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2011/01/03

AFRICA 1958 (23)

  
  日本モンキーセンター第1次ゴリラ調査隊を名乗って、日本を
 出発した今西隊は、アジア大陸のタイ、バンコックにささやかな
 足跡を残し、アフリカ大陸へ。 アフリカでの調査を終えて、ヨー
  ロッパ大陸へ。 そこでの視察調査、研究者達との discussion
 を終え、舞台は最後の北アメリカ大陸へと移った。

6月1日  今日の飛行機に乗らねばならないのだ、という事を思い出して、すぐ起きた。 7時過ぎだった。
BOAC のバスは7時半に出るのだ、これでは間に合わない。 飛行機は9時半だから、taxi を跳ばすことにした。 空港少し手前で BOAC のバスに追いついた。 
さて荷物を量ったところ excess 代16ポンドと言われ、伊谷の持ち金を全部はたいたけれども、まだ足りない。 8ポンド程足らぬのだ。 それでもう既に飛行機に積むため、車に乗っていたスーツケースを下ろしてもらってドルを取り出し、23ドル払った。 
10時に飛行機は出た。 待合室で国際基督教大学教授西本三十二という人に会った。 ボストンへ同じ飛行機で行くのだと。 機内で Forde の Habitat.Economy and Society を取り出して Masai のところを読む。 居眠りしては眼が開くと読み続け、それでも読んでしまった。 
ボストン着8時半。 時計を3時半にしたから、時差はロンドンと5時間の違いだ。 Custom は今までの中で一番厳しかったが、何も出てくるはずがない。 西本氏はこっちに来ている清水氏が ―同じ大学― が迎えに来ていた。 西本氏の泊るホテルはいかにも高いので、近くにあるホテルへ清水さんが連れて行ってくれた。 
ところがここでも single 8ドルだ、4000円近いじゃないか、驚いた。 しかし今さら YMCA へ行くわけにもいかないから、泊る事にして、book した。 
ボストンの空港からホテルまでの自動車が3ドルだったのに比べると、車は安いがホテルは高いという事になる。 通された部屋は大したことはない。 しかしバスが付いているのでさっそく風呂を浴びた。 bed に入ってしばらくウトウトしたら、伊谷が飯を誘いに来る。 アメリカの料理は日本人にとっては口に会う。 
Forde を読みながら、10.00就床。

6月2日  朝はホテルの食事、トマトジュースとトーストと紅茶で90セントとは ―これで300円以上も払わされるとは― バカバカしいと思った。 
それから9時になって Peabody Museum を訪ねて行く。 office で Prof.Howells に会いたいと言ったが、まだ来ていなかった。 
それでその間に陳列を見る。 地下はエスキモーとアメリカンインディアンの material culture なんだが、何とよく集めてある事よ。 totem pole が二つも三つも並んでいる。 また織物なんかも実に立派なものがある。 これが Indian の sense だろーか。 Navaho の物なんか正に色合いといい、模様といい大したものだった。 また楯に描いた絵画にも見るべきものがあった。 
エスキモーというものさえ、その生活様式は pure hunting なものだが、 material cultuye そのものをとって見ると、必ずしも Life way に parallel に下級なものとは言えないのだ。 cultural climax おいて、それ以上に developする為にはsocial and economic development が必要だと言うことなのだろーか。 その為には population が必要だ。 その点とエスキモーも蒙古もその他の indian もみな同じじゃないか。 
一回り見てから、もう一度 office に帰ったが Howells はまだ来ていない。 それで prof.Kluchhohn に会いたいと申し出たところ prof はいる、ここで待っておれと言う。 
Kluchhohn 出て来た。 名前を覚えていて、Dr.Imanishi と向こうから声をかけられたのにはビックリした。 ここは煙草が禁ぜられている、地下の smoking room へ行った。 
ついて来た若い人は日本語が喋れる。 そこで私はハーバードへ行ったら、この人に会えと言われてきていると言って、名刺を渡したところ、それが私ですと来た。 その人が Pelzel 氏だった。 Kluckhohn は忙しいから、昼飯を一緒に食おうと言って出て行った。 それで Pelzel 氏に案内されて Physical Anthropology の laboratory や講義室から Archaeology の Pueblo の culture、Maya の culture、Southsea や African の culture まで一通り見た。 大した collection だ。 
それから昼食を食う Hall まで Kluckhohn に案内されて、そこで Pelzel 氏に別れ、昼食はインドから来た人と一緒に食った。 
それから印度人達に別れて、 Peabody の前まで来たら日本人の女性が一人立っていて Kluckhohn に紹介された。 
後で分かったが、これが祖父江夫人だった。 Howells とは hall で Kluckhohn に紹介された。 そして後で来いと言うことだったので、訪ねた。 実に温厚な人だ。 Howells は別冊をくれたが荷物になるだろーから、別便で送ると言ってくれたのは、思いやりがあるのではないか。 別に話もないので、Comparative zoology まで案内してくれて、そこで年増の女の curator に紹介された。 この人がまた親切で、イロイロ例の博物館の楽屋裏を見せてくれた。 
ところでアルアル、ここは Hooton や Schulz の集めた primates skelton があるばかりでなく、毛皮を集めた部屋へ見せてもらったが、部屋一杯に毛皮ぶる下がっていた。 
小雨が降っていたけれど、3人で町へ出てコーヒー店に入る。 祖父江女史もここでは寛いで愉快に話した。 コーヒー一杯10セントとはホテルの高さに比べてあまりにも安くて驚く。 それから小雨降る中を道へ出たら、そこでばったり大林太郎氏に会った。 祖父江夫人から聞いていたので、なんとかして捉まえよーと思い、連絡を頼んでおいたところなのだ。 そこで晩飯を食いに行こうと言う事になった。 
ところで Cambridge で美味い支那料理屋は今日は月曜日で閉まっていると言うので、いっそ Boston まで出ようと言う事になり、地下鉄に乗って Wathington という駅まで行く。 それから少し歩いてた。 China tawn の民象飯店と言う所へ入った。 しかしここではビールは飲めないのである。 よく流行っていた。 美味かった、どれだけ掛ったか知らぬが、こちらで払うと言ったのに、おごってくれた。 
それを出て、賑やかな通り ―しかしロンドンからボストンへ来て一番驚いたのは建物の高さがずっと高くなっている事だ― へ出た。 bar が何軒もある。 その中にジャズを盛んに鳴らしているところがあり、とにかくそこへ入って見た。 あまり面白くないので、そこを出て、また地下鉄で帰った。 ロンドンと違って地下鉄に乗っても、街を歩いていても、ベッピンに合わない、大林氏も同意見だ。 ホテルの前まで大林氏が送ってくれた。 
ホテルへ帰ったが部屋の戸が開かない。伊谷にもわからぬので、ボーイを呼ん出来た。 左へねじるところを右にねじっていたのだ。
昨夜は9時間寝たので、今日は疲労が余程回復した。

6月3日  朝10時半、 Peabody へ行き、ニホンザルの film を写した。 そこへ東洋文庫の村松祐次氏を大林氏がつれて来たので、film がすんでから一緒に茶を飲みに行った。 
そこで昼ついでに、ハーバードへ行き Pelzel 氏に会い、 Reischaur にお眼にかかった。 30分程話した後、 Pelzel 氏に連れられて、昼飯をおごってもらった。 
ロンドンの郊外の動物園でもブナを見たが、ハーバードの中でもブナはあった。 Pelzel 氏と別れて、もう一度 Peabody へ帰り、 Dr.Hunt に会おうとしたが、 Boston へ行ってしまっていた後だったので、4時過ぎまでまた陳列館を見た。 
今日は天気が良いせいか、大勢の見物人が来ている。 その中で一昨日別れた、西本、清水の両氏に合った。 
glass flower というのは、 チェコかドイツのある男が19世紀終わりから20世紀初めにかけて考案した植物の模型標本で ―出来の良いのも、悪いのもあるにしろ― これは大したものだ。 こんなのはいままで知らない。 
American bird のコレクションも殆んど完璧に近いく、日本と違って大陸国アメリカには、鳥だけでもこんなに多いかと感心した。 4時になりもう一度 office へ戻って、Dr.Hunt に電話してもらったが、捉まらないので、ホテルへ帰った。 
5時半ごろ大林氏が誘いに来たので、松村氏の家へ行く。 村松氏はロックフェラーから金を貰って来ているのか、奥さんをつれ、家は階下の半分を借りていた。 エビを御馳走してくれた、にぎり飯に茎コンブ、信州のシソ漬けも有難かった。 大林氏と家畜起源論を戦わした。 氏はブタの文化史をやっているのだ。 相客の一人は鹿島大の横山氏、もう一人は教育大の小西氏で、共に長くこの地にいるらしい。 植民地論から大東亜戦争にさかのぼり、大いに国の前途を憂いた。 
11時に辞し、帰りに大林氏の下宿にちょこっと寄って、宿に帰る。大林氏が送って来てくれた。 就床12時半。

6月4日  今日は元来なら、 New York に ―昨日の飛行機で発って― いるべきだのに、一日日航に話すとき間違えたのだ。 
それで、こんな日は町を離れて郊外へでも行こうと思い、昨日 Pelzel 氏がその時間まで聞いてくれたのだが、昨夜遅くなったし、 Dr.Hunt 氏に会っておきたい気もあったので、やめた。 
伊谷は museum を見たいと言っているので、行ってもらい、 Pelzel 氏の様子は電話で知らせてもらうことにして、ホテルに居残った。 本を読みながらウツラウツラしていたところへ電話あり、Dr.Hunt 氏は4時15分ぐらいに Peabody に来るという。 
12時半に伊谷と Peabody で合い、昼食を食いに行こうと思って歩いていると、今西と呼ぶものあり、見ると数学の秋月教授である。北米へ招へいされて、邦人仲間で最高俸を食んでいると言う噂の人物である。 もう一人は北大の教授で河口氏。 
一緒に町の方へ歩いて行って昨日の所でビールを飲み、昼飯を食った。 それからアイスクリームを drug store で食べてから、ホテルの秋月氏の部屋へ行ってオシッコをした。 
それから二人でまた校内を歩いて Peabody の道で別れた。 Chikago では是非一晩家へ来てくれと言われた。 奥さんを連れて来ているそーだ。 月900ドルでは、こちらの教授の最低の俸給料だそーで、決して優遇ではないそーだ。 
Peabody で待っていると、向こうの陳列館の方から祖父江夫人がやって来た。 話ているうちに Dr.Hunt 氏が現れ庭の芝生の上で話をした。 祖父江さんがいるのでこちらの話は伝わったと思う。 somatotype と group を取り扱った本を一冊教えてくれたので、やはり会わないよりも会った方が良かった。 
それから彼の車で Boston 空港まで送ってくれるかと思ったら、相客が二人も現れ、結局ホテルまで送ってもらったに過ぎなかった。ホテルは無愛想この上もなく、荷物も伊谷に手伝ってもらって下へ運び、車で空港へ駆けた。 rush hour で祖父江さんは飛行機に間に合うだろーか、心配してくれていたが、6時20分無事についた。 excess は取られなかった。 
6時40分頃改札、飛行機は満員である。 7時出発。 西側の窓際に座ったので、日が射して暑かったが continenntal glacier のつくった Landscap というものを始めて見て面白かった。 Eskar の代表的なものもあった辺り、耕作地よりも森林が多い、ところどころに pond か lake か知らぬが irrregular な水溜りが出来ている。 
8時、New York 着。 いよいよ New York だ。 
ホテルは20階まであり、その7階の一室で6ドル、しかし小さい狭い部屋だが bath tub も小さいが付いていて、これで結構だと思った。しかし晩飯は遅すぎで ―9時だった― ホテルで食えないと言うので、二人で町へ出て、ブラブラ歩いているうちに、barと看板のかかった店があったので入った。 
中が薄暗い店は嫌いだが、ここは明るい。 ビールを注文すると、気を利かしてドイツビールを持って来てくれた。 苦が過ぎるのでアメリカンビールをもう一杯飲んだ。 食事はパンと一皿、ここは独逸客の店かどーか知らんが、menu にソーセージ料理が沢山並んでいたので、その一つをを取った。 もう一皿注文しよーとしたら、ウエイターが止めておけと言う、アメリカへ来て以来、一皿の量がバカに多い事は知っていたが、ウエイターが止めておけと言うのも面白い。 
この4日間にかかった金勘定をしよーと思っていたが、時間が遅いので今夜は寝ることにした。 就床11.50。




以下次回へ  


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