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2010年12月

2010/12/30

AFRICA 1958 (22)

5月27日  朝食後、伊谷はアメリカ行きの飛行機の reserve に Air India へ行った。 小川と連絡し、藤岡氏の住所が分かった。 伊谷はreserve して帰って来た。 
藤岡に電話をかけ、すぐにこれから出かけるから Charing Cross  ―われわれから一番近い駅― から3番目の駅で降りてくれ、北口で待っていると言う。 そこは繁華街でこんな所で待ち合わせるなど、だいたい無茶な話である。 
しばらく街角で待っていたが、伊谷が見つけて来た。 向う側の出口に居たそうだ。 それから支那料理屋へ行った。 一緒に飯を食った。 藤岡氏は貧乏な留学生で、オーバーも預けると金を取られるから持って入れと言う。  
それから University of London の Asiatic institution ヘ行く。 日本の本も沢山ある。 宮本さん?という人がそこにいて、親切にしてくれた。 
Heinendof は今日はいないが、明日の午前中なら居るというので明日もう一度訪ねることにし、 Ford の方へ宮本さんが聞いて message をホテルに送ってくれるよーに頼んだ。 その間に Africa 関係の文献を調べた、1000冊位あるだろー。 その中から新しそーなのを探して数冊ノートしておいた。(伊谷のnote) 
そこを出て taxi を拾って Royal Geographical Society へ行き、すぐ visitor というところに sign しておく。 二階の廊下に Stanley はじめ偉い explorer の肖像画が並べてあった。 
Douglas Freshfield (1845~1934) の肖像が印象をひいた。 彼は人間として、やはり特別に出来の良い男だったと思った。 人間もあれくらいまでなれるものか。 
Library は実に古い本を沢山持っている。 さっき U.of.London で驚いたが、ここはその4倍や5倍は持っている。 
Nepal 報告は Index にあるのに並べてなかった。 藤岡氏が係を呼んで詰問した。 
それから Geological Museum (British Museum) を駈足で見て、すぐ National History Museum に行った。 標本はベルギーの物にくらべ出来が非常に良い。 とにかく建物の壮大なのに押さえられた。 昆虫の標本は勿論、楽屋にわんと仕舞い込んでいるだろーが、一時の参観を許す所にも British Butterfly だの Exotic Butterfly などの標本ダンスが並べてあって、好きなよーに引き出しを引いて見られるよーにしてあるのには感心した。 
魚の所では大きな魚の標本にも感心したが、イギリスの鮭の大きなのには驚いた。 日本のマスよりもずっと variety があって、 parr mark の入っているものも、入っていないものもある。 
数々の標本を見て来ると、こんな museum があったら出かける前に実物で充分勉強出来るのだがと思い、これだけは羨ましかった。イギリスの Natural history の強味はこんな所にあるのだ。 それから bird の陳列を見ている最中に6時になって、電燈を消され追い出しを食った。 
それで South Kenthington の近くでコーヒーを一杯飲んで、地下鉄でホテルへ帰った。 (藤岡氏とは museum で別れた) 
ホテルに帰ると message が来ていた。 
別冊発送(アメリカ向け)を伊谷に頼む。 日記をつけ就床、12.10

5月28日  朝の中に Fuhrer-Heimendorf に会うべく電話をかけ、伊谷はアメリカ送りの reprint を post office へ出しに行った。 3ポンド以上かかったそうだ。 
U.of.London へ行き Heimendorf に会う。 あんな Assam の奥へ入った人間には思えぬ。 柔和な男である。 2月の終わりに第2回目のネパール調査から帰って来たそーだ。 川喜多の tsumuje の仕事は大変高く評価しているらしい。 本の翻訳のことも話しておいた。 
それから昨日行った本屋で本を受け取り、支那飯を食うと言う予定をやめて、ホテルへ帰り Grill で昼飯を食った。 
今度は Darylle Forde に会いに International African Institute ヘ行く。  Forde は朝来るかと思ったと言った。 
彼の Habitat Economy Society に サインしてもらった。 文献は Royal Geographical Society と同じくらい持っていた。 また African Abstract というのを出している。 
Africa も日本人には初めてだが、もう随分調べられているらしい。ここで働いている女性はみな丁寧で親切だった。 
ホテルへ帰ったら4時半だ。 それから小川に電話して日航へ行く。それで伊谷の Air ticket を見せ、アメリカの事を頼んだ。 
Air Line の地図を見せてくれて、初めて分かったが Washington は Boltimore のすぐ近くなんだ。  Washington の位置を知らないと言うのは、恥ずかしいことだった。 
それから地下鉄に乗って伊藤忠へ行く。 そこでは小野さんという若い人が主任で、その人にお眼にかかった、東京の相川、梅本などいう人はみな大阪商大の先輩だと言っていた。
夜は毎日の斎藤さんの所へよばれる事になっていたから、6時半という約束が6時になっていて、ここから遠いと言う事なので、電話をかけようやく斎藤さんの家まで来たら、藤岡氏と塚本さんが既に見えていた。 
そして斎藤さんから、この前 Zurich から大阪の川口さん宛頼んでおいた5万円を受け取った。 
それからブドー酒を一杯やりだした。 肴は奥さん苦心の料理でタラコの炊いたのが珍しかった。 ビールは Carlsberg の du Luxe というのを飲んだがこれは流石に美味いと思った。 その中にダンダン妖しくなってきて、オカマの話が出た。 それからどうやら歌を歌ったらしいが、何を食ったかどーか、帰りにどのよーにして帰り、どーして寝たか、例によって一切覚えていない。 伊谷に聞いたら斎藤さんがホテルまで送って下さったそうである。 
これでロンドンではこの前と、2回酩酊したことになる。 

5月29日  眠いが今日は Oxford へ行く日なので、8時に起きた。雨がシトシト降っている。 
地下鉄は rush hour で満員だ。 汽車に乗り換える。 
郊外はやはり牧場が多く、美しいその間をドロンとして、川原も瀬もない川が流れ、その岸まで木が茂っている。 あんな川に trout はいるまいがpike はいるかも知れぬ。
途中で Reading general という変てこな名前の駅で止まったきりで、Oxford に着き、 Univewsity へ行き Mr.Thinbergenを訪ねたが、今月中留守だと言うので別刷を言づける。 この言づけた男は親切な男で、Thinbergen が留守なら Elton に会いたいと言ったら、電話をかけてくれたけれど、Eltonもおらなかった。 
それで帰ろーとしたら、そんなら博物館でも見て行けと言うので案内される。 大学の動物学教室そのものはゴタゴタとした、古ぼけた汚い建物で日本の大学の方がはるかに立派だ。 
しかし、博物館はこれも古い建物では有るが、大学の中にこんな物があるかと羨ましい。 
イギリスの natural history を育てるに十分な collection だ。  Geology が半分以上占めているが、イギリスでは geology も natural history のなかに、少なくとも地史や古生物はその中にはいっているだろー。 日本の大学は今からでは Museumを持つことが出来ないかもしれぬ。 これは一朝一夕では出来ない仕事だから。ここはとくに鳥の標本がたくさんあった。  Longstaff のような人がここから生まれたのだ。 
Pite-Rivers の Anthropological Collection は午後2時からでないと開かないと言うので大学を出るた。 雨はまだヌカ雨のよーなのが降っていた。 どこか飯を食おうと思ったが、食いもの屋がない。本屋に入って本を一冊買い、やっと coffee という字を見つけて、入る。 レストランもやっていた。 
そこを出て駅へ駆けつけたら、ちょーど汽車の入って来たところだった。 これを外すと大分遅くなると言う。 よいところで catch 出来て良かった。 汽車の中で二人とも居眠りばかりしていた。 
ホテルへ帰ったら4時前だった。 
伊谷は JAL へ行ってもらう。 小川、連絡付かず。 
伊藤忠の小野さんは7時半頃訪ねて来られた。この間行った長城飯店へ行く。 イロイロ商社の話を聞かせてくれる。 店には日本人の party があり、20人も集まっていると言う。 東大の脇村、有沢といった有名な人達がいまロンドンに来ているので、その集まりらしい。 飯店を出てから、しばらく Oxford Circus の辺をぶらつき、地下鉄で帰って来た。 
小川と連絡がついた。 それから11時前に小川から、もう一度電話があって、いま British Cameroon から帰って来た人が放送していると言うので、初めて部屋のラジオにスイッチを入れた。 
そしたら鳥の声、それから人の言葉が聞こえて来た。われわれの聞いたのと良く似ていた。 
11時過ぎから雨がかなりひどく降りだす。 伊谷が日航で shoulder bag を貰って来てくれたので、アフリカを持ち歩いた Air India に暇を出した。

5月30日  Liverpool station まで taxi をとばして、 Cambride 行きの汽車に乗る。 
今日もやはり小雨が降っている。 食堂車へ行って、トーストと tea を取った。 ホテルでは食えないアツアツのトーストで久し振りにトーストが美味いと思った。 
Cambride に着き、また taxi で Grand House Hotel ヘ行く。 しばらく待っていたら Chance が出て来た。 思ったより年取っている。 45位かも知れない。 大変今日は忙しいので今夜泊れ、そしてらゆっくり話が出来ると言うのだが、どーも泊るつもりで来ていない、困った。 Filmを持ってきたと言ったら大変喜んだ。 わしも今日の meeting で film を写すからちょうどよいと言った。 
しばらく考えて泊ることにした。 
それで小川に今日は帰らないと言う電話をかけておいて、ロビーで Chance と話した。 雨がひどくなって来た。 
食堂で1時に昼食をとった後、 Laboratory of psycholog ヘ行く。 良く分らないのだが、 Cambridg Univercity と言っても幾つかの College の集まりで、その college は恐らく20以上もあるだろー。 だから Laboratory of psycholog と言っても、それはどこかの college に属するのだ。 それに町そのものが大学である。 
しかしどの建物も古色蒼然としている。 小さな講義室へ入った。30人か40にん位の部屋だ。 はじめにわれわれの film が写された。しかし sounder が悪いので残念だった。 次に Chance の film が二つ写された。 彼の London zoo における Rhesus monkey ― monkey village における― の film だった。
それから Chance が lecture をやった。 聞きに来ている者には女性が3-4人も交じっていた。 Chance の Lectureが終ってから別のゴチャゴチャした部屋で tea を飲み、それから別の実験室で discussion となった。 そこに鼻の高い、おもしろそーなオッサンの他に若い人が2~3人集まっていたが、socialsolidarity の問題で chance と意見が合わなくなった。 
これは発見である。 彼は Zuckerman 以来の tradition というか ―すくなくとも zoo observation に baseを置いている。 われわれは field oobservation に base を置いている。 この base の違いが暴露したのである。 
Discussion の後で二人の若い人に実験室の案内してもらう。 それから rhesus の飼育室を見せてもらった。人工飼料を与えているのが注目を引いた。 
案内してくれた二人というのは、アメリカから留学している。 それから二人に車に乗せられて、ホテル Garden へも戻ったら Chance がすでにいた。 Garden の前には運河のよーなものがあって、そこで boat を浮かべている人もあり、少し下の方には学生が沢山集まってビールを飲んでいた。 試験がちょーど済んだ所である。 
夕日を浴びながら、そこでシェリーを飲んで食堂に入る。 その前に、二人の学生に今夜われわれが泊るという Cambride Arms Hotel に案内された。 ここは学生会館とか言うとこにあたるのだろー。通された部屋には便所も風呂もついていて、嬉しかった。 

夕食後もう少し Cambrige を見ようと言うので drive に出て、昼間の meeting で挨拶した Prof.O.Zangwill の家を訪れた。 ちょーど今が夕暮れ時であって綺麗だ。 月が出ている。 
この教授は、柔和でこれが英国紳士というものかと思われるた。 長い間が過ぎ、やがて時も過ぎ11時になり、外も真っ暗になったので、帰るべく Prof に挨拶した。 学生がホテルの前まで送り届けてくれた。 そこで Chance と別れ部屋へ帰り bed の中へもぐりこんだ。 
今日もう一つ気になったのは food をどちらが先へとるかで dominance を決めるのは偏りを生ずると言う事である。 伊谷は反対なのだが、この男は自分の高崎の観測のみに頼って他の人のやった事を取り入れない。 学者にはこーいうtypeの学者と、それなら他人の仕事を時には清毒合わせ呑んで、それを結合してゆく type とある。 
彼は高崎にはそんなことはないと言うのだが、現に小豆島では、No.1は No.2 の presenting にあって餌を譲ったこともあり、川村のシカの中にもムツキがキサラギに餌をとられる事がある、それでも leader を退いたことになっていないのだから、 generation のへだたりが NO.1 と No.2 との間にあるときには、こーいう case もあると言う事を知る必要がある。 
おそらく高崎の6匹の leader の間には、そーした generation の開きがないから、そーゆう事は起こらないかもしれないが。

5月31日  汽車は7.45発で、伊谷は汽車に乗るなり寝てしまったが。 この間 Oxford で買った Medawar の本を読んだ。 
London 着、ホテルへ帰って、一休みした所へ小川がやって来た。毎日から来た50ポンドは伊藤忠に頼んでドルに替えてもらうことになり、一緒に出てまず古本屋へ行った。 素晴らしく大きな古本屋なんだが、Fillipi の Ruwenzoi はなかった。 それから小川の office へ行き、そこから歩いてロンドン brige とロンドン塔の見える所へ出て、あとは伊藤忠へ行き小野さんにニューヨーク店の紹介状をもらった。 
昼食に長城飯店へとんで行った。 早起きしたので腹がばかにすいているのだ。 その後小川と別れてホテルへ帰った。 
伊谷は斎藤さんの奥さんに誘われて音楽会を聞きに行った。 まだ手紙を書いたり、荷物を作ったりすることがあるのだが、ちょっと bed に横になる。 
1時間程寝た後で仕事を続け、その中に伊谷も帰って来たので8時過ぎから小川の下宿へ行く。 一杯飲み始めた所へ藤岡謙二郎先生も現れ、大いに賑やかになった。 気が付くと宮崎氏も来ていた。 どれだけ飲んだか知らぬが、それから街に出ようと言う事になる。大分飲んでいて、この辺の事情は良く分らない。 宮崎氏の車で出た事は確かだ。 
・・・・・ 車を拾ってホテルの前で小川と別れたところまでは覚えているが、それから先は、また良く覚えていない。 朝、起きてみると喉がひどく乾いていた。




以下次回へ 


2010/12/27

AFRICA 1958 (21)


5月22日  7時過ぎ起床。 
9.15発の express で Lowvain へ向う。 郊外の少しゴタゴタした所を越してしまうと、綺麗な農村の連続で、いかにも豊かそうである。 
Lowvain は誰でも大学街だと言うから、一つの大きな大学が立っていて高い時計台でもあるのかと思っていたら、そーではない。 
町の中のあちらこちらに本部、こちらに Philosophy 教室、またこちらに Zoology の教室と言うように、町家の中にそれがバラバラに散らばっていて、どこにもちっとも大学らしいところはない。 だから学生が沢山狭い通りをノートを抱えて歩いている所だけが大学街だ。 
一人の学生にとにかく philosophy の教室を訪ね、地図を書いてもらって、途中イロイロな人に道を聞き、最後は女子学生二人に案内されてやっと着いた。 
10時半ごろだった。 そこで Vandebrock の教室を訪ねると、助手らしいのが出て来て、今日は午後こちらへ来るだろーと言う、午後まで待っていられるかいな。 
それでその方はあきらめて、ドクター・エルギスを探そうとしたら、一人の男が現れて大学本部という ―これも町の中の普通の家の間に挟まれていた― ところへ連れて行ってくれた。 そこで散々調べられた結果、エルギスは目下、Gent の大学に勤めている事がわかった。 これも駄目。 日本から出した手紙もきっと不着に終ってしまったことだろー。 

停車場まで道を教えてくれたので、昼までにブリュッセルへ帰へろーと駅に向った。 ちょーど11時25分の express に間に合い、12時15分にブリュッセル中央駅へ帰ったので、それから大使館の及川さんに電話し、駅から50frで taxi を飛ばし、大使館で手紙(ロンドンの小川から)を受け取り、コンゴの museum までは送ってもらうことになって、とにかく昼飯を食いに行く。
Museum では National Culture が館の大部分を占めているが興味がないから、印象ににも残らぬ。 蝶の標本の所で、アフリカではFamilian になっていた papilis の名前がわかった。 また鳥の標本を見て知るところがあった。 それからまたもや museum の裏通路へ案内されたが、そこにおびただしい skeleton の collection が有るのには目を見張った。 像や水牛のよーな物、頭蓋骨だけでも幾らあるかわからぬ。 
最後に行ったところに Uy.Verhegen と言うまだ25歳の青年がいて、colobus の計測をやった論文をくれた。 また標本ダンスを開けて、さあこれがチンパンジーだと見せてくれたが、どのタンスにも一杯つまっている。 これだけはわれわれの力で到底集められるものではない。 われわれが behavior を始めたかは、今からでは遅いと思ったからである。 ますますこの感を強くした。 
二人に別れて館の外へ出ると、 museum の裏に池を作り、その周囲を広く取って芝生と森に取り巻かれていて、実に造園がうまくしてある。 雨がポツリポツリ来たので外へ出てレストランでコカコーラを飲んで、電車線路を行く。 

夜は伊谷が昨夜賑やかなところを発見したと言うので、あまり行きたくなかったが、電車に乗り中央駅をこえてもう少し先まで行く。ここは商店街であり cinema も幾つかある。 しかし日本のよーに cinema と食いもの屋が必ずしも接近していない。 
レストランに入り食いものを注文した。 店でシャンソンを聞いた。 何かしみじみとした歌を歌った。 シャンソンというものは、こうゆう所で聞くべきものだと思った。 小雨降る中を、宿の女将と約束した11時にきちんと帰った。 すぐ寝た。 

5月23日   9時半、ホテル出発。 
taxi で Sabena の office へ行く。 宿のこずら憎いマダムも別れ際には門まで送ってくれた。 バスで空港へまで行く。 そこで残りの金をポンドとドルに替え、ドルは73ドルを得た。 
一足先に Pan の London 行きが出る。 次々に Sbena 機が着陸するので、それを待って11.30、まず Pan が滑走路から走り出した、―ソノ前に Sabena が一台発った― そしたら100mも走らぬうちにプロペラが一つ取れて飛べなくなった。 そのプロペラを除けてしまわなければ滑走路が使えない。 困ったなと思っていたら、流石は国際空港だ、別の滑走路から離陸した。 

ドーバーの上は雲の上、遂に海を見ず雲切れ、海岸が見えた。 所どころに下の見えるとこでは、イギリスの田園は日本と同じよーに、一連の耕地がじつに irregular 、したがって道も irregular という事だった。 また暗い雲の中を抜け、こんどは小さい家が一杯建ちこんだ所を通ーる。 もうすぐ London の空港らしい。 イギリスの家はどんな小さな家でも、家の前と後ろに garden を持っている。これが規格なんだ、これには感心する。 AirPort 着、12.30。 

小川氏は木村氏の自動車で迎えに来てくれていた。 入国、税関ともに freepass 、伊谷は両方とも引っかかった。 伊谷 boston bag 忘れる。 London の center までは非常に遠かった。 
ホテルに着いた、そこで木村氏に別れた。 ホテルはけばけばしくて落ち着きがない。 Nairobi の New Stanrey を上回るものである。 予定を立てるため Birmingam の Chance 氏に電話し、同氏とは London で30日にあうことになった。 今度は Zuckerman に電話したところ、いない。 パリへ行っていると言う。 明日の朝もう一度かけることにした。 
それから小川氏に来ていた手紙を読んだ。 川喜多隊も出発の由。その中、毎日の斎藤さんから電話あり、7時にホテルへこられる由。それまで小川と話していた。 伊谷の紛失物は見つかったので、彼が明日 air port へ取りに行く。 

7時、斎藤氏がフロントヘ来られたので行く。 奥さん同伴。  bar で一休みした後、ホテル向いのレストランへ案内されるた。 
阪大医学部の矢野さんと云う若い人の夫婦と、木原さんのお弟子さんでアメリカからこっちへ来て、もう3年も留学しているというひとが同席。 まず smoked の salmon が出た、これにレモンとコショウを振って食べる。 この smoked salmon は大変美味かった。 次はこ の店の自慢の rosrbeef でこれもこれにかけるソースが一風変わっていて、大根おろしのよーな物だったが、これも美味かった。それから皆でトラファルガーのスクエアーまで歩いて、そこで別れて、ホテルへ帰った。 
このけばけばしいホテルと、昨日まで寝ていた下宿屋の屋根裏の部屋とを比べ、なんだか屋根裏が懐かしいよーな気がした。 毎日相当睡眠を取っているのに、どーも寝不足のよーでいかん。 
今夜も11時40分である。 イギリスで英気を養っておいて、アメリカは一挙に片付けてしまう作戦である。 

5月24日  Gorilla ハ一夫一妻カ一夫多妻カトイウ議論ホド゙ツマラナイモノハナイ。 ・・・・(と始まっているが、その部分は省略します) 
伊谷は空港へ忘れ物を取りに行った。 小川は12時前に電話をかけて来て、もう30分ほどしたらそちらへ行くと言って来た。 小川に朝 Zuckerrman の秘書の所へ電話をしてもらったが、その仔細を聞いておくのを忘れた。 朝飯抜きで、腹がへりビールを部屋まで持って来てもらうように頼んだ。 
小川がやって来たので、一緒に支那飯を食いに行った。 それから帰ったところフロントにちょーど伊谷がいた。 

それから Zoo に行く。 はじめて地下鉄というものに乗った。 zoo は土曜日で大勢の人だ。 Monkey house を見た。 南米のものは少ないが、さすがに良く集めてある。 この zoo は ungulate がとくに集まっているように思った。 それから鳥は Antworp で感心したけれど、ここの方が多い。 Aquarium はこれだけ切り離しても成り立って行くほど整備されている。 Rainbow trout の池に、例のカラコラムで釣ったのが沢山泳いでいた。 それに common trout としてイギリス及びヨーロッパと産地は記されていた。 あまり広くもない zoo だが、随分見ごたえがある。 
今日は朝から寒くて、風が冷たい。 こんな寒さは日本以来初めてである。  Zoo の Zoological Society of London 建物が立っていた。  1830年代の創設である。 動物も戦後に買い入れたものが多いが、こんなことには金を弛まずにかける所が英国の偉いところだろー。 
5時過ぎまで見ていて、それから小川の下宿へ行った。
下宿と言っても下鴨や吉田山辺りの下宿と違って、壁に絵画が3~4枚かけてある。 小川の所で、ジンとウイスキーをカラスミや海苔でよばれた。 そして大興安嶺の話が出た。(ここに出てくる小川武氏は1942年、大興安嶺探検隊の隊員の一人) また、桑原隊の新聞発表を、ここで初めて見た。 

7時半、また地下鉄を利用して Regent Park まで乗り、木村重信の所へお呼ばれに行く。 刺身は鯛だった。 ブドー酒を飲むうち、小川と二人は酔っぱらってしまい、歌を歌ったりして大分騒いだうえ、木村さんにピカデリーまで送ってもらった。 
それから千鳥足で歩いていたら、小川、伊谷とはぐれてしまった。もうよい加減に帰ろーと思い、トラファルガー・スクエアーは何処か聞くのだが、発音が悪くて通じないので、ネルソン、ネルソンと言って、とにかく教えられてトラファルガー・スクエアーまで出て、どーして部屋へ帰り、どーして寝たか、良く分らないが、とのかく朝起きたら、きちんと寝ていた。 
しかし眼鏡がない、木村さんとこに忘れたかと思った。

5月25日  10時まで寝た。 
伊谷と小川は、小川が大分武勇伝を発揮し、結局にホテルで小川は寝て、朝ゴルフに行ったそうだ。 
今日は日曜日で、外へ出ても店は閉まっているだろーと思い、ホテルの中で食った。 2シルから5シル位の軽食が並べられてあって、好きなものを買えばよいのであるが、ひどく不味いものだった。 ビールは5時からだと言うが、ビールを飲んでいる者があるので、一杯飲んだ。 
それから外へ出てテームズ川に架かった橋の上まで行ったが、昨日と同じよーに寒いのでホテルへ引き返した。 それからベッドの上でウトウトしていたが元気を出して、手紙を書きはじめ、絵葉書10枚と封書5通書いた。 
夕食は美味いものを食おうと言うので、下の executive room へ行った。  Scottish Saimon と スープとそれとチキンを食べてビール一杯飲んだら56シリング取られた。

5月26日  小川の方から、明日は9時にホテルへ誘いに行くと、昨日電話がかかっていたので、朝は眠かったが8時に起きた。 
郊外の whipsnad zoological Park へ行くと言うのである。 朝から雨、しかし今日より他に日がないので行く事にする。 朝食はグリルで食った。 このホテルに泊まってから初めての朝食なんだ。ベーコンとフライドエッグとソーセージのついた皿が出た。 朝からこんな物を食うのは、東アフリカ以来だ。 

小川はまだ運転の免状を取ってないので、一緒の下宿にいる OSK の宮崎氏が運転して下さる。 郊外は道端の柵一重隔てて綺麗な shot grass の牧場で牛が所どころに居た。 贅沢な飼い方だ。 
Zoo に来るとやっぱり人は来ている、雨は上がったがやや寒い。 車を中まで入れて一回りした。  Zoo という park だ。 道沿いの民家の庭にも、沿道の森にも、また此処にも、もうマロニエの花が老いてしまったのに対し、hawthom すなわちサンザシが満開である。  白と紅と2種類ある。  zoo ではクジャクが食堂の石垣にとまり、カンガルーが一匹ヒョコヒョコ柵のない所を飛んでいたが、サルとアカゲの檻とテナガの島があるだけだった。 乗馬スボンをはいたお嬢さんが zoo へ来ていると思ったら、それは動物園のお雇いで、子供をのせた pony の手綱を取るのが役目だった。 Zoo のレストランでマトンのロースを食った。 イギリスへ来て初めて食うマトンだが、蒙古の羊にははるかに及ばない。 
帰りの車が混まぬうちに帰ろーと、3時過ぎ zoo を出た。 

小川の下宿により、宮崎氏を交えて茶を飲み、やがてウイスキーになり、帰って手紙を書こうと思っていたが、近所の支那料理へ行こうと言う事になって、6時過ぎ出かけた所、その店は休みだったので、トートー都心まで出た。 
Oxford square の近くでちょっと銀座を思わす。 そこの支那料理に久し振りに、焼き豚を食って美味かった。  fish ball という物も美味かった。 それからホテルまで送ってもらった。 
夜、手紙を5通書いた。 今日歩いてきた郊外といい、zoo といい、よく整っていて綺麗だが、それは白人の女のよーによく整い、綺麗なんだ。 しかしちっとも面白みというものがない。 整って綺麗だ、綺麗に違いないが、近づきがたいものがある。 抱きしめたいよーな気持にはなれない。 小川もそんな事を言っていた。




以下次回へ



            






2010/12/19

AFRICA 1958 (20)

5月19日  8時起床、9時に外へ朝食に出かける。 
一軒の店が開いていて客の入っていたところへはいる。 みな朝からビールを飲んでいる。 食事だと言ったら、パンの上に鮭のくん製とひき肉の生にニラを振りかけたものと、2種あるのを皿にもり合わせたのを持てきた。 それでビールを2本飲んで、良い気持になってホテルへ帰り、10時taxi で sabena へ行き、そこから空港へ行って11.25少し遅れて離陸した。 
マインとラインの合流点が見えた。 やがて飛行機は雲の上に出てしまった。 軽食が出る、まだ腹はすいていないが、これで昼食代用にしようと思って辛抱して食った。 飛行機は雲の中へ下りはじめる。 Bruxelles着12.30ぐらい。 約1時間だ。 

そこから都心までバスがあるが、バスは遅れて、train で行く。 
外はのどかな春日和だ。 train は終いには地下鉄になり、そこでエスカレーターで外へ出る。 Air India の取っておいてくれたホテルに着く。 
狭い階段を登って天が斜になった一番上の屋根裏の部屋へ通ーされた。 もちろんべんじょや風呂が有ろうはずがない。 これで250fr (1750円)とは、いかにも高い。 
それから Japanese Embassy へ行ったが、門が閉まっている、ベルを押すと外人が出て来て3時まで休んでいるというので、道端にあるベンチにこしかけて30分間日向ぼっこをした。 アフリカではこんな事は出来ない。 
それから3時に大使館へ入って行った。 そしたら出て来た人が Congo の丸山領事は、きょう13時の飛行機で発たれたと言う。 残念なことだ、しかし金は領事が持参して下さったので、それを受け取った。 
それから1党書記官の矢野泰雄氏の部屋に案内された。三高出だと。ブリュッセル滞在中の予定を語り、便宜を図ってもらうよう頼んだ。  Congo Museumなら、これからでもと言うのだったが、 London 行きの seat が確認できていないので、 sabena へ行くことにした。  Museumに行くには時間も遅いので 、そこへ丸山さんを送って行った及川書記官が帰ってこられ、明日行く Antwarp の動物園へ連絡してくださった。 そこでバルーン大学の方へも連絡していただくよー頼んで。sabena まで送ってもらう。 
Sabena では booking o.k. と言うことになり、これで一安心。 それから Antwarp 及びバルーンへ行くのは CavtralStation 始発と言うことを確かめたのち、昼飯が少なかったので腹がすいたから、町の方へぶらつきだした。 途中でビールを一杯ひっかけ、結局支那料理に入る。 
隣に女連れが3人きて、ブドー酒を飲み焼飯を食った。 こちらは白ブドー酒で対抗し、焼卵と豚やら、マッシュルームやら、キクラゲやらの入った煮込みと、焼飯を取ったが、 一人前と言うのが先ず二人前は充分あるので、これをみな平らげたら久し振りに腹一杯になってしまった。 
ブリュッセルは活気があるが、その代わりになんだかゴタツイテいて、街は犬のウンコが散らかっていたりした。 とても Zurich の綺麗さの足元にも及ばない。 綺麗な人はここにもいるが、やはり引きしまっていて、あどけなさがない。 

矢野氏の話によると、 Belgium の植民地政策は本国に黒人を入れないと言う方針だそーだ。黒人が本国へ入りこみ、また本国から食いはぐれが植民地へ流れ込んで、そこがいりまぐれるとフランス領のよーにいろいろな面倒が起こり、終いに植民地を手放さねばならなくなる。 こう言う考えだから、今度の植民地政策は一番遅れているとも云われていると言った。 黒と白とをseparte する政策とにらんでいた事は、やはり間違いはなかった。 
フランスのアルジェリア問題は、現地と中央とが対立のまま、一応おさまり新内閣が出来たそーだ。 ドゴールは出るまいが、フランスはかつての日本が満州軍に操られたよーに、次第に出先にいる軍部に抑えられるよーになるのでなかろーか、と言うのが矢野氏の意見であった。 

ベルギーの4日間はちょっともったいないものがあるが、博覧会にもせっかくここへ来た事だから、一日顔を出すことにした。 もうイギリス、アメリカでは大使館のお世話にもなるまい。 大使館、領事館にお世話になるとしたら、これが最後であることを定む。  10.40就床。 

5月20日  8時起床、昨夜よけいに食ったから朝食抜きで、今日はアントワープの動物園へ行く。 
ブリュッセル北駅で train に乗った。 小さな家 ―と言っても3階建― のゴテゴテと建てこんだ場末風な所から、ホルスタインや羊を飼っている綺麗な郊外に移る。 青々とした新緑である。 白樺を見た、ナナカマドもある、植えたものだろう。 
アントワープに着いた。 director の Van den Bergh はいま忙しい、12時にもう一度事務所に来てくれと言うので、建設中のnew ape house と monkey house で時間をつぶす。 大きなオラウータン、チンパンジー2種。 それから Congo のサルや南米のサルがいた。園丁が名を呼んだら止まり木にぶら下がって、寝ていたsloth が目を開けてフラリフラリと木や金網を伝いながら下へ降りて来て餌をもらったのは見物だった。 
12時になって Bergh に会う。 グルメックと違って、若い、あまり飾らぬ人物だった。 ―園長にしては確かに若い。 今日は忙しいから、とにかく飯を食いながら話そうと言って、園内のレストランへつれて行った。 ところがそこで、この動物園のbiologist と言うオバチャンが現れて、この人と一緒に食事し、最後までこの人の世話になったのである。 食事はこれは久し振り定食で、オードブルに野菜が沢山付いていたのは、有難かった。 

それから園内を案内してくれたが、先ず ape house だ。 これは上野と同じ system である。 それからゴリラを見せると言って、3階に上がると、そこがちょうどグルメックとこに作ってあったと同じ様なcage を作った部屋になっていた。 ローランドゴリラ2匹、3才の♀と5才の♂とがいた。 ♂のゴリラはチンパンジーと同居していた。 ゴリラはマカロニの生をパリパリ言わせながら食った。 次にマウンテンゴリラを見せると言って、建物をぬけてゆくところにcage があった。 
いろいろなものが入っていた。 例えばシカのようなもの、ape とmonkey ばかりが一つ一つの cage に入っている、オラウータン、ここにbigman ぐらいのマウンテンゴリラが2匹いた。 どの動物もオバチャンによく馴れている。 この人が多分飼育主任なんだろーと思う。 それから動物園の楽屋裏を覗かしてもらった、これは大変に参考になった。 それからエレベーターで上がるとneptik house だった。 
そこを出て、もうオバチャンに迷惑だから別れよーとした。 ―疲れてくると英語で喋るのがいやになり、それと共に hearring も不可能になるので― しかしオバチャンは、まだオカピやシロサイや bird house を見るだろーと言うので、なおも案内されてゆく。 ここの動物園はずい分飼育している。 聞いただけでも相当ある。 
驚いたのは最後に見た bird house だ。 そこまで行く間にも、例えばキジ、クジャクの頭の綺麗なのが沢山集めてあった。 鳥を実によく集めている。 これがベルギーのnative bird を集めたものだと言う cage もあった。 
ところで bird house へ入って先ず驚いたのは、小鳥を見るのが水族館のよーに、こちらが暗くしてあって、鳥のいる所は電燈で明るくしてある。 これだけで鳥は決して暗い方へは飛んで来ないそーだ。 だからもちろんガラスははめてない。 ガラスなしで直に鳥を見るようにしてある。 これは感心した。 
しかし全てがそうなってはいなかった。 キューカンやハミングやオームなどはガラスをとーして明るい部屋で見るよーにしてあった。
4時にオバチャンと別れた。 

それから駅前の通りを歩いているとパリのよーに沢山のレストランが両側に並んでいた。 パリを思いだした。 其処でシトロンを頼みながら道行く人を眺めた。 
ラッシュアワーにならん中にと4.45分発のブリュッセル行きに乗った。 ブリュッセルに帰り、博覧会行きのバスの出る所を確かめ、ホテルへ帰った。 

7時過ぎ、夕食にもう一度昨日の支那料理のハゲ頭の親父が気に入ったので、あすこへ行こうと思い、伊谷を誘って下へ降りた所へ大使館から電話がかかって来たという。 こちらからかけても中々通じない。 業をにやして外へ出た。 
支那料理へ行く前に、美味いもの屋で一杯と思い、昨日見つけておいたので、アワビを食おうと思ったが finish だと言う。 デンデンムシを取ったが、僕はその匂いが嫌いなので二つほど食って、伊谷に残りを食ってもらった。 それから支那料理へ入ったところ、もう9.20なので客がいない。 オッサンと30ぐらいの支那服を着た女が店番をしていた。 木賃ホテル ―実は値段だけは高い木賃ホテル― へ帰る。 そして朝おきたままで、清掃もしてない部屋で、しわくちゃのベッドへもぐり込んだ。 就床11時半。 

5月21日  8時過ぎホテルで朝食 ―朝食付きだそーである― ルーベンへ行こうと思い、出かけようとしたら大使館から電話があり Vand Brockは11.30に Congo 館 ―exposition の― で待っていると言う。 それを聞きちがえて Congo Museum だと思っていた。

それまでに9.30だから時間があるので近くの Leopold Park にある Natural History Museum に行く。 入場料は取らない。
そこで元の館長で、いまは隠退している Honorary Director になっている S.Frechkop を訪ねた。 これがまた案内されてみると、どえらい立派な、かつ綺麗な建物で、彼のいるのはその最上階で、そこからはブリュッセルの街が見下ろせる。 
しばらく話して標本 ―観覧しない― を入れていると言う建物を見せてくれた。 ―2年前に建ったと言う。 まだ全部は完成していない。 これが完成したら、いまの陳列館の標本を全部こちらに移して、あの建物は取り壊してしまう、だと言った。 
そして新館の何階かには mammal の標本がぎっしり詰まっている。 例えばゴリラでも、その skeleton 、brain みなあると言った。それから陳列館に案内されてmountaingollira を見た、その他沢山の monkeys and apes のはく製、大は像から小さなものまで並べてあった。 
しかしこの陳列館で驚いたのは大きな cetacean の化石はここが一番沢山持っているのだといった。 20メートル以上の巨大 skeletonが並べてある。 また cretaceous から発掘された dinosaur が沢山あった。 みなベルギーから出たものだと言う。 
日本なんかそーいう点では、化石には恵まれていない。 Exposition へ行くのだと言ったら、彼は親切にも ―彼はもう65歳のおじいさんなんだが― 電車の停留所まで送ってくれた。 感謝する。 

11.30までに間に合いそうもないので taxi で行く。 それから Pavillon Congo を訪ねてゆく。 Congo 館経入ったがVandeBrock は顔だってまだ合っていないのだし、どこに居るかわからぬ。 その中に Congo 館と言うのは一つでなくて、幾つもある事がわかり Pavillondu Conbo fauna で待っていると言う事だと云うので、それなら向いだと聞いて、入口に駆け付けた所、3分前に日本人はいないかと、訪ねて来た人があったとわかった。 しかし時すでに遅しで、もしその人がもう一度来たら、この手紙を渡しておいてくれと玄関番をしている人に頼んだ。 
それから空中ケーブルに乗って一番隅っこにある日本館へ行った。イラン館の後ろ、イタリー館の隣にあるがいかにもミスボラシイ。USRR などは大したものだ、アメリカ以上のものを建てている。 日本だってやる気のなればフランス館ぐらいは出来ると思うに、建物は貧弱、中の陳列も貧弱でげっそりした。 
しかし来た目的である。 日本料理だけ食おうと思い入った。 ここはなかなか繁盛している。 天ぷらと赤だしつきの飯を注文し、ほかに付きだしにウニをもらって、白鶴で一杯飲んだが素晴らしく美味いので、ついに4本、ちょと飲みすぎた。 そこを出て芝生の上で日向ぼっこしながら、1時間ほど寝た。 それからCongo 館へ行った。 Fauna 、Mine、Agriculture、Mission、Tronsport を見て commerce をやめ、疲れてコカコーラを飲み、 それから本館へ行ったらもうfinish だと言うので、とうとう Folklore を見そこなってしまったのは残念だった。 
それから場内をグルグル、ノロノロ廻っている、バスに乗って入口近くまで出たが、人が出口に一杯なので、段になった花壇のあるところで日の沈むまで休んだ。 そろそろ日も暮れかけて来たので、場外に出る。 電車でもとのLeopold park まで帰った。 Frechkop の教えてくれた停留場まで、道々大きな汽船の着いている運河があった。 また広い通りに面して、3階建、4階建ての住宅らしい家が、それぞれが趣向をこらして一軒と同じ出ないが、それがぎっしり縦並んでいる所は綺麗だった。
電車を降りて、そのままホテルには帰らないで、その近くにあった店に入った。 ビールを一杯飲んだら、コカコーラやシトロンであと口が悪くて弱っていたが、すっきりした。 その店で安いレストランを教わり入ったが、英語が通じない、そしたら一人で飯を食いに入っていたレディーが助太刀をしてくれた。 そこでスープとジャーマンステーキとトマトサラダを食って、ホテルへ帰った。 日記をつけ、就床11時。




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2010/12/12

AFRICA 1958 (19)

5月17日  昨日、 Schulz (Schuitz ?) 氏を訪ねた時、 zoo にいる Prof.Hediger には是非会ってゆけと言われ、自分で電話をかけてくれたところ、明日朝8時から8時15分までに来てくれとのこと。 
昨夜は夕食に酒を飲まなかったせいか、1時半に寝たのに、大へん寝つきが悪く、何処かで2時の鳴るのを聞いた。 
しかし朝 front から電話をかけて7時に起こされたので、眠たかったが起きる。  Zoo までは taxi をとばす。 
門を入ったすぐ左の建物に案内される。 タイプライターを叩いている綺麗なお嬢さんがいた。 スイスは alps や lake があって自然が綺麗やから、町やホテルも綺麗になるのか。 女の人も大へん清潔で綺麗な感じがする。 清潔すぎて、なんともならないと言った感じだ。 色気を起こさせぬぐらい清潔だと言うことである。 

Hediger は温厚そのものの人だった。 午前中は忙しいのでと、大急ぎでチンパンジーを見せた。 ♀は29頭か♂は10歳を出たばかりの立派なのがいる。 他に♀2匹3匹も子供をもっている。 Affenhouse にはイロイロなサルがいた。 南米のサルのもっさりしたのには驚いた。 
その中そこへ一人の女性が現れた。 この人は、もう2年もここにいる Baboon を研究しているのだと言う。  Hediger が用事があるので、行ってしまった後、11時前までこの人に案内されて、zoo をグルグル回った。 それからもう一度 Hediger の所へ戻る。 
今朝は実に寒い、こんなに寒いのは初めてだ。 ここは湿度が高いのだロー。 そして Frau Spirak さんに話していた、16ミリを午後やろうと言う事になり、3時にここに戻ってくる事にした。 
Zoo は見かけよりも良い zoo だった。 なぜ Gorilla を入れないかと言ったら、 expensive だからと言った。 

帰りは電車でホテルに帰った。 朝、早かったので腹がへった。 昼食は支那料理を食いに行く。 さっきの支那料理に、われわれの帰る頃、ぞろぞろと男女が入って来た、子供もいる。 Chimese の世界進出ぶりは日本人以上だ、女の顔は正に asian である。 
ホテルに戻り、にもつを作ってtaxi で zoo に行く。 ちょーど3時だった。  Hediger とこの projecter はトーキーがかからぬので、彼は町の写真屋へ電話して、そこまで車でつれて行ってもらう。 そこへ Hans Kummer も来た。 
トーキーがすんで駅の食堂で話し、 Hediger とは別れたが Spirak と Kummer はホテルまで送ってくれた。 そこで別れて、taxi で Swiss air まで行く。 伊谷の荷物 ―きょう買ったばかりのバッグ― が大きいので、眼をつけられれ excess を掛けされた。 
バスに乗って空港へ着く。 6時40分、ルフトハンザは出た。 

どーしてこんなにも綺麗に耕してあるのかと思われるような、青々として整然とした畑、青くない所はたいしゃ色だ。 村は白壁に赤屋根、それは農民の家なんだ。 植林もある。 伐った木が丸太にして、これも綺麗にならべてある。 
Stuttgart に着陸、此処で passport を見せた、ハンコも押さない。しかし記念に押してもらっている者もある、伊谷は押してもらった。 9時前 Frankfurt 着。  Paris.Zurich.Furankfurt みな立派な空港だ、立派な滑走路である。空港からバスに乗る。 
暗い森の間をぬけ、furankfurt の街に入る。 マイン川を渡るところは、ちょっと大阪の町を思わせた。 汽車の駅でバスを降りた。 ホテルは遠いかと思ったらバスの停まった横の家だった。 部屋は16マルクだが悪くはない。 ただ言えば便所も bath も外に行かなければならない。 
食堂でビールを飲む、さっき飛行機の中で軽食をやっているので腹はすかない。 ここでは一食10マルク見当でにして、やって行かねばならぬ。 ずいぶん締ってきたものだ。 
それからちょと散歩に駅前の通りまで行って部屋に帰った。 われわれも駅前のホテルに泊まっている事になるので、この辺はそう言えばホテルが多い。 
日記を書いて12時に就床。

5月18日 昨日は土曜日で、昼飯後に両替に行ったら、女の子が4人ほど、ルックをかついで駅に向うのに出会った。 街にも山靴を並べた店があるし、流石に Swiss である。 しかしその女の子らは、みな綺麗なルックを背負っていた。 日本のよーにむさ苦しい風はしてない、 これもやはり Swiss である。 

今朝はちょっと朝ねした。 伊谷が Zmeck に電話したが、捉まらなかったので、 Zoo へ行く事にする。 
今日は日曜で zoo は人出である。 先ずツメックの家を探したところ、入ったとろにある立派な建物の一番天辺に住んでいるのだ。  Frau に会った。 そしたらそこで園丁を一人つけてくれた。 
そいでゴリラを見せてもらった。 ♀12歳と♂13歳と2匹いる、よく馴れている。 案内につれられて園内を一回りしたが見当たらない。 ソーセージを焼いている所があり、よい匂いを出している。 そこで休んでいるから、探して来てくれと頼み、そこでビールとソーセージ一杯はじめる。 昼時で満員になって来た。 

その中に、ツメックが現れた。 少し尊大ぶった、また上品ぶった男で、彼の本から受ける印象とは、はなはだ違っていて失望した。 また我々の仕事にどれだけ興味を持っているか疑問である。 それでも exoteric view  ―これは金を払わねばならないのだが― を彼自身で案内してくれた。 そして忙しいからと言うので彼は行ってしまった。 
その後もう一度動物園内を回った。 Zoo に接した所にあるレストランで休んだ。 この zoo は南米のものが相当集まっている。 大動物ではピューマの他にブラジル博物誌に出てくる、オンサー ―ヒョウに良く似ている― 大きなのがいた、またオラウータンの♂の毛のフサフサしたとても大きいのがいた。 
Prof.Starck を訪ねよーと思って、電話帳を伊谷に調べてもらったが、分からなかった。 
チューリッヒもそうだったが、ここもいま新緑でここの人達は冬から解放されて、良い子持ちだろーか。 空は雲っていた。 

都心まで電車で行った。 暇つぶしに映画に行った。 
券を売るオバチャンは、若い時のオタケにちょっと似ていた。 言葉がわからぬ、その度みんなは良く笑うが、残念ながら、何が面白いのか、よく分らぬふしが多かった。 
映画を出ても ―もう7時だが― まだ日が暮れぬので一旦ホテルまで帰った。 そして金を勘定した所、1ドル、50フランだったので、これなら手持ちの9000フランで、ベルギー滞在は十分賄える自信がつき、ホッとした。 
ドイツの町には背の高い女が多い、ドイツの女も綺麗なのがいる ―スイス的な綺麗さだ。 いったいフランスだとかドイツだとか言うが、われわれから見たら、見かけはみな同じだ。これが直ぐ戦争を始めるのだだから、アホーなものだと、つくづく思った。 
夜はまた、ソーセージとビールで安上がりにしよーと思い、9時から出かける。 3軒ばかりまわり11時過ぎ帰った来て直ぐ寝た。 
おかげでドイツ滞在は安上がりですんだ。



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2010/12/05

AFRICA 1958 (18)

5月11日 (つづき)  マルセーユの空港で1時間ほど待ったのち、夜がうっすら明けて来た時、また飛行機に乗る。 右手にギザギザの山が望まれた。 またウトウトしているうちにパリだった。 
空港で両替をし、伊谷の分も合わせて46000フランを得たので、パリは3日泊る事に決めた。 いろいろな人が往き来している。 アフリカから来た夏シャツ姿のわれわれは寒くなってきた。 アナウンスで電話がかかっていると呼び出しがあり、待ち人の角田さんは用事で行けないので、パリ市中にあるエール・フランスのoffice まで来てほしい、そこから先は田中というのがいる、と言うのだ。 

パリの今朝は曇っている。 こんな曇り方と言うものは日本にはあってもアフリカにはないな。 街路樹はさすがに五月だ。 もう葉を出し、有名なマロニエの花が咲いていた。 エール・フランスの事務所に着く。 田中さんが待っていてくれた。 カメルーンではわれわれ二人しか日本人はいなかったが、ここまで来るともう日本人がいくらでもいるらしい。 

5月12日 11時過ぎ角田さんが部屋を訪ねて来た。 新聞記者とは見えない、穏やかな intelli である。 一緒に出て、フランス料理をよばれる。 これはやはり東京を出て以来一番うまい。 それから伊谷はルーブルを見に出かけたが、部屋に帰ってベッドの上でウトウトしていた。 朝方だか、いまだか忘れたが、またこぶらがえりがした。 右の足も左の足もする事がある、原因不明である。 
角田さんが7時頃、もう一度訪ねると電話をして来た。  夕方までうとうとして、それから久し振りに bath に入ったら、やや爽快になったが、確かにこの眠たさは疲れが出ているだろー。 

角田さんが来て ―昼もそうだが― いろいろ政治の話と芸術の話をしてくれた。 伊谷は演奏会に行くと言うので、8時半一緒に出た。伊谷をメトロのところまで送り、それから角田さんのoffice へ入って、 center からの手紙を受け取り、また Primates と並行使用の letter paper を受け取った。 まだ、来ているそーである。 田中さんがいて、新聞にゴリラの事が載っていると、5月9日の新聞だ。 どうして今まで出なかったのだーろ。 それから飯を食いに行こうと言ってmain street を離れた心寂しい道をウロウロした。 支那料理を食おうと言うのである。 
ホテルまで角田さんに送ってもらい、明日のコーヒーは9時に部屋え持って来てくれるよう頼んで12時に寝る。 今晩一晩ぐっすり寝て、明日からは新しい一歩を踏み出すとしよー。

5月13日 9時まで寝た。これで少しは疲れがなおった。 
10時過ぎ、角田さんがやって来た。 飛行機のリザーブのことでいちど Air India へ行ってくれとのこと。 それをすましそれから大使に会いに行く。 経歴が変わり種。 大使の公邸は立派なものだ、映画に出てくるよーな家だった。 経歴が多彩だけあって、会って話してみると話がわかる。 気持がよい、是非われわれの仕事が続けられるよー、心にとめておいていただきたい、と言って別れた。 桑原の紹介状のあるユネスコの人に会いに行った。 この人は全くの事務官で役人であって、会ったけれどもこれは何の反応も示すところがない。 桑原もこんな男を紹介するとは、奴の男をさげているよーなものだ。 角田さんや大使が、是非合えと勧めなかったはずだ。 

ホテルへ帰り、ロンドンまでの予定が大体出来たので London の小川と斎藤、ブリュッセル、チューリッヒ、シュルツなどに手紙を書いていると、日が暮れ9時になった。 
伊谷と二人でレストランのある街まで出て、ブラブラ歩いてみる。途中でビールを一杯飲み、昼のレストランで夕食する事にした。レストランを出て、もう少し歩いてみた。 
帰って、文春の原稿を読み直し安藤氏の封筒に入れたら、いつの間にか1時半になっていた。  bath にも入らず、さっそく bed にもぐり込んだ。

5月14日 起床8時。 10.30からルーブルを見に行く。 彫刻、ミロのヴィーナス、案内人の女が一群の観光客を前にして、得くとして説明をしている彫刻はよい加減にして絵画に回る。 伊谷独走居士と逸れぬよーに気を配りながら行く。 
古典は面白くない。 ラファエルがちょっと注意を引いたが、ダヴィンチの前へ来て、俄然光彩陸離たるものを発見。 色と言い、その女の頬笑みと言い、これは素晴らしいものだと思った。 モナリザの絵だけにはガラスがはめてあった。 それからセザンヌが出て来るまでの時代にコロ―やミレ―があるのだが ―他にもあるだろーが― コローの青い着物を着た女は良い絵だと思った。 ミレ―の晩鐘が案外小さい、くすんだ絵で―もっと大きい絵だと思っていた― 失望した。 セザンヌ以後のゴッホやゴーギャンは近代美術館の方にあって、ここには陳列されていない由。 
ルーブルを出て行くと画商の show window にゴーギャンやピカソの印刷した絵が並んでいたが、今見て来た絵と余りにも違うのに驚いた。 またピカソなんか一生のうちにどうしてこうもかわれるものかと不思議である。 
それから歩いて、第一日に角田さんに御馳走になった家へ行って昼食をとり、ホテルへ帰った。

角田さんが7時頃、連絡して来ると言ったので、待ていたが音沙汰ない。 8時半にホテルを出て角のレストランのテラスでオリーブの実でビールを飲み、それからルイさんに教わった支那料理を食いに行く。 
今日は午前はそーでもなかったが、午後はくもり ―沈滞特有の曇り日― で夕方には少し雨が降った。 それで出掛けにレーンコートを着て、ベレーをせっかくパリへきたのだ、かぶってやれと思って ―着て出た。 一時あがっていた雨が、また降り始めて来た。 夜の街を散歩しながら、フラリフラリと小雨の降る中をホテルまで帰った。 就床12時。

5月15日 朝、角田さんの奥さんが電話をかけてこられた。 角田さんは、昨日アルジェリアでクーデター(1954~1962年アルジェリア戦争中の1958年5月13日フランスのアルジェリアを掲げる現地軍人、コロン達のクーデター)があって、信任投票も何もあったものでない、新聞記者はみなカンズメだと。 
奥さんに伊谷が今日の午前中モリジアニの展覧会を見に行きたがっていると言ったら、 reception で払いをしていると taxi で奥さんが現れた。 角田さんから昨夜電話がかかっていたのだが、食事に出ていて失礼した事をのべ、部屋に来てもらう。 モリジアニは午前中は閉館と言うので残念だが仕方がない。 
この間、角田さんと支那料理を食いに行った時、通りの壁にドゴールと書いた紙が沢山貼ってあった。 今度のクーデターも背後に軍部が動いている事は間違いない。 しかし角田さんは共和国の面目にかけても軍の独裁にはなるまいと言っていた。 
奥さんの親切に謝し、昼飯を食いにレーンコート、ベレーというスタイルで出てゆく。 食事をすませ、例の通りまで戻って来てシトロンを一杯飲み、それから車を拾ってホテルへ帰り荷物を積んで、ホテルのルイともう一人のおばちゃんに別れて、エールフランスの車の出るところへ行った。 
このホテルは安くて、その上角田さん顔が利くので、快く休めた。家はやや古ぼけていたが bath room などは清潔だった。 第一静かなのが有難かった。 これで大ぶアフリカの疲れが取れた。 オルリー空港行きのバスが出る。 
角田さんが忙しいのに、見送りに来て下さって感謝に耐えない。 

飛行場では cargo の事は伊谷に任せた。 伊谷が搭乗時刻にやっと間に合った、しかし cargo は送れないと言ったそーだ、やれやれ困ったな。 

飛行機は6000m以上を飛ぶ、下はすっかり雲である。 これでは Alps も見えないだろー。  Swiss に入ると、これはまるで箱庭のよーだ。 青々とした畑、黄色いのは菜でも咲いているのか、家は赤屋根に白い壁、たくさん窓があいている。 
5時半ごろZurich 着、バスで都心に向う。 日本人留学生が一人迎えに来ていて、ホテルまで連れて行ってくれた。 
ホテルはこじんまりとした、ピケット夫人が言ったとーり、清潔な部屋だ。 驚いた事に便器の腰掛けるところにかけるカバー(紙カバー)がちゃんと取り付けてある。 こんな所は知らぬ、初めてだ。日本人だけが嫌がるのではなくて、西洋人の中にもそれを好まぬ者もあると言う事がわかった。 夕食後、今夜は何もないのでベッドにもぐりこんだ。 夜明け方寒くなって来て、上にかけてあった厚い布団をきた、こんな事は初めてだ。

5月16日 昨夜、ホテルに帰った来たら、ベッドがちゃんとしてあり、枕もとの机 ―その上に電話とラジオがのせてある― の上に小さなもの、ものがのせてある。 よく見ると銀紙で包んだチョコレートだ、ほほ笑ましかった。さすがに観光国である。 ちょっとしたところで客の心の機微をとらえるのだと思った。 
朝食後、 Prof.Schulz 氏のところへ電話をかけてもらうが、なかなかかからない。 小雨が降っている。 折りたたみコーモリを出して来て、時計のバンドを買いに行った。 
Air India から女性の声でブリュセルの宿が取れたと知らせて来た。流暢な日本語である。 名前を聞くと、刷毛と同じ Brush ですと言った。 Cargo の事を聞きたかったので、後で訪ねると言っておいた。 それから角田さん及び大阪のNJBの川口氏宛手紙を書き、昼はホテルのレストランで。 

午後2時、 Zurich University へ Prof.Schulz を訪ねて行った。  Zoologische Institute の入口の両脇に小さな池があって、カモのひなが沢山いた、カモの巣箱も作ってあった。 なんとなく平和な気持がする。 
Schulz は Anthropological Institute におさまっているらしい。 訪ねてゆくと2階から入って行ったので、1階が研究室だった。 女の人が取次、すぐ出て来たのは、大きな老人だった。 67歳だと言った。 ちっとも大家ぶった所がない。 
一通り陳列した標本を見せてくれたが Primates の部屋にいたり ―人間も含んでいる― ずいぶん沢山の首を持っている。 gorilla やチンパンジーだけでも、すぐ100という単位のコレクションなのだ。呆気にとられた。 一代かかって集めた物であるが、大したものである。 日本なら大学の金で買い、終いはその大学のものとなるのだが。 そしてアメリカから運んできたものであろーが、そーとしか思えない。 ここにこんなコレクションが始めから在るわけはない。 われわれがbehaviorist (behaviologist?) であると知っているので baboon の social behavior をやっているここの園長であり、professor である Homady に明日会って行けと言った。 

4時頃までお邪魔したのち辞して、Zoo を見に行く。 ブラブラ歩き、ついに zoo の見える所まで来たが、 Air India へ行かねばならない。 やっとその所在がわかり、ブッシュさんを呼んでもらった。彼女はこちらへ来てもう5年になるが、それまでは横浜に住んでいたと言う。 もうだいぶ日本語は忘れてしまったと言っていた。 Frankfurt行きの seat は取れていないが、明日の6時に出るルフトハンザをリザーブしてもらった。 London はまだだと言った。 
それからパリに残してきた cargo のことを相談すると。 それなら東京に問い合わせの電報を出し JMC が金を支払ってくれたら、早速エール・フランスから発送させる事に取り計らうと言う。 最後は伊谷にブリュッセルからパリへ荷物を取りに行ってもらうつもりでいたのだ。 ブラッシュさんが電話をかけてくれなかったら、まさにそうなっていたのだが、どーしても一度ブラッシュさんに会ってみようと、その時から思ったのだ。 これこそ虫の知らせと言うものだ。 
これに気をよくして、ブラブラ歩いて、湖を見たり、雪の山を見たり、寒いから一杯ひっかけたり、まだ日が暮れていないので街の気分はもう一つ出ていないが、ホテルへ帰った。 

夜はホテルのレストランで食事。 部屋に帰り、日記をつけ、きょう Schulz 氏の所へ、桑からと金子さんからと2通手紙が来ていたので、返事を書く。 
Chogolisa がもしオーストリアに登られてしまった時、どーするかと聞いてきているからだ。



以下次回へ



 

2010/12/01

AFRICA 1958 (17)


5月9日 われわれはまず Mr.Cutler に会って viza のことを聞かねばならない。 そのうちにホテルと道一つ隔てた所にキャロルの車が止まっているのを発見、キャロルはホテルへ来た。 そしてcanadeian と朝食を食う。 
正午にわれわれを迎えに来ると言うので、かれと別れ Cutler を訪ねたが不在だった。 それでかれこれ1時間は American consulate の玄関で待った。 
Cutler が帰って来て、11日に発つのだったら viza の延長はこのままで良いという。 それから Air France へ行って reserve をやり、その方は伊谷に頼んで、銀行で100 pound 両替してもらった。 58070フランになった。 

キャロルのところへ行く、そしてドクター夫婦にこの間の礼を述べた。 昼食はなかなかで、彼らの間で金銭勘定をしているので外へ出て big man のオリを覗く彼は近づいて来て四股を踏んだり、手を叩いたり、胸を叩いたり、タイヘンナ survice 振りである。 内へ入ると抱きついてワイシャツを汚すから、オリの外から応対したのであるが、オリに身体をすりつけて身体をかかし、また差し出した指を何度も噛まれたが、犬が噛んだよりも強く噛むので痛かった。

食事をすまし、きょう Air France へ cargo を4時までに出さねばならないのに、もう3時になったので、キャロルが運転してホテルまで届けてくれた。 一休みして本屋へ行く、伊谷は散髪屋へ行く。 自分は離れてホテルへ夕暮れの迫る中を帰って行った。 ここは繁華街である。 伊谷の散髪屋はもう今日は終ったと言って追って来た。 二人で百貨店のよーな所へ寄り、ホテルへ帰った。 頭を洗い showerを浴びた。 
食事をすまし9時になった、伊谷を食堂に残しておいて部屋に帰った。 

5月10日  今日はどうしても原稿を書き上げてしまいたい。 いやいやながら原稿書きを始めた。 Air France と paris の角田氏に連絡は伊谷に頼んだ。 10時頃、下の town の方から今日の建国の独立祝賀前夜祭の band やらなにやらが賑やかに聞こえてくる。 しかしホテルに缶詰めになって、ひたすら原稿書きをした。 
キャロルが昼飯を食いに来いと言っていたが誘いに来ないので、下へ降りてウイスキーを飲み、1時に昼食にした。 

伊谷は white の中へ入って今日の祝典を見て来たそーだ。 ひと眠りしようと思ったが、トートー眠れなかった。 それで起きてまた原稿の続きを書き、8時によーやく書き上げる事が出来た。 
原稿を書き終え、shower を浴びる。 シャツを着替え、下へ降りて行ったらキャロルに会った。 いまドクターが出て行った。 わしもこれで自由になったと、喜んでいる。 ウイスキーを飲み、一緒に飯を食った。 土曜日なので night club が始まり例の踊り上手なフランス人が来て踊っている。 女は沢山きているが今夜は眼にとまる女は二人ぐらいしかいない。 
10時過ぎ部屋に戻り原稿の読みなおしをすましたら、もう12時になった。 今夜がアフリカ最後の夜だけれど、下の band の音を聞きながら、これで眠ることにする。 

5月11日 そのうちに寝ついたが、朝はやはり7時には起きた。 
家あて、研究所あて、center あて、手紙を書いた。 散らかっていたものを、ちゃんとスーツケースに片づけてしまうと、もう何もすることがない。 キャロルが来たので彼の家へ行った。 そして昼食をよばれた後、また車で送って来てもらい、ホテルの前で彼の frend ship を謝し、別れた。 

3時に Air France の車が来て、ホテルのおやじとおかみと握手して別れ、 airdrome に着く。 飛行機は4時 Yaound 発、45分でDouala に着く。 Paris 行きの飛行機はもう来ていた、5時離陸。 ブンブン高く上がる。 ・・・・・・・  


  日本を2月4日に出発して以来、タイに立ち寄り、アフリカに入りケニヤ、タンガニーカ、ウガンダ、コンゴ、カメルーンとゴリラを追って調査地を移し、アフリカ最後のカメルーンを5月11日出国まで、すでに3カ月を超えている。 ここまで今西先生のフィールド・ノートより先生の行動をたどって来た。 それはノートの中の一日一日の主だった行動を追ったものである。 その外の記述は ―コメントや思考 ― 省いてある。 はたして先生の本当の偉さ凄さを読み取ることが出来ただろうか。 これより野外の霊長類から、思考の霊長類の旅がヨーロッパからアメリカへと帰国まで2カ月間続くのである。 先生の偉さ凄さとは、その2カ月間の旅をもう少し追ってみることにする。



以下次回へ 




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