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2011年1月

2011/01/30

AFRICA 1958 (29)



6月24日  朝起きると小雨模様。 
Madison の小さな空港のストランで朝食を取り、North Central の小さな飛行機で Chicago へ向う。 
途中 Rock central というところに着陸、 Chicago に11時頃ついた (Madison を出たのが8.40)。それから来年の Gorilla Expedition の軽費を勘定して5000ドルという数を出し、二階のレストランへ上がったが、ここはビールを飲まさない。 しかしここから見ていると、次から次へ飛行機が出て行く、またやって来る、とても忙しい。 しかし日本では見られぬ光景だ。 
それから待合に戻って center 宛の手紙、並びに家へ宛てて、アメリカから最後の手紙を出した。 いよいよ南部へ向う。 
Chicago 発2.40 。 最初に Louisville というところに着いた、
それから次には Nashvill というところに着いた後、貯水池の上を通った。 それから Atlanta に着いた。 その前に飛行機の上から見ると、森林の上を随分跳んだ。 森林のある所は概して丘陵地だ。 そこにウネウネした路がついている。 はじめは水流かと思ったが、谷はもっと低いところにあるので、はじめて道路 ―多分、自動車道路だろー― ということが分かった。 浸食の激しい、やわらかな土地なんだろー。 
アトランタには Eastan Airline の飛行機が沢山待機していた。 この Airline はここが本拠かも知れぬ。 Atlanta まで来るとムーッとするぐらい暑い。 そして何だか久し振りに土地が赤くなって来たよーだ。 Atlanta を出て1時間20分で Jacksonvill だ。 腹がすき夕食が出るかと思っていたら出ない。 サンドウィッチを取って食った。 日が暮れ出して来た。 8時45分 Jacksonvil 着。 
わりあい大きい City だ。 空港で荷物の来るのを待つ。 電燈にたくさん虫が集まっている、こんなことはアメリカで今まで見ていない。 空港サービスのtaxi で町へ走る。 Motel が沢山ある。 街は二階建てで、ネオンが輝き、日本のどこか九州辺りの町へ来たよーな感じ。 電柱の建っているのも、その印象を深くめる。 よーやく都心へ来た。 
ホテルだけが高くそびえている。 泊ったホテルは冷房があり、 bath はもちろん、ラジオ、テレビがそなえてあって7ドルだ。 Bath を浴びる。 えらい硬水だ、石鹸が落ちないかと思ったが、いつまでたってもヌルヌルだった。 
街には bar が沢山ある。 バドワイザーを2.5本飲んだ。 北部のよーにはお上品ではない。 Bar には女も来ている、女とキスしている、話声も高い。 北部は清潔かも知れないがとりつく島がない。 旅鳥にはパリのよーに向こうから誘いかけて来るよーなところが一番楽しいわけだ。 しかし南部の方が北部よりも、はるかにうちくつろいだ気分になれる。 ビールを飲んだ後、Canton と看板の出た店へ入って、焼飯を食い、ホテルに帰った。 
しかし黒人は北部のよーにのびのびしていない、なんだかメランコリーなよーで気の毒である。 1時就床。

6月25日  朝はホテルのなかの cffee shop ですます。 それから Yerkes Laboratory まで taxi で行く。 南部特融の Spanish moss がふさふさと垂れ下がっていて、その上暑さが実にアフリカ以来だ。 どこか Kampala か Leopold を思い出す。 
Yerkes Laboratory の入口に立った。 ベルを押すと向こうで door の開くようにしてくれる。 ここは何もかも電気仕掛けだ。 中へ入り先ず沢山の手紙を受け取った。 それから Missen 死後 ―Missen はあの Mrs.Hayes と結婚し、また離婚して死んだ― ここの acting director である Peacock の部屋に案内された。 それから午前は Dr.Mengel がチンパンジーの cage を案内してくれた。 静かな良いところにこの laboratory は陣取っている。 近くに Navy の air port があるけれど。 Wendy とか Boker とか前から名前を知ったチンプを見た。 性の悪いチンプはウンコを投げた。 Lashiey に lobotomy されたチンプもいた。  Castrata された身体の大きくならない♂チンプもいた。 図書館へ帰って、日本からアメリカの中から来た手紙を読む。 JMCからは空輸荷物については土川氏がなんとかすると言った、という一札が来ていた。 Hews の所の紹介で、New Mexico へ来いと言う手紙も来ていた。 
昼飯は Peacock と一緒に Dr.Charles Rogers も加わった。 街道のレストランへ行き Budweiser とカツレツを食った。 Rogers は Schlitz を飲んだ。 やっぱり Schlitz の好きな人もあると見える。帰って午後は Dr.Davenport の案内で二階の隔離実験室を見た。 Behavior を televi や film で撮っているのには感心した。 
それから Peacock に頼んで、Bingham の repoart を出してもらう。 これを読んだ上で Coolidge に手紙を書こうと思っているからだ。 60頁以上あるのでとても読み切れず、貸してもらってホテルで読むことにする。 
昼飯の時セミの鳴き声を聞いた。 夕立がす通ーりして行った。 帰りは laboratory の手伝いの若い青年の車でホテルまで送ってもらった。 
それから Birgham を熱心に読んだ。 8時半に昨日の bar へ行ったが誰も客は来ていなかった。 夕立の後で、流石の南部も冷房があると涼しすぎた。 
晩飯は昨日の Canton へ行った。 日程をかえる相談を伊谷とやった。 Tokyo 着が一日くらい送れることになるだろー。 今日は泊る用意をして行ったが Jackson へ帰って来た。 この部屋がガラス戸の引き違いになっていたり、テレビ、ラジオをそろえていて、7ドルと言うのも気に入っているのである。 
とにかく今は、また北部の清潔だが窮屈なところから開放されている。 日本人のいないと言う事も手伝ってるかもしれない。 
しかし今日送ってくれた青年は北部ペンシルヴァニアの西部生れで、南部ははじめは珍らしくても、じきにいやになる、北部の方が良いと言っていた。 12時まえ就床。 

6月26日  昨日の青年がきっちり9時に迎いに来た。 今日は半ズボン、kampla で買った開襟シャツで行く。 ヒマワリの花が咲いている。 
Laboratory に着き、10時から Dr.Davenport の実験を見せてもらう。 例の隔離されたチンプと対面するための箱が用意してある。これは金網が張ってあって、この金網の内側が白く塗ってある。 こーしておくと中で電気を点けた時、外から中は見えるが、中から外は見えないようになっているのだ。 白い服を着て、その裾がこの箱の floor になるよーに作ってある。 つまり底のない箱で椅子で腰掛け、その底をこの服に着いた布が代用するのである。 
それからチンプの戸が開けられた。 そして1時間の間無言でこの人はチンプに手を出し、チンプはその手にじゃれる。 その光景を一人の人が見ながら、マイクで喋り、それが録音されてゆく。 もちろんこのマイクは声が漏れないよーにしてある。 この録音はすぐ録音機にかけられ、type にたたかれる。 もう一人おばちゃんがこの光景を映画に撮っている。 それからもう一人の若い助手が手伝っている。 4人がかりの実験なんだ、音のない世界と言うのが狙いかも知れぬ。 
Development の実験の一つだろーか。 いかにも仰しい、そのわりにその狙いがもう一つはっきりしない。 あとでいろいろ装備を見せてもらった。 鳥や金魚や、それから蛇を見せるのだと言う、ガラス製のビンもあった。 蛇は見せても怖がらないそーである。 11時半から伊谷の英語でカラースライドを見せる。 わりあい質問が多かったけれど、ここの人は social organization にはあまり興味は持っていないだろー、急所を突くようなものは出なかった。 
それから昨日のレストランへ飯を食いに行く。 今日は Peacock、 Rogers、それに Davenport も加わった。 レストランから出たら、むうーっとするような暑さだ。 
Laboratory へ帰って、午後はやはり Davenport のやっている発達の続きで、一匹のチンプが低い部屋に入れられている。 
Dr.Mengel が朝と同じよーにマイクで実況を吹きこんでいる。 Harlow とこの sexual behavior を見た部屋よりも一層綺麗で広い。しかしチンプは広い部屋に入れられたかと言って喜び、走り回るでもなく、一か所に座り込んで指を吸い、来た時の様にしているだけだ。 
まだ Bingham が残っているので、席を伊谷に譲って図書館へ帰る。 Bingham は例の Mikeno と Karinsimbi の col(ここを Camp Kabara 記している)に camp して1929、sep、12 に22頭という大きな群れを発見し、その中に Gray Back の大きい奴が4頭いたと記している。 同じ群れを追って sep、13 にはその中の4頭発見したが追跡中、大きな♂の charge を受けて、そいつを一発の下に打倒した。 なお10月に入ってから、Mikeno-Visokeの lower zone (bambu zone) で35頭という大きな群れを発見 ―此の数はnest の数からの勘定である― その中の何頭かを目撃した。 Bukabnから半日で ―車を走らせ― 行けるところに、nest を発見したと記しているが、これは間違いなく kahuzi の続きだろー。 Birgham の recard には♂♀が一つも記してない。 これだけからでは彼らの social organization は全然分からない。 
Birgham を読み終わって、チンパンジー cage をちょっと見に行った。 水道の栓を自分で押さえて水を飲むところを見た。 
それからまた図書館へ行って Peacock と少し喋った後、昨日の青年の車でホテルへ送り届けてもらった。 8時半になる、いつもの bar でビールを飲み、 Canton へ行く、オムレツと焼飯を注文した。 
帰りに bar でビールをもう一本飲んでホテルに帰り、bath に入り、明日は早いので11時半就床。 




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2011/01/25

AFRICA 1958 (28)

6月21日  朝はいつもの coffee shop 。 今日は土曜日で客が少ない。 Los Angeles の天理教宛の手紙を書いて、10時にロビーへおりて、動物園行きの車の迎いを待つ。 
迎えに来てくれたのは Washburn とこにいて、来年アフリカへ baboon を調べに行くという Mr.De Vore とその奥さん。 
子供はまだ一才だが、これも連れて行くという。 場所は Naibasha 湖の近くだと。 その前に South Africa で baboon をやっている男がいて、それを訪ねると言っていた。 1年行くのだそーである。 
行ったのは郊外にある Brookfild zoo で何所でもそーだが、それを support  ―多分 moral に、また scientific に― しているが Chicago Zoological Society だった。 
中はこれはまたとてつもなく広い。 まず monkey の居る所へ行く、baboon や mountain sheep の島がある以外はみな cage に入っているから自然動物園ではなくて、ただの動物園だが大きい事にかけては、やはりアメリカ式でおそらく世界一だろー。 
Baboon の colony に大きな、いわゆる overlord と呼ばれる♂がいないので、あとで福園長の Ralph Graham の言うところでは、大きな♂を入れておくと、ほかのものも傷め、殺すから別居さしてあるのだと。 
その中に昼になったので、園内の cafeteria ヘ行く。 それまでに4人の人と同流した。 一人はやはり Washburn とこで勉強している Kinzey、もう一人は California の建築家、女二人の1人は anthropologist の wife で、今年の10月から2年インドへ行くが、向こうで rhesus の wild life を調べるという。 もう一人のおばちゃんは誰か知らない。 みな、まずそ―なものを食っている。 Lunch は取ったがこれも不味かった。 
それから children,s zoo を見に行く。 動物の子供がいろいろ集めてあり、ラマやヒツジの子を放してあって子供がみな可愛がってなでてやっている。 日本の子供も石をぶつけずに早くこんなになると良いのだが。 Chimpanzee の子供、Orangutan の子供といった上等も入れてあった。 そのかわり豚の子、牛の子もいた。 
それから gibbon や smoll vertebrate のいるところを見に行く。 
Gibbon は lar で3匹いた。 ここでまた来た時の経に別れ、それから okapi や ziraff を見て、歩いているカンガルーの子が袋から出て歩いていた。 
今日は一日快晴で爽快だ、日景は涼しすぎる位の良い天気だった。こんな天気に恵まれて、何もかもあけっぱなしのアメリカに住んでいては陰影と言うものは分からないだろー。 アメリカの性格はやはりその habitat と関係がある。 
De Vore の嫁さんの Nancy は大変な日本びいきで、日本の建築をほめ、日本人の映画をほめた。 羅生門、地獄門、七人の侍などはとても良いと言った。 Benedict の「菊と刀」はどーかと言うからよく書いてあると言ったら、こちらでは評判が良くない、incorrect だというがと言うから、それは問題が大きく complete だから one sided になるのはやむえないが、その限りでは良く出来ていると言った。 それから 「Voice of America」はどーかと言うので、まだ読んでないと言った。 
「サヨナラ」はどーか、それは日本の女を賛美したものらしい。 女らしさ、しとやかさ etc ら。 彼女の opinion は、やはりこれも one sided だろーと言うのらしい。 そしてその映画も評判は良くなかったと言ったが、アメリカ人の前でそれは one side でなくして、real だという事は気が引けてやめた。 
しかしアメリカ人も日本人も同じよーに間違った見方をしているのでなかろーか。 
帰ってから bed の上でしばらくうたた寝して bath に入ったら、すっかり気分が良くなった。 
7時半食事に出る。 なお Washburn がサルの研究の為に Ford 財団から得ているいる金は25000$、日本円に直すと800万円である。 だからそう多くはない。 
7時になり伊谷に電話しよーとしたが、どーしても通じない。 それで仕方ないから、いつもの bar ―この町には bar という看板を上げた家はないが、とにかくレストランよりも低級である― へ行って、ビフテキとビール。 medium を注文したが黒こげで美味くないので、rare medium をもう一皿取ったが食い切れなかった。 
9時前になり伊谷現る。 困ったことだ、サルの連中はどーしてこう team work の出来ない奴ばかり多いんだろー。 あに川村一人ならんや、である。   
・・・・ コノ後少々ゴ機嫌ガ悪イノデ省略 ・・・・  
ホテルへ帰ったらエレベーターが二つ止まっていた。 一方は男、一方は黒人の女、もちろんその方に乗り、相客がなかったので25 cent 彼女に寄付した。 せめてもの憂さ晴らしである。

6月22日  伊谷が電話をかけて来るまで寝ていた。 昨夜11時半から9時まで、9時間寝ていたことになる。 
Bus tarminal へ10時に往こうと taxi に乗ったら運ちゃんが air port まで3ドルぐらいだと言うので、そのまま airport まで走らせた、midway air port だ。 
11.00発、North Western だが、飛行機がどれだかわからない、よく見たら2台重なっていた。 乗客はわりあい多かった。 朝食をする暇がなかったので、airport でした。 それから飛行機に乗ったら、またすぐ lunch が出た。 
ビール製造で有名な Milwaukee に寄った後、10時半 Madison のair port 着。 アフリカのどこかにあったよーうな小さな air port である。 
そこからバス代用の大型の車に乗った。 Madison の街は綺麗とは言えない。 大学が綺麗なのかも知らぬが見てない。 車は10階ぐらいある高い建物 ―それはホテルだった― の前に止まって乗客を吐き出し、後にはわれわれの他一人だけ残った。 
運ちゃんに大学の近くのホテルへ連れて行けと言ったら、ホテルはない YMCA へ泊れと言って、 YM の前に連れて行った。 
まあ YM にも一度ぐらい泊っても見るのもよかろー、ところが desk に誰もいない。 今日は日曜日だからだろーが、インドの留学生らしいのがピンポンをやっていたが、それが出て来て、2階へ行けと教えてくれた。 会った男は今日は、誰も desk の者はいないが、とにかく泊めてくれた。 部屋は3.75ドルだが、水も出ないし、灰皿もない、大へん殺風景なものだ。 
まあ仕方がない、昼飯食うにも、ビールを飲みに行くにも、不便な所だが仕方ない。 少し昼寝をしたら、なんだか冷え冷えする。 まだ5時半だが、伊谷を誘って街へ出た。 2軒ほど bar をひやかした後、支那料理屋へ落ち着く。 料理は大へん不味く高かった。 それから、また歩いて帰った。 
ここを出るとき Schaller と Mason に電話したところ Dr.Emlen は Michigan へ行っていないと言う。 明日 Mason が車で迎いに来てくれることになった。 
YM へ帰ったのは9時半ごろだったろー。 それからすぐ寝た。 
あまり酔っぱらっていたわけでもないが、それから2時に眼が覚め喉が渇いたので、水でうるおしに行ったついでに、起きて日記をつける。 それから少々 Fode を読んでもう一度寝た。

6月23日  10時に Dr.Mason が迎いに来てくれた。 大学の中へ行くのかと思ったら、さにあらずして町の一角に、まるでレストランか何かの様に、PRIMATE LAB と縦に赤字で書いた看板のあった建物に連れて行った。 
ずーとはいって行ってprof.Harlow の部屋へ行く。 彼はもうよい年 ―50を出ているだろう― だが至って元気な快活な人である。 Culture についていろいろこちらの側を上げて説明した。 Washburn は baboon の3つの群れしか人間との contact の違いにあって、behavior の違う事を認め、それを culture と言っているらしい。 
Leader の子守などはやはり興味があるらしく、写真を見て驚いていた。 Mason はまあ助教授といったかたち、それから Schller も来ていたが、Schller は背の高い、頭の毛の黒い青年で、こんな青年がよくも2年もゴリラと取り組むことだと、すこし懸念される。 
昼は Harlow と Mason と一緒にレストランへ行った。 
それから Mason に少し中を案内してもらった後、1時半から film を写す。 今日は screen には小さくしか映らなかったけれど、saund は上手くいった。 あとで質問はあまりなかった。 
そのあとまた experiment の説明を Mason がやってくれた。 一匹で free にしておいて cage 入れた、2匹のサルを其処へ入れると、preference をやると言った。 また inexperienced ♂(socially に isolate された♂)と experienced ♀とを別々の cage から大きな実験箱へ入れて sexual behavior の違いを見せてくれた。 Control に experienced ♀と experienced ♂とを入れたら、ただちに maunt に成功した。 
それから intelligent の研究をしている女の人のいる部屋を覗き、その次が有名な good mother と bad mather の実験で、同じようなrhesus の baby が沢山 ―20匹ぐらい― いろいろ工夫された cage に入れてある。 
Bad mather というのは単なる金網円筒であり、Good mather は何かラシャの布の様なもので出来ている。 なおそれが揺れるように工夫してある。 Baby は脅すと逃げて good mather に抱きつく、抱きついてすやすや眠っているものもあった。 
最後 Kasferhause の実験で9カ月、人間もサルも見ないで育てられたサルが二匹いたが、全然 aggressive な態度を取らない。 また脅すとすぐ自分で手や足を噛むサルを見た。 
それから Mason と別れて、 Schaller と図書館で話す。 彼はわれわれに project の copy を一部くれたが、それには軽費の分が抜けていた。 
それを見ると明らかに Albert National Park で仕事しよーとしていることが分かる。 我々は Congo 側よりも Kisoro 側の有利なことを言いたいが、これから Congo 側を Kisoro 側に替えることは、ちょっと難しいのではないかと思った。 Coolidge の入れ知恵でそーなったと思われるからである。 しかしとにかく Coolidge がアメリカを離れる前にもう一度この事を強く押さねばならない。 
話が終ってもう一度 Harlow の所へ戻った。 20年前には primates を実験材料に使う者はごく少なかったが、今では大変多くなっている。 アメリカだけでprimate laboratry のある心理学教室が10以上あると言って、それを親切にもタイプで打ってくれた。 また沢山別冊をくれた。 
その中に去年の人類学大会で発表した 「Basic social capacty of Primates」 があった。 それは good mather と bad mather の実験をもとにしたものであることを知った。 5時過ぎこの気持のよい心理学者と別れて、Mason に YM まで送ってもらう。 
いつ雨が降ったか知らぬが道が濡れていた。 われわれもせめてあの位の laboratory が欲しいものだと思った。 
しかしこれはわれわれが欲しがるのはおかしいので、実は日本の心理学者が欲しがらねばいけないのである。 
6時に食事に出る。 今日の bar でビールをひっかけた後、湖岸の方へ行く。 この湖は何という名前か知らぬが、周囲が見渡せる程度の小さなもので山中湖ぐらいだ。 それから近くのイタリ―料理店でビフテキで晩飯をすまし、美しいと云われる Wisconsin 大学の構内を散歩して見た。 
丘の上に立っていて ―ずっと向うの丘何か知らぬが dome がある― 緑の芝生、沢山の森林、立派な建物、これなら誰でも美しいと言う筈だ。 モダンな綺麗な建物の入口に Commerce とあったのには驚いた。 商科なんて言えば、もっと汚い、ごみごみした建物をわれわれは想像しがちだからだ。 
YM に帰ってから Schller のくれた pruject を読んだ。 全く project のための pruject にすぎないが、project の書き方の為には参考になる。 
明日は、いよいよ北部を去って南部へ向う。 12.00就床。 




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2011/01/20

AFRICA 1958 (27)

6月18日  朝食前に、この間から書こうと思っていたロンドンの小川宛の手紙を書いた。  
10時半に Spuhler の Laboratory へ行く。 彼の奥さんが車をもって迎えに来てくれた。 それから町を出て大学の arboretum から向こうに north campus の見えるところで一休み。 
そこを出て川沿いになる、釣竿を持った連中が何人もいる。 Perch、carp、bass が釣れると言う。 Spuhler はこの辺は oak-hickory だと言った。 City park の横を通ーる。 Michigan も氷期に氷りに覆われていたので、土地は rolling している。 郊外を一周して、Spuhlerの家へより、 Lunch をよばれる。 
新しく建てた家で、入口にガレージがあり、入ったところの部屋が台所だ。 中二階に彼の書斎があり、hall をぬけて bedroom と bathroom がある。 後ろはみな森である。 ここに来る鳥の数をかぞえたら、46種類あったと言う。 キジが芝生の庭を歩いている。日本人ならこの年頃で、こんな土地を買って、こんな家にはとても住めないだろー、大学教授くらいでは。 蝶はこんなのがいる、オオミズアキのよーな蛾がくるなどと、奥さんが話す。 
Spuhler は日本語のポケット入り動物図鑑を持ち出してきた。 アメリカ人にはまだ Naturalist の血が流れている。 
マティーニを飲み、食事を一緒にする頃、雷が鳴り雨となる。 
また奥さんが運転して Spuhler とは laboratory で別れホテルまで送ってもらう。
Laundry が出来てきているのでズボンを替え、下へ降りて行って Carpenter の論文を読む。 3時15分に Spuhler の奥さんが迎えに来てくれた。 一度 raincoot を取りに家へ戻った。 そしたら家の前にキジの♀が子供を8匹つれて歩いていた。 雨が降っていた。 Air port に行ったら名大の村上氏に会う。 彼氏の飛行機は2時何分かに出るのだが、気象の加減か4時になったと言うのである。 
われわれは定刻に出た。 AA である。 耕地の上を半時間ほど飛んだ後、Michigan の上に出た。 飛行機乗ったらコーヒー飲むかと聞かれnoと言った。 そしたら気が付くとみな lunch を食っている。しかし、さっきnoと言った為か、俺の所にはスチュワーデスが運んでくれない。 いまごろ別に食いたくないのだが、何か misunderstanding だな。
そのうちシカゴガ見えて来た、シカゴはなんとなしに大阪を思わせるよーな、少しこみ入ったでかい町だ。 Air port には TWA と AA が一杯いた。 まだ雨が少し降っていた。 
バスを待つ、ゆっくりしたバスだ。 満員になってバスは都心へ走りだし、はじめの中は場末の汚いところを走っていた。 Hanburger というネオンが沢山ある。 Railway station の近くを通ーたらしく沢山の汽車を見た。 その中に町の中へ入って来て、まず WMCA Hotel というどえらい大きな hotelがあった。 街の点中に高架線になって電車が走っている、妙な町だ。 立派な建物が建ち並び、もう7時で町は夕日を浴びながらネオンが灯っている。 
Bus terminal から taxi でホテルに着く。 ホテルの office は二階だった。 秋月氏に電話しよーかと思ったが、電話帳を繰って、天理の政木さんの電話番号が見つかったので、電話してみたところ、真授さんからも堀越さんからも、手紙をもらっていると言う。 とにかく土地不案内ゆえホテルでお迎えを待つことにした。 
Ann Arbor を思い返してみると、実に田舎で気持よかった。 ここでは Washburn がどんな男かと言う事で、万事きまるだろー。  Washburn の所へ電話したが話し中で通じない。 
そこへ door の knock 、意外や政木夫人現わる。 御主人は表で park 出来ないから、どこかで待っていると言う。 伊谷を誘って、表へ出る。 
やがて政木さんが向こうから歩いて来られた。 とにかく家へ来て味噌汁と漬物でも良ければ、それでくつろいでご飯をたべてくださいと、言われるままに、協会へ運ばれてゆく。 右側 Lake Michigan だ、日本人の ―日本人はこの町に1万もいると言う― 店へ寄って、刺身にする魚を買おうといったが、なかったので豆腐を買って、だいぶ走って教会へ着く。 ちゃんと太鼓や神殿をつくってある。 しかし畳の間はない。 政木夫人はさっそく拍手を打たれる。 こっちは照れ臭いので、そっぽを見ている。 しかし親切な方だ。 米山のチェックを見せたが難しいと言う話だ。 
酒は鴨鶴、豆腐は煮豆腐で、それにこちらの日本人製の蒲鉾で一杯飲みだした。 政木さんは飲まない。 なかなか美味い、それにキューリの漬物、細大根の浅漬け、鮭などが出て、これはやっぱりhamburger を食いに行くより有難いものだった。 おみおつけは豆腐、飯3杯よばれ、政木さんの運転でホテルへ帰った。 
それからちょっと bar  ―ここは bar という看板の上げたところではない― でビールを一杯飲み、ホテルへ帰って部屋代を聞くと、伊谷の部屋は7.00を6.50にまけたもの、ワシの部屋は6.50だと言う。 さっきちょっと見たところでは、伊谷の部屋の方がずっと良いので、あの位の部屋はないかといったがないと言う。 伊谷には気の毒だが変わってもらうことにした。 
それから bath を浴びて寝たのは1.00。

6月19日  朝 bath を浴びたところへ伊谷が訪ねて来たので9.00 front で落ち合い、近くの coffee shop で朝食。 
それから JAL へ行って Madison 行きの reserve を頼んで、その前に Washburn に連絡したところ、10.30に Universityで待っていると言う事だった。 
JAL を出たのがもう10.25だ、それで taxi で University へ走った。町の outskirts に Mishigan 湖沿いの dreive way があって go、stop もなく、まことに快適だった。 University の前で降り、Department of Anthropology を探すのに、女学生に聞いたり、散々苦労して11.00にやっと、Washburn に会う。 
ところが其処に、若い神父さんがいて、名を Frish と言うが、日本に3年いたそーで日本語を喋り、また読むことが出来る。 この人を解して prof.Washburnは、すでにわれわれの研究をある程度まで知っていた。 これは全く予想しない知己を得たことになる。 Washburn が Africa で撮って来た baboon の写真を見せてくれたので、こちらも Japanese monkey の写真を見せている中に、昼となり、だいぶ遠いところ ―3~4町離れた― まで出掛けて行って、あるレストランに入った。 
昼食後 Washburn の Laboratory を見せてもらった。 Indian の歯を研究している Dr に紹介された。 日本、Africa 、Eskimo の歯型をとり、pedigree を扱った研究で、実に丹念に data を集めているのには感心した。 
それから Washburn の、 skull の collection も一応見せてもらった。  Monkey、Apes の comparative sociology をやるには、Physical Anthropology をやっておく必要を痛感した。 
それから Sol tax の部屋へ行った。 そして prof.Spuhler が作ってくれた紹介状を示した。 Sol tax はいかにも cultural anthropologist と言った如才ない、しかし Kluckhohn などに比べてscale の小さい学者のよーに思われた。 来年の1~2月に日本へやってくると言う。 American Anthropologyial Asociation の president なんだから偉いのだろー。 
日本の研究で英語で発表されたものがすくないから、われわれは日本の研究を underestimate しがちだ、そーいう事のないよーにしたいのだとお上手を言った。 
Washburn の部屋に戻り、来年1年間アフリカへ行って baboon を研究すると言う若い人に紹介された。 やがて4時になったのでべっしつでfilm を上映。 ところが残念なことに、sound box が古くて、toki が全然入らない。 見ている者は20人もあったのに。 伊谷が代わって説明しよーとしたが間に合わないのでFrischが救いの手をのべてくれた。 Film 終り、質問に入る。 相当盛んに質問が出る。 これも Frisch が通訳してくれ、そのあと prof.Washburn ―おくさんも film を見に来ていた― の車で、秋月氏のいる Brockwood hotel まで送ってもらう。 
秋月氏の部屋を訪ねると、同氏の娘さん及び女婿が来ていた。 
まだ御馳走が出来ていないと言う。 刺身にする魚は今日は手に入らなかったと言うので、焼鳥、アワビ、エビ天などでビールを飲んだ。 こちらの大学に居座っていると言う人の夫妻もやって来て一緒だった。 秋月氏の娘さんは秋月氏にすれば上出来である。 ビールがなくなってブランディーを飲んだ、それからハイボールを飲んだ。 
きらくな party で好きなことを言って愉快だった。 11時なったので秋月氏 、一緒だった夫妻両氏に送られて、郊外電車の停車場まで送ってもらった。 
電車の終点で降りて、出たところは JAL のある wabash street の近くだったので、ホテルまでは近くすぐだった。 街はもう12時だのに、まだ通っている人が多く、Chicagoはいかにも大阪的だと思った。 
ビールを一杯飲んだのちホテルへ帰り、1時すぎ就床。

6月20日  朝は何時もの coffeee shop 、それから JAL へ行き、  Madison 行き OK 、40ドル伊谷が払った。 サンチャゴ行きはbus にする。 
昨日覚えたので Illinoi central (郊外電車)に乗って大学へ行く。 秋月氏を訪ね、一緒に University Bank へ行き、そこで米山の100ドルを氏の口座へ払い込んで、100ドルを得た。 それから大学へ戻り学生食堂にあるところ ―カフェテリア― で昼食。 日本人かと思われるよーな顔が2~3 -女だったか― 。 
秋月氏の部屋に帰って魚釣りの話をしばらくしてから、 Dept. of Anthropology へ行って、Washburn に会い、Risenを電話で聞いてもらったが不在。 Kluver は居たので Washburn の案内で彼の Laboratory に行く。 
本やら apparatus やらゴジャゴジャした中に、じいさんはいた。 もう定年は越していただろー。 話し好きでイロイロ喋り、コーヒーを飲ましてくれた。 16ミリを写すと言ったら、ここに適当なprojecter が無いと言うので zoology の方へ電話してくれたけれど、Park も Emerson もいない。 Collias が居るかも知れぬと言うので、探しに行ってくれたのだが、それもいない。 けっきょく film は写さず彼の飼っているサルを見せてくれた。 
大部分がリーサスで中には brain の operation を受けてから20年以上生きているものもあった。  かれは30年ここで仕事をしている。 サルの寿命は35は持つだろーと言った。 
それから学内をここが Botany だ、ここが zoology だと教えてくれた。 それで別れた、あのおやじは良いおやじだが変わり物であるに違いない。 
電車に乗って、それから Natural history museum へ行くと思い一駅行き過ぎ taxi で行く。 Downtown にあると言うから町の真ん中にあるかと思ったら、あにはからんや、海岸沿いに立った建物である。 行ったのが5時頃、ここは Habitat group が沢山こしらえてあるので有名な museum で、実に贅沢に沢山のはく製をその為に使っていた。 
アフリカの一部を模写したのなんかはキリンが数匹、 Eland、Impala、Rhino などを一つの case に納めていた。 African buffaro のもの凄く大きな♂もあった。 アジアの山岳地帯の game animal はこの前 Oxford で見たけれど、ここは設備が良いので、実に良くわかる。
例えばTahr (ヒマラヤ産 Hemitragus) は背高く、足長く、胴短くして、角もまた短し。 
Burrhel (ヒマラヤ産 blue sheep、Psendois) は背低く、角は Tahr より長いがツルリとしている。 
・・・・以下続クガ省略
Habitat group を一巡しない中に6.00になって電気が消える。 
仕方がない、コンナ立派な museum ならもっと早く来るべきだった。 動物園も良いが、博物館と言うものは、特に natural history museum の価値を今日は特に感じた。 しかしここには New York の museum のよーに、裏に楽屋があって、animal behavorの labatory があるという様子はなかった。 
館を出て Chicago の高い建物と海と drive way の見える階で一服した後、また Illinoi central に乗ってホテルへ帰り、bathを浴びて8時に夕食に出掛ける。 
いつもの bar でビールをトーガラシ(ピーマン)のピックルと chicken で3本飲んだ、roast beef は不味くて食えなかった。 それから支那料理へ入ったが、とても高いので焼飯だけ食って、ホテルへ帰る。 
疲れていたので寝たのだが、Tappen、Sanfrancisco の別府、清水 etc、に手紙を書き、12.30就床。




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2011/01/16

AFRICA 1958 (26)

6月13日  Philadelphia の空港へ行き Delta Airline に荷物をあづけて、空港の coffee shopu で朝食。 飛行機はしばらく待っていたが、そのまま黙って乗りに行っても良いことが分かった。 
Air girl は二人とも素晴らしい八頭身で綺麗だ。 飛行機が出るとアナウンスするが、アナウンスの前に二人で合唱する。 こんなのはまだ経験していない。 First class ばかりの飛行機で綺麗だが客は5~6名も乗っていない。 この飛行機がワシントンからアトランタ・ダラスへ行くのである。 
ワシントンまで40分。 空港から taxi で着いたのは two bed で bath つき、聞けば10ドルもする部屋だった、これではたまらない。 さっそく毎日へ行ったが、戸が開いていないので、次には大使館を訪ね、石坂氏に会う。 毎日への連絡と Coolidge への連絡を頼んだ。 
それから近くの coffee shop で飯にすべく、聞いて行ったが、随分遠ーかった。 そこへ入ってスープを頼んだら、それはカンズメのスープを開けて、温めるのである。 
そこを出てもう一度大使館へ帰ったら、毎日と連絡がついたと言うので、出掛ける。 
関口氏がおられ、つづいて村松氏が入ってこられた。 関口氏に頼み、まず prof.Straus との面会を押さえてもらう。 われわれの仕事に大へん興味を持っているので、会えなくて残念だが、またいらっしゃいとの事。 こちらも Straus は Boules さんからの紹介だから、会わないのは、大変心苦しかったが仕方がない。 
Coolidge は3時に office へ帰ると言うので、また関口氏に電話してもらい、Wilson 氏に会うべきかどうか聞いてもらったら、会えと言ったので、さっそくtaxi で行く。 
すぐ傍だった、会って見ると Carpenter から電話があったと言う。 やはりほかしておく訳にはゆかなかった。 しかし Gorilla expedition については、Wisconsin project に、われわれが participate するかどーかについては Coolidge に橋渡ししてもらって Elmen との間で決めたらよい。 ただしここの Fund は外国の仕事は助けないから、行きたいものはこちらに留学すると言うのも一案だろーと言った。 
そんなことで Wilson との会見はもう一つ要領を得なかった。
それからホテルまでブラブラ歩いて帰った。 もの凄く蒸し暑く bangkok の暑さを思い出した。 ホテルへ帰ってしばらくベットに横になっていた。 部屋は冷房されているので、こうしていると生きかえってくる。 それから bath を浴び、 Emory university に手紙を書き、9時過ぎ食事に出る。 
まず近い bar でビールを飲んでから、スキヤキと看板の出た家へ入ってみた。 ここは支那人の経営だが、出て来た waiter はハワイ生まれの二世だった。 ブタと豆腐の煮込みが大へんうまかった。 それからエビの入ったフライドライスもうまかった。 しかし値段は随分高い、7ドル払って出た。 ビールをここでも2本飲んだ。
部屋へ帰ってベットの上でうたた寝していたが、気が付いたら12時で、もう何もせずに bed にもぐり込んだ。

6月14日  朝9時に Mr.Hill が来る、朝食もとらずに下へ下りて面会した。 松方とはこの間会ったらしい。 
実験動物に関する全米の書記長のようなことをしているらしい。インドから Rhrsus が入らなくなってた為、非常に困っていて、何か自給体制を作ろーとしているので、われわれに会ってJMC の話を聞こーというらしかった。 
その中に National zoo の director の Read が車をもって迎えに来てくれた。 Zoo ヘ行く。 今日は昨日とうって違って、どこにも雲は無い、爽やかな天気だ。 
ここの zoo はとにかく森林動物園と言いたいぐらい、木が良く茂っている。 そのくせどこもみな道は舗装してあって車で通れるよーになり、中に交通巡査が立っているところもある。 
はじめに鳥の所へ案内された。 大きな cage に木が取り込み、ワシのいる cage などは岸壁はそっくり、そこから滝が落ちていると言う凝り方だ。 それからゾーやハイソンやエランドを見た。 
エランドもゴリラもここで繁殖している。 Pigmy Hippo も沢山子を産み、それは皆交換にだされるそーだ。 
Primate pathologicl と言う若い Dr が現れ一緒に回る。 Okapi を見て、それから monkey house に行く。 種類はここが一番沢山あると、伊谷は言っていた。 Gorilla は lowland だった。 
前後に Gibbon を見て、カフェテリア で Coolidge 、前 director の Maum 夫妻と一緒に昼食をとる。 
それから office で film と colorer slide を写して、Reed や Maum と別れ、Coolidge の車で、Washington の名所見物。 Geoge washington の memorial monument や Jaffason のそれ、 white house。 Bridge を渡って、ペンタゴンなどを見たうえ、Library of Congress の Anex、 Japanese section まで、わざわざ Cooledge が送ってくれ、そこで Mr.Harwood に引きわたしてくれた。 
図書館の中から外へ出て、木陰で一服し、そこから Street car に乗って毎日へ行ったけれど、村松氏はいなかったので、そこから歩いてホテルまで帰る。 村松氏と連絡つき、同氏ホテルへ現れたが、一方で Evening star という夕刊新聞から interview に来ると言うので下の bar へ下りてそ、こで会った。 
それから村松氏に連れられて、魚を食わせる店に行き、白ブドーでハマグリのカクテルと sole のフライを御馳走になったが、これは正直なところ、ハマグリのカクテルはカキのカクテルに及ばざること遠く、sole のフライはエビのフライに及ばざること遠いものがあった。 
歩いてホテルまで帰り、部屋でちょっと休んだ後、村松氏と別れた。 Harwood はだいぶ老けた、もう孫が出来たと言う。 
Street car はバスと電車の中間のよーなもので、バスよりも感じが良かった。 電線は地下に埋めてあると言う。 食事中、村松氏から人種問題についていろいろ聞いた。 
Coolidge は Gorilla expedition について Elmenn に連絡してくれるらしい。 Kisoro の gorillaについて、若干 information を彼に提供しておいた。 彼は8月に Congo へ行くらしい。 Expedition は next winter と言った。 
Coolidge は実に気取らぬ男だ。 伊谷は少し疲れている様子だ。 もう少し酒を飲みたい気持だけれど、朝9時に飛行機が出るので、bath にも入らず就床11時。

6月15日  出発の用意が出来たところへ伊谷が誘いに来た。 
空港で朝食をすまし、飛行機に乗る。 Capital airline である。 
すぐ雲の上、それから耕地の上、一筆の耕地は思ったよりも小さい。 農家は密集せずにバラバラである。 10.50着。 Detroit かと思ったが、ここは Cleveland だった。 
ここで East time を West time に直して1時間時計を遅らす。それから Erie 湖の上を飛んで10.40 今度はほんとうの Detroit に着いた。ここで Detroit へ行くのをやめて Ann Arbor に向う。 まず taxi で Greyfound bus の staition まで、そこから bus に乗って Ann Arbor 。 また taxi で Michigan Union を訪ねたが、Sahlin は message を置いておいてくれない。 
そこで運チャンに、どこかよいホテルへ連れて行けと言ったら、運チャンは車に備えてある shot wave で office と電話して、 Hotel Allenel というのに連れて行ってくれた。 bath はないが shower のついた5ドルの部屋に入る。 
今日は日曜だし、する事がない。 出掛けて行って bar でビールを飲み、隣の食堂でアメリカへ来てはじめてビフテキを食った(swiss steak1.00$)、コンビーフのビフテキといった味だった。 それから帰って午睡。 ここは天気晴朗で、涼しい。 それから bed の上で Forde を読み、夜はまた bar へ行く。 
昼間入った食堂は、もう閉めていた ―9時― ので、もう少し先まで歩いて、そこでロースト・ダックを食った(1.50$)。

6月16日  9時過ぎホテルを出て朝食をすまし University へ行く。まず Bordim 氏を訪ねた、 Psychological clinic を訪ねる。 看板は出ているが普通の家だ。女の子が一人 desk にいた。 Bordin は本部の地下にいると聞いてそこへ戻った。 
しかし vacation で旅行中との事、別冊を置いて、こんどは Institute of Human Biology を訪ねた。 ここに Spuhle rがいるはずが、しかし彼も別の所にいると言われて、別棟の Physical anthropology の Laboratory に彼を目にした。 手紙をだしたSahlin も直ぐここへ来ると言う。 そこへ現れたのは良く聞いてみると Beardley 氏だった。 向こうは覚えていた。 そこへ Sahlins も来た。 彼の住所が変わっていたので手紙が着かなかったのである。 
それからビアズレ―氏に連れられて、本部の図書館の Center of Japanese などを案内された。 Film は明日の午後に写す事になった。 ミシガンセンターのカフェテリアは行列だったので、そこから出てホテルで昼食を食った。 
それからビアズレ―氏と別れて、芝生でしばらく休んだ後、もう一度 Spuhler を訪ね、今度出すと言う本の原稿を借りて、彼の車で Departmentof Anthology へ行った。 Leslie White はいなかった。 それから学生用の所らしく建った Library へ案内され、そこで別れて、われわれはここで原稿読みをする。 
その前に車の中から AACK の鈴木の歩いている姿を見つけ、声をかけた。 そしてホテルで会う約束をしたので、5時になって図書館を出て、ぶらぶら歩いてホテルへ帰ったところ、鈴木がちょーど来るところだった。 
ところでここには内田■■■の息子が来ていて、会いたいと言っていると言う、そこへ電話がかかって来たので晩飯をよばれることになって、まず鈴木と伊谷と3人で近所のbar へビールを飲みに行き、それから内田氏が迎いに来たので同氏の車で同氏の apart へ行った。奥さんはきりりとしていてショートパンツで天ぷらを揚げた。 スイス人が一人同席した。 腹具合があまりうまくなかった。 車で送ってもらいホテルへ帰った。 
日本人にはこの他に Spuhler のところで、日本から human genetics をやりに来ている人2人会った。 
大へん忙しい日だったが、環境が静かなせいかあまりくたびれなかった。 それに天候が昨日に劣らず良いので、誠にすがすがしい。Mark して来た Sahlinsの paper は全くお座なりで、学生の卒業論文程度のものだったのは、予期しないわけではないが、すこぶる物足りない。 伊谷に読ました Harcott のものも、つまらないそーである。 大いに他流試合をやるつもりで来たけれど、みんな長袖で bookish な仕事に過ぎない。 
Field の体験で、汗であがなった仕事じゃないのだ。 アメリカは応用面では金にあかして進んでいるけれども、概論は駄目だといわれる。 また根のいる observation なんか、―ノートと双眼鏡だけの mettod なんか―、やはり今のアメリカでは育たないのだ。 
Gorilla も gorilla だけれど、われわれは今までの、あるいはこれからも、ニホンザルの研究で、彼らの鼻をあかさねばならない。 
彼らに何が負けているかと言えば、英語の能力だけなんだ。 これからどーしても英語で書いて、大いに奴らを押さえるのだ。 もうその時期に来ているのだと思った。 

6月17日  ちょっと朝寝して、まだ寝間着の時に、伊谷が訪ねて来た。 9時まで一人でいつもの coffee shop で朝飯(36セント)をすまし、それから Sahins の review を書く。 
書いているうちに maide が部屋の掃除に来た。 昼に約束があるので Michigan Univ に行き、そこで Dep.of Humangeutics の Dr.Janses、V.Neel、及び日本人3氏と一緒に食事した後、 Prof.Spuhler の研究室でわれわれの firm を写すため Mr.Sahlins の車で行く。 
車中 Sahlins と discuss したが、彼は頑強に抵抗した。 Film を写した後 Sahlins に書いて来た comment を読んで聞かせた、わりあい大人しく聞いてくれた。 
それから何だか mouse(こちらの特産品らしい)の一種の strain が飼われているところを見に行った。 クルクル回転ばかりしているもの、ジャラジャラとぶる下がったkey が鳴ると慌てふためいてしまって硬直してしまうもの、刺激を受けるとテンカンを起こすものなどを見た。 
それからホテルへ帰り、今日書いた comment を Spuhler に渡すべく清書をしているところへ、伊谷が鈴木を連れて来たので、しばらく待ってもらった後、一緒に出掛けてビールを飲み、鈴木と別れて待っていると Spuhler が迎えに来てくれた。 
奥さんが運転した車に乗せられて、―この奥さん40ぐらいで、なんだかわりあい無邪気で、良い奥さんだ― ■■氏の住まいへ行った。其処には Prof.Neel の他に2~3人こちらの人も来ていた。 そのうちの一人は日本人を嫁さんにしていることが分かった。 ここで日本酒が出て、肴は焼豚、オリーブで久し振りに日本酒をだいぶよばれた。 
Spuhler が隣に座っていたので、大分気炎をあげた。 昼会った3人の日本人は皆顔をそろへていた。 Prof.Neel は trout fishing が好きだと言うので、しばらく彼と話した。 この9月に日本へ来ると言う。 Spuhler も来年2月に来ると言う。 
11時頃散会になり、また Spuhler 夫妻の車で送ってもらう。 この Spuhler と言うオッサンは実にのんびりした良い男だ。 こんな男がアメリカ人の全部だったら日本もアメリカと戦争しなかったであろう。 
それからもう一度 bar へ行ってビールを飲み、12時半就床。




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2011/01/11

AFRICA 1958 (25)

6月9日  今日はいよいよ Coolidge と Anderson に会う。 
これはいわば America へわれわれの来ている一番の山場である。 
朝から雨が降っている。 朝食後毎日へ行き、内田氏の応援を求めた。 
Coolidge とはわれわれだけで会うべく Harvard club へ約束の11時に行く。 日本でいえば学士会館のよーなものだ。 しばらく待っていた後、Coolidge 外から帰って来た。 
Smart な Harvard boy でなくて、どこか野趣が漂っている。 英語は分かりやすい。 しばらく話しているうち、いつアフリカへ行くのかと聞いたら、どーして知っているのだと言う。 
川村から知らして来ていると言ったら笑って、その話は飯の時にしよーと言った。 
食堂で昼食をよばれたが、やっぱり mountain gorilla をやるらしい。 その arrange に彼は近々出掛けるよーだ。 日本から参加出来ないかと聞いたら、参加の条件は、best quality の人間を出す事。 アフリカ往復の軽費を JMC で払うことだと言うから、それは出来るだろーと言っておいた。 
Bronx へ是非もう一度行けと勧められるので、断り切れず明日行く事にした。 Anderson とは会見が午後2時なので、Coolidge に電話をかけてもらって、taxi で内田氏を誘いに行き、そのまま Rockfeller
Foundation へ行った。 55階である。 
Anderson に会った。 思いだしたが彼は昨年の秋 Prof.Ashida の部屋で会ったことがある男だ。 インドの事を決めるため全権大使として乗り込み、またそのため通訳に内田氏を頼んだのであったが、会ってみると、その問題は既に Mr.Trapido に任せてある。 
Trapido は日本へ来る日を延ばせないか、それは延ばせない、と言う事になってこの問題は最早われわれが touch 出来ない、日本での問題になってしまった。 
それからそこを出て taxi で American Museum of Mational History へ行き、Schneirla のところで、film の上映だ。 講義室に15人ほど集まっていた。 この間のネズミの実験についてトートーと一席ぶった、眼の鋭いオバチャンが紹介の労をとり、写し出したがトーキーが上手く入らなぬ、やっと上手く行くよーになった。 あとで割りあい活発な質問が出た。 
帰りは地下鉄の停車場から歩いてホテルへ帰った。 Office の引けどきで沢山の人が歩いている。 夕日を浴びて42丁目を歩いていたら、いやに暑かった。 
一休みの後、毎日を訪ねる。 一人知らぬ記者がいる、名乗りを上げたら、これなん本田紀男社長の御子息医学博士本田一二氏だった。僕が日本料理が食いたいと言ったら、日本人クラブへ連れて行ってくれた。 今日はなんとかいうピアニストの演奏会があるというので、食堂は大変こんでいた。 定食はスズキの刺身にサバと豆腐のたいたのや、トンカツが出た。 安物の定食と言った感じだった。 大田、本田両氏は酒を飲まない。 ビールを2本飲んだ。 
それから下のバーへ行って、ジョニーウォーカー黒を飲んだ。 不埒な留学生がいるようだ。 ここの空気はとにかく面白くない。 アメリカに来れば、もっとアメリカを学んだらどんなものだろー。 留学生と言っても、来てもらいたいよーなのは、ちっとも来ていない。 道楽子女が、つてを求め、ヤミドルで来ているのが多いと言う。 しかし今は全米で3000人も留学生がいると聞いて驚いた。 あまり空気の面白くない日本人クラブを出た。 
4人で ―大田さんは早く帰った― Times square へ出た。 なるほどここはニューヨーク随一の繁華街で享楽街である。 内田氏の女性に関する話は大変面白かった。 本田氏も中々話せる男で、社長の息子だけあってノンビリしている。 もう1時になっているので、ここで別れてホテルへ帰った。 
ホテルの辺りは、もうこの時間になると、まるで寂しい。

6月10日  今日は伊谷に Bronx へ行ってもらい、こちらは Zuckman に会うつもりで、朝9時過ぎに内田氏の所へ電話して、面会の appointment を頼もーと思い、 address を言うと、 Syraceus と言うのは Washigton より遠いという、それでこの方を断念して、Bronx へ行こうかと思っていたら、今度は Bronx の方から今日は残念ながら trouble があって面会出来ないと電話がかかって来た。 
それから朝食に出て、いつもの coffee shop で朝食をすまし、ここの2階にある hair cut で散髪した。 
ホテルへ帰って、Madison の Shaller  ―これが2年前へから gorilla project を National Academyof Science に出している男だが― に手紙を書き、同時に昨日の会見の結果を、宮路、河合両氏に知らせる手紙を書いた。
今日もうっとおしい天気で小雨が時々降っている。 昼食に出る、毎日に寄った。 それからその向いの、日本人の経営しているというレストランへ入る。 本田氏がいた。 ライスカレーを食った。 食後、本田氏に案内されて国連を見に行く。 その国づつに案内のgirl が付き、日本人の案内 girl もいる。 国連も今のところはこれなら、つぶれそーもない。 
国連を出て、JAL へ行く。近藤氏から ticket を受け取る。 新しい cicket が綴られ、もうもとの Air India の ticket は捨ててもよいそーだ。 それと共に、あの Air India のバンコックまで一緒だった air girl の記憶も消えて行くことだろー。 
5th Avenew を歩いてバスに乗り10丁目まで行って Barnes and Nobles と言う本屋に入る。 新本も売っていて、Physic and Delinquency を買った。 伊谷は動物園へ行くと言うので別れて、またバスに乗る、 rush hour で一杯である。 42 street で降りて、歩いて帰る。 
6時に実験動物商の松方氏来る、一緒にフィンランド料理を食いに行く。 雨もよいで街の高いビルディングの上の方がガスに包まれ、まるで山を見ているよーだ。 51丁目辺りを折れたに、そのレストランがあるのだが、今日は閉めていた。 それでストックホルム料理へ行った。 満員でしばらく待ってからテーブルに座る。 沢山並べられてある御馳走を自分で取りに行き、何べん取って来てもよいと言う。 エビ、魚、肉などイロイロあったが、 スズコがあったことが何よりも有難かった。 
9時に毎日で内田、大田両氏に会い、今晩は昨夜の続きで約束になっていたので、松方氏に毎日まで送ってもらい、そこで松方、伊谷と別れて20階へ上がって見ると、張り紙あり。 
国連の安全保障委員会が長引いているので今西先生よ、ホテルでまっていてください。内田とある。 
仕方ないからホテルへ帰って、昨日買って来た本を読む。 もう12時近くなったので、今夜の事はあきらめて、ベッドに入った。 うつうつとしたところへ電話のベルが鳴って、内田氏いまホテルの玄関に来ていると言う。 
しかしもう今から出掛ける気もないし、 ―明日の朝は比較的早く起きねばならないし・・― それで大いに残念だ、すべて国連が悪いのだ、と言うことにして電話を切った。

6月11日 今日は出発なので早起きした。  8時前にいつもの coffee shop へ行く。 今日もビルの高い所は雲がかかっている。9.30出発が1時間送れるとA.A から message があったそーだ。 
大きなバスで空港へ、このあいだ通っただろーが、この間は夢中で通ってしまった。 国際空港の一番隅っこの方でバスを降りた。 案内の bus gairl おらず、不親切だ、国内線だからだろー。 他の人についていったが A.A が2台いて、遠い方だと教えられた。 Air girl は愛想よく、How are you ? と言う。 
10.30に飛行機は動き出したが、どーいうわけか前に飛行機がつかえている。 5~6台もいる、順番を待ってやっと飛び立ったが、このため1時間待たされた。 
飛び立ったのはもう11.30だった。 すぐ上に昇り、朝日が窓から差し込んでいる。 雲がなくなり、はじめ海岸が見え、それから何かわからぬ、海岸沿いの bush land のよーなものが光っていた。 だんだん畑、人家、道路網が見え出し、Philadelphia に着く。 
腹がへった。 Bus sorvice はないと言うので taxi に乗る。 ホテルは町のど真ん中の、目抜きの所にある立派なホテルだが、部屋は5.5ドルで、Tudor の6ドルに劣る。 Tudor の部屋は狭かったが快適だった。 窓が2つもあった。 ここは窓は1つ、それを開けても建物の壁だ。 Bath は無くてシャワーだ。 昼飯はホテルの launge で cold beef を取って食った、一皿2$だ。 
それから taxi で University Museum に Coon を訪ねたが、休み時でいなかった。 Museum には沢山の人が来ている。 その Hall へ入って行ったら、菓子とオレンジジュースが出ている。 なんだろーと思ったら、今日卒業式が朝あって、なにかそれに関する催しらしく、学生だけでなく父兄も来ているらしかった。 この museum は archeology と ethnology で、随分良く集めてあるが、猫に小判だった。 Hallowell も家へ帰っていると言うので、自宅へ電話してもらったが、疲れているから面会出来ないと言う、appointment を取ってないから仕方がない。 バスで帰る。 
バスの中は恐ろしく暑い。 今日は大体暑いところへレインコートを着ているから、額に汗が滲みだし、終いに身体全体が汗ばんできた。 
Broad street で降り、一杯 orange juice を飲んで、小雨降る中をホテルに帰り、シャワーを浴びる。 
松方氏が訪ねて来た。 下へおりて行くと伊谷と二人で明日行くという University Park の所在を調べているところ、300マイルも離れていると言う。 これはえらいことになった。 しかし朝の汽車に乗って、夜帰って来られぬこともない、往復6時間汽車に乗らねばならないが。 
それで松方氏に朝、電話をしてもらうように頼む。 それから chaina town へ支那飯を食いにブラブラ出掛けた。 支那料理はロンドンのよーには美味くなかった。 料理屋は何軒もあった。 またブラブラ歩いてホテルまで帰ったが、もう一杯酒を飲みに出かけ、近所の bar でビールを一杯ひっかけて、松方氏と別れた。 
12時就床。 道を歩いていたら、「今日は」と言葉をかけられた。振り向いて会釈したが、きっと日本へ進駐していた男だろー。 ホテルの shower のカーテンに何故ビニールを使わないのか不思議である。

6月12日  朝食抜きで Philaderlphia の北停車場に向う。 
ホテルの通りを真っ直ぐに行けば良いのだが、途中迂回して行く。その辺りは黒人の town らしく、黒人学生が沢山通っている。 
汽車は満員で、食堂へ入って朝食をとり、帰って来たら席が一つあった。 
途中で空いたので席を変わったが、そこの窓ガラスが曇っていて、景色が見えない、窓外の景色はロンドンからケンブリッジへ行く時のよーに、広々とした田園風景だ。 New York とはおよそ違う。 途中で何川だか大きな川を渡る。 水はどちらに流れているか、はっきりしない。 
Lewistown という所で降りる。 迎いの車は来ていないが、state college 行きのバスというのが待っていたので、それに乗る。 
やがて town を離れ渓流の傍を走る。 両の 丘 というか山というか、それは広葉樹で一面に覆われている。 この林の中に deer 、bear 等がいるそーだ。 そーした山の峠を越えた、丘陵の続いた広々とした蒙古的な処へ入る。 山の木は伐ってないし、谷間も全部は開墾してない。 すこぶるのんびりしている。 
1時間程してcollage のある university park に着く。 
Carpenter が bus terminal までやって来てくれていた。 Chance とどこか似ている。 とにかく食事だ。 Carpenter がおごってくれた。 
それから持ってきた film をその近くのある大学のものだろー。 Film を取り扱う所で写した。 それから campus へ案内された。学生集会場のよーな所に、学生の書いた絵が並べてあった。 それから大学の symbol である中央ホールを見て、 Carpenter のいる office へ行き別刷をもらい、その建物 ―それは education である―  の中にある vision and auditory education の一室で、Carpenter の Rhesus 2巻とテナガ1巻を拝見する。 
終って彼の home まで車で連れて行ってもらった。 彼の家というのは森の中に建ててある。 これは自然のままでシカが遊びに来ると言った。 Mrs.Carpenter と共に Cold tea をよばれ、バスの来るところまで送ってもらった。 
3日は居なければ駄目だと彼は言った。 あの川には魚がいるのかと聞いたら、いるとも trout がいて、ここは fisherman,s paradice だと言う、残念である。 
Gorilla exp. には彼も発言権があるらしく、いま要求している連中はサルには素人なんだと言った。 
彼と別れ、またバスで長閑な America の田園風景を堪能しつつ駅に戻る。 駅のすぐ横手に中谷宇吉郎のウツギが白く咲いていた。 汽車はえらく延着、50分も待たされる。 やはり私鉄より日本の鉄道省の方が良い。 10.30、30丁目の Philadelphia 駅に着いた。 Broud way まで taxi に乗り、ビールを一杯飲んだうえ、何か食うところを探したがない。 結局さっきビールを飲んだ家の横手のレストランへ入って、ビフテキのつもりで注文したのがジャーマンステーキだった。 12時過ぎてからホテルに帰る。 
12時50、就床。




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2011/01/08

AFRICA 1958 (24)

6月5日  今日は朝寝した。 9時起床、朝風呂をすまし、昨夜出来なかった金勘定をした。 今のところ一日2人で30ドルでやっている事が分かった。 
10時ごろホテルを出て、coffee shop でコーヒーとドーナツの朝飯を食い、 News Building の20階の毎日を訪ねた。 
大森氏、大田氏がおられ、手紙を受け取る。 大森氏は二三日中に南米へ発たれる由、後の事は若いが内田氏に任しておくと言う事だった。 内田氏はフルブライトの留学生でこっちに来ていたと言うので英語はものすごく達者だ。 
さっそく Anderson に電話してもらった。 それで月曜の10時と言う事になったが、次の Coolidge の所へ Washingtonへ電話したところ、月曜日 New York へ行くから、そちらで会おうと言う事になり、appointment が11時となったので、また Anderson の方へ訂正して、その日の2時にしてもらった。 
しかしこれで New York - Philadelphia - Boltimore - Washington と言うところが上手く調整出来るよーになった。 
それでホテルへ帰って日程表の再編成をやり、昨日のレストランで昼食後、伊藤忠に行く。 ロンドンの小野さんから紹介されていた宮沢さんに会い、87.70$を受け取った。 それから会長の Eikichi Ito 氏に挨拶をして、さらに日航に行く。 
Rockfeller Plaza といってスケート場やら花壇やらのある所ろだった。  
そこで近藤氏に会ってプランを示し、飛行機 reserve と ホテルの reserve との依頼した。 もう6時だった。 それからブラブラ歩いて、途中でレモンスカッシュを一杯飲み、郵便局で葉書を買って帰った。 
ホテルで日程の再検討をやって、9時になり、いつもの Volk という店でビールを飲んだうえ、次の店へ行ったが閉まっていた。 それでその辺にあった焼肉屋に入った。 二人で2.70$位で安いは安いが、その代わり不味い事も甚だしい。 まあ日本ならうどん屋で食っているよーな物だ。 これで予算で言うと、よーやく2$程余っただけなのだ。 アメリカは一切贅沢は出来ぬ。 

6月6日  よく寝られた。 
朝、昨日買った葉書を5枚書いた。 それから出て行って朝飯を食い、毎日に寄って日航に日程の変更を知らし、 taxi で住友へ行く。 次長の下 OKADA 氏が現れ、それから支店長の滝沢氏が現れて各々から$を受け取った。 
Wall 街は金曜日と言うので中々人通りが多い。 ホテルの近くと違って、ここは古いかも知らんが、ガッチリした聳えたる建物が建ち並んでいる。 なんだか渓谷の底を歩いているよーな気がした。 商工会議所の食堂で昼食を呼ばれたうえ、OKADA 氏に地下鉄の乗り場まで送ってもらった。 
ロンドンの地下鉄のよーに familiar ではない。 地下鉄からただちに American Museum of Natural History の地階へ入れるよーになっていた。 
先ずその建物の広大なのに驚く。 British Museum などはだしだ。一階に上がって habitat group  ―有名な― を見た。 随分古いものだろーが、こいつはナカナカの芸術品だ。 Harvard で glass flower に感心したけれど、ここは glass でないだけで、木の葉も花もみな模造品である。 良く出来ているのに驚く。 
それから forest type を示した物があり、アメリカ全土の vegetation を分別けにして、その type を70に区分したのなどは、日本のよーなちっぽけな所に住んでいる者にとって、なにか威圧な感じだ。 魚の標本も大きな鳥の ―多分模型だろー― が沢山あり、やはり泳いでいるよーに宙に釣り下げてあった。 
Informaition へ行って Dr.Schreirla に会いたいと言ったら、そこのオバチャンが電話をかけて、 Secretary が出た。 とても Busy で会えないと言うのだ。 それで Dr.Mead に会いたいと言ったら、やはり secretary が出た。 やはり busy で会えないと言うから、それなら Dr. mead に話したい paper を持って来ているので、あなたに会いたいと言ったら、よーやく上がって来いと言うのだった。 なかなか appointment 無しでは会えないものだ。 
やっと上へあがった。 Exhibition は4階までで、5階以上は museum のいわゆる楽屋裏である。 廊下の両側にはずらっと標本箱が並び、左右の扉に archaeology だの entomology などと書いた表札が下がっている。 
建物も綺麗だし、天井が高く、明るく、やはりアメリカ的であり、この広さは素晴らしい。 Mead は5階でなく6階にいた。 Secretary と言うのはアメリカ嬢にしては愛嬌がある。 隣の部屋で Mead がしきりに電話をかけている。 長い電話だと secretary 嬢が言った。 その声からこいつは相当手強いオババと言う事が分かった。 
やっと通されたら如才なく握手を求めた。 一応要点には触れたが、busy でいずれ Comment は後で書きおくると言った。 それから animal behavior の所へ案内してやると秘書嬢に言い残して出て行った。 秘書嬢は知らぬらしく電話で聞いた。 
また長い廊下を通り、多分別の棟に言ったのであろー。 そこのまた屋根裏のよーな所の奥まったところに小さな人がいて、それが Schreirla だった。 
さっき断ったものだから、盛んに言い訳をした。 別冊をくれた。それからこの animal behavior という branch で仕事をしている人達に会ってゆけと言った。 
彼から baton を受け継いだのは、まずこわい顔をしたドイツ女で、tention の研究でネズミを扱っているのだが、トートーとわれわれの前で一席ぶったが、ついにネズミは一匹も現れなかった。 次は男でアフリカ産の魚を使ってcastration による behavior の変化を調べていた。 それから次には同じよーな castration の実験に使う猫の cage が沢山積まれた部屋に案内された。 その次は魚の schooling の研究をしていると言った。 
今日は陳列も見ていないし、とにかくもう一度来る事にして ―火曜日は busy で月曜なら暇だと言う― 月曜に Anderson と会った後で film を見せることにした。 
女に喋りまくられてボオーット地下鉄に出た。 すぐに地下鉄に乗らないで、上へ出て道端のベンチで煙草を吸った。 
なんと豪勢な museum だろー。 国力の差だからこれは到底敵わない。 しかもいま出来たものでなく、すでに何十年も前からそうなんだ。 こんな国と戦争をよくしたもんだ。 しまいに負かされるに決まっていたのだ。 ハーバードだって300年の歴史を持っていると言うから、敵わない。 
42nd street で降りて、近くでビールを一杯ひっかけて、ブラブラ歩いてホテルまで帰った。 
9時なって今朝毎日の大田さんから教わった北京飯店へ飯を食いに行った。 ここはナカナカ上等出で、しかし良く流行っている。 この間のケンブリッジの大象飯店のよーなわけには行かない。 pickleを取っても1ドル取られた。 払いはチップも合わせて8ドル、しかし今日は昼を御馳走になっているので、予算から言うと7ドル余った。 
一昨日からアイシャツ、アイズボン、朝夕はまだこれでは涼しすぎる。 シュネイらの1956年の instinct 論を少し読んで寝た。

6月7日  今日もえらく朝寝した。 起きたのは9時だった。 10時過ぎ朝食を食いに行く。 その前に宮沢氏から11時15分にホテルへ行くと言う電話があったのだ。 朝食をいつも食いに行く coffee shope も今日は土曜日でガラスキだ。 
それから毎日に行ったら大田さんが来ておられた。 最近の新聞を読んでいたら、深田隊がシェガール・ヒマラヤでいよいよ base comp を造ったという記事(深田の通信)が出ていた。 もちろん朝日にである。 また毎日には中尾がいよいよブータンへ入ることが確定したという記事が載っていた。 
空はすっきり晴れて、少し寒い風が吹いている。 毎日を出たところで伊谷に会った。 宮沢さんが迎えに来ておられると言う。 
それから同氏の車で Bronx へ向う。 Manhattan を出て、 Harem 河の橋を渡る。 橋の向こうは黒人街だそーで、日本人が一人殺されたと言う噂だった。 Yankee sadium の横を通る。 野球はやはり人気があり、決勝戦の日はえらい人は見に行き、そーでない者は休んでテレビを見、小僧といえども会社へラジオをさげて来て、仕事しないという。 
New york を出て、木の多い、芝の多い住宅街を走り、芝生の上に椅子を出して日光浴をしている者、マリ投げをしている者などがいる。 道で宮沢氏のお宅の前に寄り。 奥さんと菜子ちゃんという4才の女の子を pick up した。 
宮沢氏は土日と休みがあっても、日本の商社は一日しか休まない人が多いと言う。 これは日本の商社の利潤が少ない、こちらの商社の利潤の半分ぐらいらしい。 それで人間を減らし、一人当たりの仕事が偏重になる。 その原因は商社同士の競争からだと言った。Bronx植物園の横を通ーって、動物園に来た。 車を止めるのに50セント取られるだけで入園出来る。 歩いてくれば一人20セントだそーである。 
入った所はラマ、エルク、ゾー、カバ、ピグミー、ヒップ、等がいた。 事務所に伊藤忠にいま働いていて、もと zoo に勤めていたと言う若い男がいて、それが連絡しておいてくれたので事務所を訪ねると、フーシェ というオッサンガ出て来た。 このオッサンとても気の良く、よく笑うオッサンで、まずは剥製標本室に入っているサルを見せてくれ、それから ope のcage を案内してくれた。 上野の system だった。 
♀の Lowland gorilla 18才、 Orange utang の♀大きいのも出ていた。 子供の chimp を見た。 Mountain gorilla の若い♀と Lowland gorilla の若い♂とが一緒にしてあった。 
それから Children,s zoo へ行ったが、平凡なものばかり。 ブタの子供が3匹入れてあったりした。 これはみな子供の物語に「3匹の子ブタ」といったものがあって、そーした動物を集めたものである。 フーシェ氏は、それから lunch をおごってくれた。 
それから更にフーシェ 氏に案内されて hospital に行った。 病気の物に限らず新到着の動物は10日ほどここに入れておくのだと言う。 フーシェ氏に別れてから、まだ見てない方へ歩いて行った。 随分広くてくたびれた、なにしろ400エイカーあるのだ。 くたびれて日本なら茶店に当たる所で休む。 ここは coffee teria なので注文聞きが来ないから、ただ休んでもよい。 
しかし動物園の bench という bench は休んでいる人で一杯だ。 おーむね40才以上の男女である。 若女が4~5人芝生の上で弁当を食っている者もあり、毛布をしいてひ膝の上に盤を広げてチェスをしている若い夫婦者らしい者もいた。 乳母車に子供を乗せて押して歩いている子連れも随分多い。 また黒人に随分合った。 学校の先生に引率された子供も大分いた。 
トートー出口まで来て車に乗った。 宮沢氏の家で飯を食えと奥さんに言われた。 奥さんが途中から運転して買物に行くのに一緒に乗せられて行く。 靴なおしの店の前で止まったので、伊谷が靴をなおした。 奥さんの買物が終って、もと来た道を帰る。 そのときわれわれの間に座っていた菜子ちゃんが、ママの door が look してないと注意した。 4才の子供にこんな注意が出来るのかと甚だ感心した。 
家はアパートで下にも伊藤忠の人が住んでいるそーだ。 
日本茶をよばれたのは嬉しかった。 靴を脱げと言われて脱いだが、靴下が臭うのでがっかりした。 テレビを見ているうちに奥さんの手料理が出来た。 
宮沢氏は酒を飲まないので、われわれ二人がビールをよばれた。 買って来られた魚はスズキの類だろーが、その刺身とうしおは大変おいしかった。 また鮭の塩焼きでご飯を3杯よばれた。 
下の人達もご飯を頼んできたので奥さんがこしらえている。 その人達は奥さんがいないか、連れて来られない人達だ。 
食後に水瓜が出たが、これは日本とあまり変らぬ味で、アメリカ式大味ではなかった。 
それからまたテレビを見ている中に9時過ぎ、9時35分の汽車があると言うので、それに乗るべく駅まで奥さん、菜子ちゃんも同乗して送ってもらう。 
駅と言っても駅員一人おらぬ寂しい駅で、 New York と違いいかにも郊外の田舎と言う感じだった。 汽車はイロイロの人が乗っていた。 やがて New York の燈が輝きだし、地下にもぐって、grad central に着いた。 10時過ぎだった。 
ホテルに10時半ごろ帰り、日記をつけ、一風呂浴びて、12時過ぎ就床。 

6月8日  今日はローマの休日ならぬ、New York の休日で、一日どこへも行かずに手紙書きをした。 伊谷は Brooklyn Zoo と American Museum へ行った。 
Maid のオバチャンが2度戸を叩いたがけれど、 邪魔くさいからほっておいたら、3度目にガンガン叩いたので、仕方なく部屋を開けた。 怒っていた。 
午前中葉書を合わせて6通の手紙を書いた。 10時に出て、post office へ手紙入れに行った。 昨日と違って空が曇り、風が吹いている。 大部分は閉まっていたが、post box が自動式になっていて、金をほり込んで手紙を入れればよいよーになっていた。 こまかい金を作りに前のレストランへ入った。 その前に barで beer (一杯15セント)を飲んで来ている。 Office に立っているオッサンが親切にやってくれた。 それからその辺のレストランで shrimps のフライを取ったが不味かった。 
ホテルへ帰って、しばらくまどろんだ後、また手紙を書きだし、7通書いた。 どこから来たか珍しくも一匹の家蠅が部屋の中へ迷い込んで来た。 
夜は近くの bar で労働者の食うよーな、ハンバーガーのよーな物を取って、ビールを頼んだ。 ローストビーフを挟んだもので、これは注文によりなんでも挟んでくれる。 ザウエルクラフトも食ってみたが酸っぱすぎる。 他にトーガラシとピクルスがあった。 
伊谷はまだサルの Homo sexual にこだわって、からんで来た。 いったい4カ月も一緒に旅行して、はじめて分かったのだが・・・、 
 ・・・ココデ、コレカラ先生オコ小言ガアルガ省略・・・・




以下次回へ


 

2011/01/03

AFRICA 1958 (23)

  
  日本モンキーセンター第1次ゴリラ調査隊を名乗って、日本を
 出発した今西隊は、アジア大陸のタイ、バンコックにささやかな
 足跡を残し、アフリカ大陸へ。 アフリカでの調査を終えて、ヨー
  ロッパ大陸へ。 そこでの視察調査、研究者達との discussion
 を終え、舞台は最後の北アメリカ大陸へと移った。

6月1日  今日の飛行機に乗らねばならないのだ、という事を思い出して、すぐ起きた。 7時過ぎだった。
BOAC のバスは7時半に出るのだ、これでは間に合わない。 飛行機は9時半だから、taxi を跳ばすことにした。 空港少し手前で BOAC のバスに追いついた。 
さて荷物を量ったところ excess 代16ポンドと言われ、伊谷の持ち金を全部はたいたけれども、まだ足りない。 8ポンド程足らぬのだ。 それでもう既に飛行機に積むため、車に乗っていたスーツケースを下ろしてもらってドルを取り出し、23ドル払った。 
10時に飛行機は出た。 待合室で国際基督教大学教授西本三十二という人に会った。 ボストンへ同じ飛行機で行くのだと。 機内で Forde の Habitat.Economy and Society を取り出して Masai のところを読む。 居眠りしては眼が開くと読み続け、それでも読んでしまった。 
ボストン着8時半。 時計を3時半にしたから、時差はロンドンと5時間の違いだ。 Custom は今までの中で一番厳しかったが、何も出てくるはずがない。 西本氏はこっちに来ている清水氏が ―同じ大学― が迎えに来ていた。 西本氏の泊るホテルはいかにも高いので、近くにあるホテルへ清水さんが連れて行ってくれた。 
ところがここでも single 8ドルだ、4000円近いじゃないか、驚いた。 しかし今さら YMCA へ行くわけにもいかないから、泊る事にして、book した。 
ボストンの空港からホテルまでの自動車が3ドルだったのに比べると、車は安いがホテルは高いという事になる。 通された部屋は大したことはない。 しかしバスが付いているのでさっそく風呂を浴びた。 bed に入ってしばらくウトウトしたら、伊谷が飯を誘いに来る。 アメリカの料理は日本人にとっては口に会う。 
Forde を読みながら、10.00就床。

6月2日  朝はホテルの食事、トマトジュースとトーストと紅茶で90セントとは ―これで300円以上も払わされるとは― バカバカしいと思った。 
それから9時になって Peabody Museum を訪ねて行く。 office で Prof.Howells に会いたいと言ったが、まだ来ていなかった。 
それでその間に陳列を見る。 地下はエスキモーとアメリカンインディアンの material culture なんだが、何とよく集めてある事よ。 totem pole が二つも三つも並んでいる。 また織物なんかも実に立派なものがある。 これが Indian の sense だろーか。 Navaho の物なんか正に色合いといい、模様といい大したものだった。 また楯に描いた絵画にも見るべきものがあった。 
エスキモーというものさえ、その生活様式は pure hunting なものだが、 material cultuye そのものをとって見ると、必ずしも Life way に parallel に下級なものとは言えないのだ。 cultural climax おいて、それ以上に developする為にはsocial and economic development が必要だと言うことなのだろーか。 その為には population が必要だ。 その点とエスキモーも蒙古もその他の indian もみな同じじゃないか。 
一回り見てから、もう一度 office に帰ったが Howells はまだ来ていない。 それで prof.Kluchhohn に会いたいと申し出たところ prof はいる、ここで待っておれと言う。 
Kluchhohn 出て来た。 名前を覚えていて、Dr.Imanishi と向こうから声をかけられたのにはビックリした。 ここは煙草が禁ぜられている、地下の smoking room へ行った。 
ついて来た若い人は日本語が喋れる。 そこで私はハーバードへ行ったら、この人に会えと言われてきていると言って、名刺を渡したところ、それが私ですと来た。 その人が Pelzel 氏だった。 Kluckhohn は忙しいから、昼飯を一緒に食おうと言って出て行った。 それで Pelzel 氏に案内されて Physical Anthropology の laboratory や講義室から Archaeology の Pueblo の culture、Maya の culture、Southsea や African の culture まで一通り見た。 大した collection だ。 
それから昼食を食う Hall まで Kluckhohn に案内されて、そこで Pelzel 氏に別れ、昼食はインドから来た人と一緒に食った。 
それから印度人達に別れて、 Peabody の前まで来たら日本人の女性が一人立っていて Kluckhohn に紹介された。 
後で分かったが、これが祖父江夫人だった。 Howells とは hall で Kluckhohn に紹介された。 そして後で来いと言うことだったので、訪ねた。 実に温厚な人だ。 Howells は別冊をくれたが荷物になるだろーから、別便で送ると言ってくれたのは、思いやりがあるのではないか。 別に話もないので、Comparative zoology まで案内してくれて、そこで年増の女の curator に紹介された。 この人がまた親切で、イロイロ例の博物館の楽屋裏を見せてくれた。 
ところでアルアル、ここは Hooton や Schulz の集めた primates skelton があるばかりでなく、毛皮を集めた部屋へ見せてもらったが、部屋一杯に毛皮ぶる下がっていた。 
小雨が降っていたけれど、3人で町へ出てコーヒー店に入る。 祖父江女史もここでは寛いで愉快に話した。 コーヒー一杯10セントとはホテルの高さに比べてあまりにも安くて驚く。 それから小雨降る中を道へ出たら、そこでばったり大林太郎氏に会った。 祖父江夫人から聞いていたので、なんとかして捉まえよーと思い、連絡を頼んでおいたところなのだ。 そこで晩飯を食いに行こうと言う事になった。 
ところで Cambridge で美味い支那料理屋は今日は月曜日で閉まっていると言うので、いっそ Boston まで出ようと言う事になり、地下鉄に乗って Wathington という駅まで行く。 それから少し歩いてた。 China tawn の民象飯店と言う所へ入った。 しかしここではビールは飲めないのである。 よく流行っていた。 美味かった、どれだけ掛ったか知らぬが、こちらで払うと言ったのに、おごってくれた。 
それを出て、賑やかな通り ―しかしロンドンからボストンへ来て一番驚いたのは建物の高さがずっと高くなっている事だ― へ出た。 bar が何軒もある。 その中にジャズを盛んに鳴らしているところがあり、とにかくそこへ入って見た。 あまり面白くないので、そこを出て、また地下鉄で帰った。 ロンドンと違って地下鉄に乗っても、街を歩いていても、ベッピンに合わない、大林氏も同意見だ。 ホテルの前まで大林氏が送ってくれた。 
ホテルへ帰ったが部屋の戸が開かない。伊谷にもわからぬので、ボーイを呼ん出来た。 左へねじるところを右にねじっていたのだ。
昨夜は9時間寝たので、今日は疲労が余程回復した。

6月3日  朝10時半、 Peabody へ行き、ニホンザルの film を写した。 そこへ東洋文庫の村松祐次氏を大林氏がつれて来たので、film がすんでから一緒に茶を飲みに行った。 
そこで昼ついでに、ハーバードへ行き Pelzel 氏に会い、 Reischaur にお眼にかかった。 30分程話した後、 Pelzel 氏に連れられて、昼飯をおごってもらった。 
ロンドンの郊外の動物園でもブナを見たが、ハーバードの中でもブナはあった。 Pelzel 氏と別れて、もう一度 Peabody へ帰り、 Dr.Hunt に会おうとしたが、 Boston へ行ってしまっていた後だったので、4時過ぎまでまた陳列館を見た。 
今日は天気が良いせいか、大勢の見物人が来ている。 その中で一昨日別れた、西本、清水の両氏に合った。 
glass flower というのは、 チェコかドイツのある男が19世紀終わりから20世紀初めにかけて考案した植物の模型標本で ―出来の良いのも、悪いのもあるにしろ― これは大したものだ。 こんなのはいままで知らない。 
American bird のコレクションも殆んど完璧に近いく、日本と違って大陸国アメリカには、鳥だけでもこんなに多いかと感心した。 4時になりもう一度 office へ戻って、Dr.Hunt に電話してもらったが、捉まらないので、ホテルへ帰った。 
5時半ごろ大林氏が誘いに来たので、松村氏の家へ行く。 村松氏はロックフェラーから金を貰って来ているのか、奥さんをつれ、家は階下の半分を借りていた。 エビを御馳走してくれた、にぎり飯に茎コンブ、信州のシソ漬けも有難かった。 大林氏と家畜起源論を戦わした。 氏はブタの文化史をやっているのだ。 相客の一人は鹿島大の横山氏、もう一人は教育大の小西氏で、共に長くこの地にいるらしい。 植民地論から大東亜戦争にさかのぼり、大いに国の前途を憂いた。 
11時に辞し、帰りに大林氏の下宿にちょこっと寄って、宿に帰る。大林氏が送って来てくれた。 就床12時半。

6月4日  今日は元来なら、 New York に ―昨日の飛行機で発って― いるべきだのに、一日日航に話すとき間違えたのだ。 
それで、こんな日は町を離れて郊外へでも行こうと思い、昨日 Pelzel 氏がその時間まで聞いてくれたのだが、昨夜遅くなったし、 Dr.Hunt 氏に会っておきたい気もあったので、やめた。 
伊谷は museum を見たいと言っているので、行ってもらい、 Pelzel 氏の様子は電話で知らせてもらうことにして、ホテルに居残った。 本を読みながらウツラウツラしていたところへ電話あり、Dr.Hunt 氏は4時15分ぐらいに Peabody に来るという。 
12時半に伊谷と Peabody で合い、昼食を食いに行こうと思って歩いていると、今西と呼ぶものあり、見ると数学の秋月教授である。北米へ招へいされて、邦人仲間で最高俸を食んでいると言う噂の人物である。 もう一人は北大の教授で河口氏。 
一緒に町の方へ歩いて行って昨日の所でビールを飲み、昼飯を食った。 それからアイスクリームを drug store で食べてから、ホテルの秋月氏の部屋へ行ってオシッコをした。 
それから二人でまた校内を歩いて Peabody の道で別れた。 Chikago では是非一晩家へ来てくれと言われた。 奥さんを連れて来ているそーだ。 月900ドルでは、こちらの教授の最低の俸給料だそーで、決して優遇ではないそーだ。 
Peabody で待っていると、向こうの陳列館の方から祖父江夫人がやって来た。 話ているうちに Dr.Hunt 氏が現れ庭の芝生の上で話をした。 祖父江さんがいるのでこちらの話は伝わったと思う。 somatotype と group を取り扱った本を一冊教えてくれたので、やはり会わないよりも会った方が良かった。 
それから彼の車で Boston 空港まで送ってくれるかと思ったら、相客が二人も現れ、結局ホテルまで送ってもらったに過ぎなかった。ホテルは無愛想この上もなく、荷物も伊谷に手伝ってもらって下へ運び、車で空港へ駆けた。 rush hour で祖父江さんは飛行機に間に合うだろーか、心配してくれていたが、6時20分無事についた。 excess は取られなかった。 
6時40分頃改札、飛行機は満員である。 7時出発。 西側の窓際に座ったので、日が射して暑かったが continenntal glacier のつくった Landscap というものを始めて見て面白かった。 Eskar の代表的なものもあった辺り、耕作地よりも森林が多い、ところどころに pond か lake か知らぬが irrregular な水溜りが出来ている。 
8時、New York 着。 いよいよ New York だ。 
ホテルは20階まであり、その7階の一室で6ドル、しかし小さい狭い部屋だが bath tub も小さいが付いていて、これで結構だと思った。しかし晩飯は遅すぎで ―9時だった― ホテルで食えないと言うので、二人で町へ出て、ブラブラ歩いているうちに、barと看板のかかった店があったので入った。 
中が薄暗い店は嫌いだが、ここは明るい。 ビールを注文すると、気を利かしてドイツビールを持って来てくれた。 苦が過ぎるのでアメリカンビールをもう一杯飲んだ。 食事はパンと一皿、ここは独逸客の店かどーか知らんが、menu にソーセージ料理が沢山並んでいたので、その一つをを取った。 もう一皿注文しよーとしたら、ウエイターが止めておけと言う、アメリカへ来て以来、一皿の量がバカに多い事は知っていたが、ウエイターが止めておけと言うのも面白い。 
この4日間にかかった金勘定をしよーと思っていたが、時間が遅いので今夜は寝ることにした。 就床11.50。




以下次回へ  


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