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2011年2月

2011/02/18

AFRICA 1958 (32)

7月1日  いつものとーり9時に caffee shop に行ったがナカナカ持って来ないので、癪にさわり、昨夜散髪しそこなったので ―月曜はここでも休み― 散髪に行く。 
ジャッキばかりでハサミを使わぬ、カミソリも電気カミソリ。 しかし今までの中で一番時間が長かった。 
ホテルへ帰ると、伊谷の頼んであった taxi がすでに待っていたが、頭を洗わねばならいので、10時半に来てもらう事にして、bus に乗らずに真っ直ぐにtaxi で、高くつくけれども、 air port まで行くことにした。
Taxi を待つあいだ荷物を下におろして、ここに泊っている老人達と一緒にテレビを見た。 
Denver air port 11時過ぎ着。 ここは air port にバスがある。 これは、今までになかったことだ。 州によって違うのである。 昼飯は飛行機で出すだろうと思って、食わずに乗った。 
今日は朝から前山の後ろに、雪の沢山ついた主脈が見えていた。 飛行機は一度、Pikes peak の下のところにある Colorado spring に着陸した。 それから少し眠って眼をさますと荒涼としたところをとーっている。 
とにかくこれは砂漠だ。 その上を点々とおおっているのは juniper かなんかの灌木である。 やがて Rocky の支脈を越える。カールが沢山ある。 そこに雪がちらちらとついているが氷河はない、そこを越えたところに大きな砂漠があった。 
広い広い草原の谷が山脈と山脈との間に広がっている。 景色はいかにも西部的である。 川の流れがウネウネとして、幾つも小さな平月湖を残している。 緑の濃いところやらうすいところやら、それは何だかヌルヌルした粘菌でも附着しているよーだ。 
しかしその間にあって、真っ直ぐな道が走っていた。 またこんな寂しいと思われる所にも、cultivation による緑地があり、家が見えた。 
アルバカーキに近づき一本のやや大きな川が流れ、その川の側だけよく耕地が開けている。 道の上を自動車がやっぱり走っているところはアメリカである。 砂漠の中の道でも自動車は走っていた。アルバカーキは中々広い。 
Air port へ Dr.Norman の assistant と言う人が迎えに来ていてくれた。 それから大学の本部の二階の Norman の所へ行った。 
昼飯抜きで腹が減って英語を喋るのが大へんめんどーだ。 とにかく日本人で日語と英語の出来る者を interpreter に呼ぶと言いだした。任しておいて Dr.Norman に Domitory へ案内されたが、cafeteria は5時半にならねば開かないと言う。
同じドミトリーの中の一室に Colorado 大の prof.Rose の office がある、Rose に紹介される。 Rose が晩飯を食わしてくれることになった。 空が曇って雨がパラつく。 
Rose はアルバカーキの町からえらく離れた山の中に住んでいた。 Juniper が生えていて、家のある所には spring があって、綺麗な水が流れ、その周囲には広葉樹が生えていた。 家までの道には小さな cactus が生えていた。 それから見下ろすとアメリカ人がやってくる前から住んでいると言う spanish の村が見え、また Puebro indian の遺跡があるそーだ。 
Rose ら、大学教授達が夏期大学へよばれて来て連中が何軒か、この山の上にすんでいた。 Rose はあごに白い山羊髭を生やした、ちょっと風格のあるオヤジだ。しかし出て来た嫁さんが案外若いのにおどろいた、子供が出てきたら、9才だった。 
腹がへっている事を知っていたので、さっそくソーセージやビスケットを出してくれた。 そしてそれを持って隣の家へ行った。 そこに Calfornia の大学やら、Ohaio 大学から来ている連中が嫁さん連れで集まっていた。 
その嫁さんの人はちょっと charming な顔だった。 ―と言うのは眼が少しやぶにらみだったからかも知れない。 やぶにらみはカチューシャ以来、本人はどうあろうと、大へん男にとって charming な何ものかを持っているのだ。 そこでジンをレモネードお割ったものを3杯よばれたら、だいぶ舌が回るようになった。 
それから Rose の家へ戻った。 晩飯は飯を出してくれた。 それにひき肉とピーマンの刻んだのを添えて食った。 8時に interpreter が来るので Rose の車で送ってもらった。 行きより近いよーに思った。 行きも帰りも Rose の部屋にいたもう1人の sociologist が一緒だった。 しかし彼は食事の時は一緒でなかった。 
アルバカーキの町はネオンがはいって昼よりも綺麗になっていたが、しかしどことなく田舎町というお粗末さを感じた。 ホテルと言うのはモーテルで2人一部屋である。 待遇すこぶる芳しくない。それに荷物がまだ来ていない。 
Mrs.Hashimoto が現れた。 もうよいおばあちゃんだ。 明日の講演原稿を直してもらう。 ついで伊谷の幻燈の説明を直してもらう。 荷物は Dr.Norman の assistant が持って来てくれた。 こんなアルバカーキに50軒も日本人がいると聞いて驚いた。 Los へ行けば日本人町があるそーだ。 戦争花嫁もここだって何人もいると言う。 
この Mrs.Hashimoto は二世だが、日本語は子供の時から食事の時だけは日本語を話すよー、両親にしつけられたのだと言った。 父母は鹿児島県、岡山県出身で、御主人は和歌山県出身だそーである。 どーも関西人の方が多いよーな気がする。 
モーテルには洋服をかける所がない。 せっかく cleaning に出したての洋服を着ているのに。 
Dr.Norman は学者と言うより、軍人と言う印象を受けた。 軍人上がりかも知れない。 Rose に何故君らの Conference が airforce の support を受けるのかと聞いたら、 I don,t know と言った。 
明日は100人ぐらい聴衆があるという、12時就床。

7月2日  6時過ぎに眼があき、7時ちょっと前に起きて、shower を浴びた所へ、Mr.Hill が電話をかけて来た。 もう起きたかというのである。 なかなか良く気を付けてくれる。 
それから今日の講演の原稿に一度眼をとーした。 8時に Mr.Hill が迎いに来てくれ、彼の車で大学内の学生食堂へ行った。 もう一人の助手もここへ来て、それから一緒に Dr.Norman の office へ行った。 
この食堂に髪の毛の黒い女が2人働いて、ちょっと日本人かと思わす。 しかしインディアンの血が混ざっているかも知れない。 
9時に Norman が来るのだが、その前に大きな、ややもさいオッサンが office に現れ、いろいろ Africa の Gorilla の事など聞いた。 これはちょっと air force 筋の偉いものらしい。 
9時半講義室に入る、100人も来ていない、40人ぐらいだ。 Mrs.Hashimoto 正装して現れていた。  Norman の挨拶があった後、まず壇上にあがって原稿を読みだす。 何分かかったか ―20分ぐらいかも― 知らぬが、発音は悪くても、まあ落ち着いてやれた。次に movie、これも sound が良く入ってまず出来は良かった。 次は slide 、伊谷が説明をやり出したが、 Norman がでて来て Mrs.hashimoto に変わらせた。 
それから質問が出たけれど一人 baboon の研究を London zoo でやっていて、英国からわざわざこの conference に出席している、髪の毛の黒い男がいて、ちょっとうがった質問をした。 
しかし質問の内容はもう一つ良くわからぬ。 Publish したものがあるかと尋ねたら、ないと答えた。 しかし、これは今日の掘り出しものだろー。
ここを出て昼食は Mrs.hashimoto の知っている、アルバカーキで一番美味いという支那料理へ彼女と Noeman と一緒に行った。 朝から良く晴れた天気 ―大陸的なすっきりした天気― で蝉が鳴いている。 支那茶を飲んで、ビールを飲まずに支那料理を食った。 わりに美味い支那料理だった。 
飛行機が出るまで、まだ2時間ほどあるので、Norman が頼んでおいてくれた anthropology の学生に collection の案内をしてもらう。本部の建物の廊下に Pueblo やらその地の collection がある。 Pueblo はここが本場だから良く集めてある。 Pueblo の古い materialculture、 とくに pottery には見るべき物があった。 小さなものはオモチャだと言った、草鞋の如きものも並んでいる。
実は本物の indian をまだ見てない、混血でも良いから見たいと言った。 そしてあの学生食堂で働いている女そーじゃないかと言ったら、そーだと言うので見に行き、コーヒーを頼んだ。 
じつによく Asian に 似ている、Indian は Asia から来た人という事を裏書きするようーに。 
この学生に Puebro は turkey を domesticate していたのかと聞いたら、そーだと言った。  じゃ independent origin かと聞いたら、そーだと言った。 この Puebro の ancient culture が religion はいままで持っているのに、どうして無くなったのかと聞いたが知らないと言った。 
Norman の office に戻って金を受けとった。 一人あて15ドルとは情けないけれど、まあこれで土産物を買う金が出来た。 
ここの心理では Lashley の流れをひいて■■の■■と behavior の関係を見ている人がいる。 なぜ rat をやめてmonkey にしないかと聞いたら expensive だからと言った。 
2時半に Hill は来てくれホテルの荷物を受け取って、air port に向う。 南の方は夕立のきそ―な空。 
Air port にスペイン系の美人が一人いた、Gate へ出ると、凄い風が吹いて、どこから来るのか紙屑が一杯飛んで汚い。 飛行機に乗ると、 Temp.104 と言う anounce があった、暑いはずだ。 
Albuquerque を出るとすぐ、もう町に続いて砂漠だった。 飛行場で飛びだす前に、右手を注意と言う anaunce があった。 その時一機の軍用機が矢のよーに飛んできた。 
砂漠と言っても、砂の砂漠ではない。 どこもかも色あせた赤銅色である、土が出ているらしい。 しかしこんなところでも不思議に道路が通っている。 Albuquerque からしばらくはまだ juniper がボツボツとかたまって生えていた。 
しかしいよいよ Arizona に入ったらもう木も草もない。 こんな砂漠の道路を上から見ていると、2台の自動車が走っている。 一台に悪漢が乗っていて、それをもう一台が追跡しているよーな気がする。 
こんな所だから、スペインかフランスか知らぬが、安く売ってしまったのだろー。 それに California までくっついていたのが 大儲けだったのだ。 Jefferson の功績である。 
南米にも砂漠はあると言うけれど、人の住んでいない地域をのぞいたら、 United State の人口 170 million と LatinAmerica の人口 180 million と、どっちが人口稠密なのか、ちょっとわからなくなる。 
大砂漠から今度はもの凄い森林の上を飛び出した。 なんの森林だか良く知らぬが大したものだ。 どーしてこんな所に森林があるのか良く分らぬ。 
しかしとにかくアメリカには、まだこんな所にだって palp 資源が手づかずに有るじゃないかと、貧乏人根性が出たほどだった。 それは5時頃だった。 
それから Phoenix に入る前山を少し越えた。 山の上の方は禿げていた。 山の間の谷間にキラキラと水流が光って見えたが、その川は尻なし川になって、その水は川沿いの畑の灌漑に使われているらしかった。 今度は上が茂って下が禿げている。 日本のよーな山また山の上を飛んだ。 
5時15分に川を渡った、耕地がある、そこを最後に山地を離れ、広い所へ出た。 Pheonix に近いのだ。 広々とした荒地には上から見えても分かるのだが、Cuctus がすくすくと立っている。 
突然緑地が現れる、これは大したものだ、砂漠と一線を劃して緑地になるのだ。 Phenix なんだ、ヤシを植えている。 砂漠の中のオアシスだ。 
Phenix 着、5.20、20分くらいあると言うので飛行機から降りた。もの凄い暑さだ、熱帯だ、タイだ、Phoenix を6時に出た。 Phoenix、とにかく大したところだ。 町も碁盤の目に整然として、木が沢山植わり、町の一角には sky scraper も建っている。  アルバカーキより上等だ。 
町を 外れて耕地の上へ出てもやっぱり耕地は整然とした、碁盤目になっていて道路がタテヨコに走っている。 それを 川が ―つまり自然が― 勝手に、斜めにぶち切っていた。 しかしこの川、今は水が流れていないが、いったん水が出たら相当荒れるだろー。
この人工的な綺麗な碁盤目が川の流路と cross する所だけ無残に破壊されている。 
畑の上を土煙りをたてて働いているのは troctor だろー。 なんだか科学と機械の力で、ここの農業はやっと砂漠を征服しているよーだ。 
飛行機の上から見える所に、砂漠の中に土を盛って Catorpillar tractor Co、と言う広告があった。 われわれが飛行機相手の広告として、今までに見た、ただ一つの例である。 
それからは荒れ果てて木の一本も出ていない山と、それを囲んだ砂漠の連結、なんと大した自然であることよ。 しかし何処に通ーずるか知らぬが、長い一直線に走った道がどこかについている。 その道は、それを横切る水流 ―と言っても、いまは水が流れているわけではないが― を横切るところで乱れて、それを迂回しているのが分かる。 斜面についた道なら、それを真っ直ぐ横切っていた道が壊れたため、上を巻くか、下を巻くかしているのが分かる。 砂漠の真ん中に他の所はみな禿山なのに、黒々とした低い丘がある。 何かが生えているらしいが、高い所から見ているので良くは分からぬ。 
砂漠の中には、ところどころ真っ四角に区切って耕地が作ってあり、そこだけが緑である。 何を植えているのか良く分らぬ。 しかしこんな砂漠の真ん中にどーして、あんな風に緑地化出来るのだろうか(6時12分)、井戸水か湿地下水の利用にあるのだろーか。 
それにポツポツと在るだけで聚落と言うものはたえて見なかった。6.35に Calfornia との境界をなす川を渡った。 ・・・つづく




以下次回へ               



2011/02/10

AFRICA 1958 (31)

6月29日(日曜)  伊谷は起きてこないので9時過ぎ、ホテルで聞いて、coffee shop で朝飯をすまし、それから昼までかかって Coolidge 宛手紙を書いた。 
そしてその copy をとってもらうべく伊谷に話した。 それから昼飯を食って2時に prof.Smith が迎えに来てくれるので、あと1時間しかないと言うので、まずビールを一杯飲みに行って、それからホテルで昼飯と思ったが、今日は日曜でやっていない、それで Howard という店へ食いに入った。 
しかし、ここで時間を1時間まだ遅らしていない事に気が付いた。 ここは Rocky Mountain Time なのだ。 これで1時間の得をしたので、その間に日記をつけた。 午後の picnic には半ズボンで行く事にした。 
2時10分に prof.Smith は Frau と5人の子供を自動車に乗せて迎いに来てくれた。 ここは山が近いので朝は涼しいが、昼間はナカナカ暑い。 車は街道をまっすぐに走っていた。 
北向いて、それから西へ曲がって、舗装してない道を前山へ入った。 そこは pine forest で道は迫り、ウネウネと山腹を走っている。 松の木に所々 No Hunting という札がぶら下げてあった。 峠を一つ越える、道端に picea が出て来た。 
もう一つ峠を越えて、良い道へ出た。 Rocky Mountain National Park へ入る main road らしい。 Borlder から17mile 程走って、とある camp 地に着いた。 他の組みがすでに来ている。 
この道をずっと行けば、湖の沢山あるところへ行くのだそーだが、まあ Smith にまかせて、ここで釣る事にした。 
流れ、大きさ、速さ共に手ごろだが、石に硅藻のつき方が少ないのは、ときどき川が荒れるためだろーか。 Camp 地と言うものは日本に限らず、ここもあまり綺麗ではない。 小蠅が camp あとにいっぱいわいて、飛んでいた。 
釣出したが、たった一回手ごたえがあっただけで魚は出ない。 針金をはった小屋があって、山羊を飼ってあった、人の住まない小屋があった。 
4時前いったん釣をやめ、竿をおさめて車の所へ戻った。 時間も良くない、もう少し夕方の方が良いだろー。 伊谷は子供たちの相手をしていた。 
Smith の Frau の話を聞いて、5人の子供の中、一番大きい男の子はメキシコ人を父に持つ子供、ちびの(下から2番目の)男の子は父が日本人で母がアメリカ人、2人とも親の居所を知らない子供だと言う。 自分の子供が3人も(もちろん baby はまだ小さいから別として、はじめのメキシコ人の子供はまだ子供のない時、日本人の子供はすでに2人子供が出来てから後だ) あるのによく生活が出来るのだと感心した。 
しばらく休んでから、もう一度出直した。 今度は必ずいるという場所を見つけたので慎重に毛バリを流した。 魚出て来た、2度水面上をはねた。  あわせ損なって毛バリが高い枝にひっかかり、釣を切った。 つけ直してもう一度やったら、また出た。 今度は合わすどころか、むこーで食い付いて、引っこんでしまった。 日本にはこんなこんなバカな魚はいない。 引き上げたら黄色の斑紋があるので、こちらの言う Brook Trout (あるいは speckled trout) だ。 つまりイワナであった。 
5時である。 それに労いを得て、もう少しあたってみたけれど、もう魚は出ない。 こんなバカな魚だから、いたら必ず出るはずだ。 5時になったので約束もあるから引き上げた。 
車の所で Smith 夫人持参のお弁当が開かれた。 ニワトリ入りの黒パンのサンドウィッチ、キャロット、ニマキ、それからピーマン(ペパーと言っていた)それに胡椒の塩でもんで dressing をかけたのを、ビンに入れて来ていたが、これが体へん美味かった。 
いっぽう伊谷に焚火を作ってもらって、釣った魚を塩焼きした。 弁当を食っている間に焼けた。 これは Frau はここで食うのかと思っていたらしいが、冷えてからの方が美味いと言って、持って帰ることにした。 
帰りは峠を越さず谷に沿って下った。 1日よく晴れた、よい天気だった。 道々ちょっとよさそーな場所には必ず、車で遊びに来ている男女がいた。 何か食っているか、寝そべっているか、別に tent を張っているものもいなかった。 
1人の年寄がゴム長をはき、リールつきの竿をもって、ノッシノッシと歩いていたのが、釣に来ているという唯一の人間だった。 彼の相棒がもう1人釣っていた。 彼らの車に女が一人待っていた。  谷ぞいは Picea (コロラドトウヒ) やシラカバが松の他に出ていた。■■■■■■、Salix の生えたところもあった。 
谷を下りて行くと Rocky 特有の岩層が長く露出した、切り立った岸壁を持った山を見た。 山を出て草原になった所に、ケシに似た、白い大きな花が幾つも咲き cattle が放牧されていた。 
道はいつか広い舗装道路になり、やがて街道脇に出た。 ホテルに寄ってもらって、ズボンを替え、茶と塩コンブを持って出た。 Smith の家には一匹の毛のフサフサした犬が待っていて、大喜びで出迎えた。 
メキシコ人と日本人の子とは baby と共に先に寝かされ、本子が2人われわれの傍に残った。 やっぱり同じようにはゆかぬだろー。 Frau が日本茶を入れてくれたが、器に牛乳のアブラがしみついていて、それが鼻につく。 
カラーの projector がないので写真を見せ、Smith といろいろ話した。 今夜は満月だそーである。 9時までいて、Smith は明日の朝 lecture があると言うので、われわれを送ってから office へ行った。女の子が車に乗ってついて行った。 
車を見送ってから、ビールを一杯飲みにいった。 Navy で横須賀にいたと言う男がバーにいて、日本は良い所だと言う、誰でもがそー言うのである。 Smith の Frau はアメリカを恨んでいないかとも言った。 
ホテルへ帰り、 Denver Hotel が reserve したままになっている事を思い出し、ボーイを呼んでキャンセルの電話をかけさす。 それから日記を書き bath に入って、11時半就床。 

6月30日  今日はちょっと寝起きがえらかった。 
朝食後 Albuquerque でやる lecture の原稿を書く。 昼食をくい、1時10分 Smith が迎いに来てくれたので、 Universityof Colorado へ行った。 
Wisconsin のよーな美しさ壮大さはない、いかにも山の大学らしく red stone で壁が固めてある。 
彼のいるところは Education や Psycholgy が一緒にあって、そこの二階で先ず Psychology 関係の人が10人ばかりが集まって映画を見た。 機械が良いので今日はsound は至極上手くいったが、画面はやや暗かった。 質問に答えた後、大学内の cafeteria で cold drink をとって、それからもう一度同じ建物に引き返した。 
今日 Kluckhohn がここへやって来て、この話があるというので入っていった。 30~40人が集まり、Kluckhohn はすでに話を始めていたが、われわれを見て軽く会釈をした。 
その話の後で Smith に聞くと、culture-personality の研究においてもっと biological な面 ―彼はそれを costitution と言っているが― を考えてみる必要がある。 生後24時間で test すると、Floridian、Navaho、Zuni などで、それぞれ reaction が違うと言う例をあげた。 また Navaho の中には遺伝的な personality 面が相当強いことものべた。 
この話がすんだ後、若い人が4~5人質問した。 それからみな居らなくなった後で、日本へ行った事があると言う Economic の先生 ―学生かもしらぬ― が現れ、その人とわれわれの monkey の研究方法について論じた。 畑違いだが理解力のある人だった。 
それから Smith の部屋にもどる。 彼はこの教室の chief になっているのでこの部屋にいるが、本当の部屋は下にあるのだと言った。今日は天気が素晴らしくすがすがしているが、大陸性気候のせいか相当に暑い。 Oneday service に suit を出したので、洗いたてのワイシャツだけで大学へ行った。 Kluckhohn はちゃんと上着を着ていたが、大部分の人は上着なしである。 
ホテルへ送ってもらい、彼の考慮を謝して部屋に帰り、疲れてベッドに横たわっていたら、洋服の洗濯が出来て来た。 これで気にかかることが一つ減った。 
講演原稿の続きを書き、7時半に食事に出る。 ここへ来てから thank you と言われた時、フンフン、と言うのをやっと言えるようになった。 Yes の変わりに yeah と言うのはまだなかなか言えない。 例によってビールを飲み、それから支那料理を食いに行こーと、いう事になって道を訪ねてやっと探し当てたら本日休業だ。 
仕方ないので、戻ったところ、8時過ぎていたので、どこのレストランももう閉めている。 やっと coffee を一軒見つけて、そこでハンバーグを食ったが不味かった。 8時過ぎてもう飯が食えないなんて、なんと不便なところだろー。 ここは山はあるけれど、やはり北部的なアメリカ的な町のよーな印象を受ける。 Denver と違って清潔だが面白みがない。 
夜、よーやく原稿を書き上げる。 月は山の月だ、さすがに良い。 11時半就床。 

・・・・・2月東京ヲ出発以来、コノ調査隊モイヨイヨ最後ノ月ニ入ル。 7月10日 Honolulu ヲ発ツマデ、モウワズカノ旅ノ日数デアル。




以下次回へ        





2011/02/05

AFRICA 1958 (30)


6月27日  朝、下へ降りがけに、もう朝は会えないと思っていたのに、ベッピンさんのエレベーターガールだった。 昨日は夜勤で今まで勤めているのだろーか。 伊谷も乗り、他の乗客もいたが、一番後から降りる工夫をして、彼女に25セント玉を一つ握らすのに成功。 Thankyou という声は実感がこもっていた。 
Taxi で air port へ行き、朝食をとる。 8.25 発 Delta だが、この間のよーな DC7 ではない。 双発の小さな飛行機だ。 
まっすぐ Atlanta へ飛ばないで、海岸沿いに行く。 何という川か知らんが相当大きな川が河口の付近では幾筋にも別れて、海へ注ぎこんでいた。 その間は水が出たところか、泥や砂でなくて、
meadow のよーな緑の草に覆われている。 ここは南部なんだが、なんだかシベリアの北氷洋に面したツンドラ地帯の上を飛んでいるよーだ。 上流の方には黒々と森林が茂っている。 海岸沿いにも森林があった。 それは広葉樹林だった。 川の傍もその type の森林があった。 
川からとおざかると spanish moss の一杯ついた松林になる。 こんな寂しいところでも、所々に家がかたまったところがあった。 
はじめ着陸したのは Brunswick というところだった。 それから、また同じようなところを飛ぶ。 右手は海で曇っていた、時々雲の中へ入る。 海から離れて、Savanna というところに着陸。 あまり Savanna らしくない所だった。 松林ではサバンナの気分は出ない。 
それから Atlanta まで nonstop、雲が切れて Atlanta のある平原の上に出る。 Atlanta 着、11.40ぐらい。 
それから DA へ行って、あす Dallas で泊るのをやめて、Denver まで行けるよーに変えられぬか相談した。 けっきょくFC に乗る事になるから、金を払い込まねばならない。 しかし FC とは何も汽車の一等というよーなものでなくて、つまり急行なんだ。 TC で Dalla - Denver 間が3時間かかる所、FC なら1時間半ぐらいで行ってしまう。 同じころ出て一報は Dallas で泊らねばならないのに対し、一方は Denver に5.30に着いてしまう。 高い値打ちがあるわけだ。 
Air port service の bas に乗って Piedmont Hotell に着く。 通された部屋は9階だが、なかなか豪勢である。 あとで聞いてみると9.25ドル、馬鹿らしいがまあ一晩だけだから泊る事にする。 
外へ出て昼食、ローストビーフサンドウィッチ、それから taxi で Emory University へ。 電柱がないから、両側から道の上へ木が枝をはって涼しい木陰になった下を走る。 Emory へ来て Depart of Anatomy が分からぬ。 車を止めて聞いてみると、すぐ横手の建物だった。 
Tappen は小柄の男だが、しっかりした人物だ。 どーして俺を知っているのかと聞いた、映画は5時からという事にして、ここの教室の bos である Dr.Bourne に紹介された。 大きな部屋に解剖台が幾つも並んでいて、その上に遺体が乗っている。 ガーゼがかけてあるが、もっとも不気味な光景の一つである。 階下に何匹か monkey が飼ってあった。 Rhesus とフィリピンザルだ。 
それから心理にある primat laboratory へ案内された。そこで Dr.Isaac にあった。 Tappen ほど生きいきとしていない。 しかし monkey は綺麗な部屋のきれいな cage に入っていて、ここのは大変おとなしく、一匹も吠えかかる奴はいなかった。 実験装置は説明してもらったが良く分らなかった。 Light と noise の conditioning の研究のよーなもの。 
普通の餌を取る学習実験など、あまり印象的でなかった。 Tatoo をやる機械を見せてもらった。 
Anatomy へ帰って、Film 上映。 Sound がもう一つ上手く入らない。 伊谷に言わせると、いろいろな機械にかけるので、すり減ったのかも知れないと言う。 
それから Tappen は家へ連れて行ってくれた。 すぐ前の電車が一日に何度かとーるけれど、松林を後ろに控えた、こじんまりした住宅だった。 奥さんは Tappen よりも背が高いかも知れない。 声に charming な所がある。 赤ん坊は生後2カ月。 
Carpenter、Spuhler、Tappen とこれで3人の学者のいかにも楽しそ―な、私生活を覗く事が出来た。 ここでウイスキーを2杯よばれて、レストランへ連れて行かれた。 
月が綺麗な夜だ。 そのレストランは非常に流行っていた。 Mammy,s shanty という家で、中へ入ってみると bar もあり、大きな部屋が幾つもあるが、どれも殆んど満員だ。 こんな所がある事は、案内をもたない tourist にはちょっとわからないだろー。  ここで flovuder という魚の grill を食った。 Tappen は salmon の steek を食った。 伊谷は chicken 。 この魚は sole より美味いと思った。 また tea も美味かった。 
それから月の照る中をホテルまで行って、 colour slide を取り、また木の多い道を Tappen の office へ行き、かれもこれで slide を取って来てから、彼の家へ帰った。 
Baby は寝たらしく、奥さんが出て来て、写し役になった。 はじめにわれわれの slide、それから Tappen のサルの slide 、それからアフリカのいろいろな写真を写して見せてくれた。 
Slide はまだまだあったが、あまり遅くなるので12時 前にお暇ごいし、また Tappen に送られてホテルへ帰った。 
彼らや Mason などというところが、その中にいつか leader class になることだろー。 大変研究に熱心で、その意気込みを高く飼うべきだと思った。 視野も広く、他の者のやっている仕事に対しても
curiosity を持っている。 ニホンザルの testis が欲しいと言った。 クロモゾームナンバーを数えるのであろー。  
彼と会えて良かった。 一風呂浴びて寝たのは1時半だった。  

6月28日  朝起きて Coolidge 宛の手紙を書き出す。 
伊谷ネボーしているので、9時半ごろおこし、近所の cafeteria で何か黄色いものの塗ったのを食った。 栄養的なんだろうが、後味が良くない。 変わったものは食わぬ事だ。 
伊谷に Borlder の Smith に電話をかけてもらい、11時過ぎ bas で飛行場へ向う。 Tourist を first class に乗り換えるのに一人宛17.99ドル取られた。 
飯は飛行機の中で出るだろーというので食わずに、1.05 DC7 で nonstop 、Dallas 行き DA に乗る。 この間フィラデルフィアからワシントンまで乗った721というのに乗るのだ。 だからあの時のairgarl ―陽気で、口が大きい、身体が大きく、離着陸の前に歌をアナウンスした(ベッピン)―  airgirl にもう一度会えるかと期待していたけれど、違うスチュワーデスだった。 
食事、はたして出た。 チョコレートをビスケットの上にのせたよーな菓子だけは半分しか食わなかったけれど、あとは殆んど全部食べた。 
飛行機は雲の上にでてしまったので、Missisippi はついに見る事が出来なかった。 
Dallas は Texas の首都である。 Dallas 着2.40、実際は3.40 で2時間半はかかっているのだが、ここで south western 時になるのである。 飛行場は今までのどこよりも壮大で、かつ新しくて、気持が良い。 しかしウロウロしている人間は、こんな広い飛行場にしては、少ないと思った。 星一つのTexas の旗が、アメリカの旗と共に飛行場の入口に立った pole の上で風にはためいていた。 
同じ飛行機に日本人が乗っていて、飛行場へ着くともう一人の日本人が迎えに来ていた。 兄弟で飛行機に乗っていた方は弟で、これから日本へ帰るのだと言った。 兄の方は、もう8年間もこちらにいると言うので英語は達者で、われわれをお上りさん扱いして、親切にイロイロ乗り換えの事を教えてくれた。 
われわれの荷物は、ここで受け取らなくても、そのまま次の飛行機に積み込まれるのである、ことも彼に確かめてもらった。 握手して別れた。 何処にでも日本人はいるのだなと思った。 Atlanta の airport でも数人の日本人に会っている。 
こんどは Braniff Air Line という奴で、こんなのは初めてだ。 Siatlle 行きだった。 どこから来たのか知らぬが、すでに乗客が多くて、満員というところ。 窓側の席を取らずに、少し寝よーと思った。 
この飛行機はあまり高くは飛ばないよーで、下の道路が良く見える。 はじめは耕地だったが、その中に西の方の山が見え出した。 Rocky だ、夕立雲が空を覆っていた。 Colorad へ入ったのだろー、下は何だか西部的な草原があって、ところどころに小さなでこぼこ ― 丘だろー ― があって、その上を何か知らんが灌木が覆っていた。 
Denver に近づき一部には pine forest が見られる。 左に見えるのが Pikes Peak だと pirot からのアナウンスがあった。 
Denber に着くと、prof.Smith が奥さんと男の子を連れて迎いに来てくれていた。 感謝する。 
Norman からの手紙を見せたところ、New Mexico へ行けば40ドルぐらい出すのだろーと言うので、早速飛行機の route 変更を Conthinental Air Line という、これも今まで乗った事のない飛行機だが、そこの desk へ行って交渉した。 結局 firstclass でアボガケ経由ロスに行くのに、16ドルなにがしの払い込みして、すれば良い事が分かった。 アボガケからは TWA だが、これを tourist すれば、安くてすむよーであるにもかかわらず、かえって高くなるのである。 何の事か良く分らない。 
Smith 一家を大変待たしてすまなかったけれど、これで fix した。 あと Denver で支那料理でも日本料理でもと言うのだが、フラウは日本料理を考えているらしく、「サラシナ」と言う down town のあまり金持ちのいない、メキシコ人などの貧乏人が沢山住んでいる所で開業しているサラシナと言う日本料理店へ行った。 
そこまでゆく間に Denver の公園を通ーたが、大きな池があって duck やなんかが泳ぎ、 綺麗な芝には elm の大木が植わっていて、山というよりも northen という感じがする。 
Smith 夫人より支那語も日本語もかつて勉強したことがあると言った。 大の日本通で、料理にキッコウマンを使っていると言うと、出て来たキャベツの漬物、大喜びで食った。 いろいろと日本の事を聞いた。 話している中に足袋まで知っているのには驚いた。 それから明日は fishing というので、その licence をとりに、釣道具などを売っている、sporting shop へ立ち寄った。 Licence ははじめは10ドルと聞いて高いなと思ったが3.5ドルですんだ。 自動車の licence を持っていたら、もっと安くなるらしい。 New York の動物園でも自動車で来た者の方が一般人より安かった。 
そこから Borlder まで drive 。 月が出ているらしい、それに夜気が山の冷気を伝えて、いかにも refreshing である。 
Borlder のホテルも Smith が探してくれた。 下宿屋のよーな、むさ苦しいホテルだが5ドルあまりで、bath 付きの部屋があり、何よりも大きなホテルのよーに気が張らないで有難い。 
Smith に別れ、bath に入って日記をつけるのを明日にまわして、寝た。 12時前だった。 




以下次回へ  




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