けるところにかけるカバー(紙カバー)がちゃんと取り付けてある。 こんな所は知らぬ、初めてだ。日本人だけが嫌がるのではなくて、西洋人の中にもそれを好まぬ者もあると言う事がわかった。 夕食後、今夜は何もないのでベッドにもぐりこんだ。 夜明け方寒くなって来て、上にかけてあった厚い布団をきた、こんな事は初めてだ。

5月16日 昨夜、ホテルに帰った来たら、ベッドがちゃんとしてあり、枕もとの机 ―その上に電話とラジオがのせてある― の上に小さなもの、ものがのせてある。 よく見ると銀紙で包んだチョコレートだ、ほほ笑ましかった。さすがに観光国である。 ちょっとしたところで客の心の機微をとらえるのだと思った。 
朝食後、 Prof.Schulz 氏のところへ電話をかけてもらうが、なかなかかからない。 小雨が降っている。 折りたたみコーモリを出して来て、時計のバンドを買いに行った。 
Air India から女性の声でブリュセルの宿が取れたと知らせて来た。流暢な日本語である。 名前を聞くと、刷毛と同じ Brush ですと言った。 Cargo の事を聞きたかったので、後で訪ねると言っておいた。 それから角田さん及び大阪のNJBの川口氏宛手紙を書き、昼はホテルのレストランで。 

午後2時、 Zurich University へ Prof.Schulz を訪ねて行った。  Zoologische Institute の入口の両脇に小さな池があって、カモのひなが沢山いた、カモの巣箱も作ってあった。 なんとなく平和な気持がする。 
Schulz は Anthropological Institute におさまっているらしい。 訪ねてゆくと2階から入って行ったので、1階が研究室だった。 女の人が取次、すぐ出て来たのは、大きな老人だった。 67歳だと言った。 ちっとも大家ぶった所がない。 
一通り陳列した標本を見せてくれたが Primates の部屋にいたり ―人間も含んでいる― ずいぶん沢山の首を持っている。 gorilla やチンパンジーだけでも、すぐ100という単位のコレクションなのだ。呆気にとられた。 一代かかって集めた物であるが、大したものである。 日本なら大学の金で買い、終いはその大学のものとなるのだが。 そしてアメリカから運んできたものであろーが、そーとしか思えない。 ここにこんなコレクションが始めから在るわけはない。 われわれがbehaviorist (behaviologist?) であると知っているので baboon の social behavior をやっているここの園長であり、professor である Homady に明日会って行けと言った。 

4時頃までお邪魔したのち辞して、Zoo を見に行く。 ブラブラ歩き、ついに zoo の見える所まで来たが、 Air India へ行かねばならない。 やっとその所在がわかり、ブッシュさんを呼んでもらった。彼女はこちらへ来てもう5年になるが、それまでは横浜に住んでいたと言う。 もうだいぶ日本語は忘れてしまったと言っていた。 Frankfurt行きの seat は取れていないが、明日の6時に出るルフトハンザをリザーブしてもらった。 London はまだだと言った。 
それからパリに残してきた cargo のことを相談すると。 それなら東京に問い合わせの電報を出し JMC が金を支払ってくれたら、早速エール・フランスから発送させる事に取り計らうと言う。 最後は伊谷にブリュッセルからパリへ荷物を取りに行ってもらうつもりでいたのだ。 ブラッシュさんが電話をかけてくれなかったら、まさにそうなっていたのだが、どーしても一度ブラッシュさんに会ってみようと、その時から思ったのだ。 これこそ虫の知らせと言うものだ。 
これに気をよくして、ブラブラ歩いて、湖を見たり、雪の山を見たり、寒いから一杯ひっかけたり、まだ日が暮れていないので街の気分はもう一つ出ていないが、ホテルへ帰った。 

夜はホテルのレストランで食事。 部屋に帰り、日記をつけ、きょう Schulz 氏の所へ、桑からと金子さんからと2通手紙が来ていたので、返事を書く。 
Chogolisa がもしオーストリアに登られてしまった時、どーするかと聞いてきているからだ。



以下次回へ



 

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