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2011年3月

2011/03/27

AFRICA 1958 (35)

7月6日  9時過ぎまで寝ていた。 日曜か bath の湯がぬるい。 荷物の整理をし、日記をつけている。 伊谷が誘いに来た。 
朝食過ぎで、昼は fisherman's grott にした。 時計が止まっていたので、もう1時半だった。 
Crab を注文した。 一匹食ったら腹一杯になるまえは、まるでお伊勢さんか天の橋立かと言うところで、今食ったカニも表の屋台店で売っている、がざみの親方のよーな奴だ。 あいつを買って食ったら味噌があってさぞかし美味いだろーが、こっちの人は味噌を捨ててしまうから駄目だ。 
朝は曇っていたが、今は良く晴れて涼しくすがすがしい。 ブラブラ歩いていたら asian の学生ばかりで base boll をしている。 
ホテルへ帰り週刊朝日を読む。 西堀、無声対談が出ている。 手紙を ―Bsumgartel 宛― 書き出す。 
8時半、別府氏誘いに来たり。  Freeway の長い橋をわたってBarkeiey に行く。 この橋二重になっていて、下の方は bus や track が通ーるのだと。 
Devos 氏のところへ Norbeck 氏も来ていて、魚釣りの話から宗教の話までいろいろ飛びだした。 Devos 夫人は三人も四人も子供があるにしては若い。 Norbeck 夫人も Devos 夫人も話に加わる。 大学の先生の奥さんともなれば日本人と違い、なかなか intelli である。 
12時前に辞し、もう一度 fishman's grott に寄る。 See Bass を取った。 ―昼とろーと思っていた― しかし Crab に劣ること数段、昼の所と違って階下の大衆席だったが値段は変わらなかった。 隣りの box には日本人が来ていた。 二階から黒人のベッピンさんが、素晴らしい洋装で下りて来た。 
外へ出ると流石の fisherman's grott も人気が少ない。 もう1時半だからである。 ホテルまで別府氏に送ってもらい、 ただちに bed にもぐり込んだ。

7月7日  午前中、Baumgartel 宛手紙を書く。 
11時別府氏来たり。 Barkley へ行く、例の長い橋を渡って。 ちょーど12時大学につき、Norbeck 氏を訪ねた。 Devos 氏も現れ、一緒に昼食、終わって人類学教室でslide を やった。 学生いまはおらづ。 Devos、Befn、Dlotonicor の三氏のみ。 
それから Befn 氏の案内で学内の購買組合のよーなところで、book case を書を買う。 荷物を減らすためである。 
その二階で tea を飲む。 よく晴れていて気持が良い。 何度も言うようだが、これが7月だとは思えぬ。 
人類学の museum を見に行ったが、新築の museum へ移転のため陳列も取り片付けて、整然としていた。 そこに今村という日本人が働いていた。 正門をくぐって町へ出た。 
本屋を2軒だずねた、 Richards の 'The Tropical Rain Forest' があったけれど14ドルでちょっと高すぎたので、金が余ったら日本から注文することにして、他の本を買った。 Evolution の本である。 それから今日招待されている多田さんの apart へ行く。 御主人はここの建築を出て、今は働いている。 Los の Hotel の設計を引き受けていると言う事だった。 
ビフテキを出されたが、これは coffee shop の鉄板の上で焼いたテキと違って、本物のビフテキだったから大へん美味しかった。 
他に3~4人の男一人女三人の客が集まり、伊谷の説明で slide をやった。 多田夫人は sociology をやっていると言うが、みなさんどこまで理解出来たか知らない。 
また別府氏にホテルまで送ってもらい、ここで別府氏に厚く感謝して別れる。 明日は Devos 氏の車が借りられないからである。

7月8日  午前中は手紙を書いていた。  Prof、Emlen 宛の手紙を書いた。 書き終わったのは2時近かった。 
荷物を front まで出しておいて、飯を食いに行ったが、日本料理屋の Yamato はもう昼休みの時間だと言って断わられたので、なるだけ汚そうな店を選んで支那料理を食うことにした。 Duck を食った、ヤーズに何か■汁をかけたよーなものだ。 
それから air terminal まで歩いて、bus の出る時間を確かめたうえ、出国手続きをしに行く。 坂を上り、坂を下った 
San Fransisco の町は良く知らぬと、こんな所で損をする。 手続きは至極簡単にすんだ。 
伊谷は土産物を買いに行き、僕は別れて北米毎日に清水氏を訪ねたが、もう家へ帰った後だった。 そこに入歯カタカタいわせた老人が一人いた。 もう20年以上もこちらにいると言う。 独身者だそーである。 しかし病気の時など世話をしてくれる者がいないので、やっぱり日本に帰りたいと言った。 
黒人は悪い、戦後日本人めあての hold up を盛んにやった、黒人は不衛生きわまる、とにかく黒人が嫌いらしい。 この人どーもだいぶ偏屈らしい。 
伊谷が来たので、そこを出て、もと白人の街だったが、いまは黒人の街になっている所を通ーって行く。 黒人は何となく怠けてブラブラしているよーに見える。 
黒人が悪いと言ったって、誰が奴隷にしたのだ。 誰も奴隷なんかに好き好んでなった者はなかったであろー。  
Golden gate paek 行きの bus に乗る。 その終点は海に面していて、そこにパチンコ屋はじめいろいろな game をやる店がいっぱい並んでいた。 
もう海から fog が上がって来ていて、うすら寒い。しかし面白い、日本にない game が多いので、名鉄事業部の為に一応見学する。 いろいろあったが、もうラジオの時代でこんな機械の残っている物は殆んどないと言う事だった。 発明家のために悲しむべき事であった。 10セント入れて覗くとヌード写真が覗きに10枚出てくると言うのもあった。 メリーゴーランドはいかにも無邪気で楽しそーだった。 
昼が遅くてまだ腹がへらぬので、bus に乗ってしばらく行ってから降り、bus の通り路の右側にある Golden gate park に入る。 所々にベンチが置いてあった。 Parkには最初の頃植えたものらしいユーカリの大木が所どころにあり、松が多かった。 もちろん Sequoia もあった。 
もうどこもかも霞に閉ざされていて高山の上に来ているよーな気がする。 一つには寒いからそー思うのだろー。さっきの Bus に乗っていた女達は大てい冬オーバーを着ていた。 カワウソの襟のついたのを着ているのさえあった。 
しかし park へ車で乗りつけて、そこの芝生で子供に模型飛行機を飛ばさしているオバチャンや子供とキャッチボールしている頭の禿げたオッサンもいた。 車はひっきりなしに通るが、歩いている人はいない。 歩いていたら一日がけの公園だ。 
到る所にウサギの子供がうずくまっている。 犬を連れて来て、それを追わせているアホーがいる。 あまり興味のない話だ、しかし犬がおとなしくて bush のなかまで追おうとしないのが愛嬌である。 
よい加減歩き疲れたので、博物館らしいものを右に見て歩道へ出、また bus に乗って Market st. までのり、そこからホテルの前まで歩いて帰った。 公園であんなに毎日霧が降るのに、やはり到る所でsprinkler を使っていた。 
ホテルの bar で例によって Bud を飲んだうえ Yamato へ行って、bass の刺身と豆腐と天丼で日本酒を3本飲んだ。 Bass の刺身はグチの刺身のよーにツルツルしていて、ちょっといけた。 
ホテルの前に taxi がいたので、それに荷物を摘んで air port へ走らす。 とちゅうで pank して、他の通りがかりの bus に乗継、(パンクしたtaxi に2ドル、後から来た bus に3ドル払って) airport 着、Pan American は満員だった。




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2011/03/20

AFRICA 1958 (34)

7月4日 7時過ぎに起きた。 昨夜は良く寝られた。 
Shower を浴びて日記をつけ、朝食は下の coffee shop ですます。Taxi で air port へ、Chicago と同じくらいかかった。 10ドルだったから。 
さて、UA へ荷物を持ち込んだところ reserve してないと言う。 Flight No 527 と言うのは午後4時に出る飛行機なんだ。 日航の人が思い違いしたんだ。 しかも start 10.30 と記入してある。 
そしたら stand by と言うので、空席があったら乗れるし、なければ乗れないと言うことになった。 別府氏に電話をかけに伊谷に行ってもらったが通じない。 Gate で待っていたら、乗ってもよろしいと言うことになった。 気をもませやがい。 
空は曇っていた。 飛行機はすぐその雲を破ってその上に出た。 入道雲の乱立する荒れ海でなくて、真綿のよーな白い雲が波も立てずに静かに広がっていて、思わず綺麗だと叫んだ。 遠山のみはその雲の上にでている。 
この雲海は Los の上だけで15分も飛んだら雲が切れた。 下に見える景色は、日本のよーな、せせこましい山の連続だ。 谷間を埋めている木は広葉樹らしいが、何か良くわからぬ。 針葉樹ではない。 山頂部の黄色っぽい部分は草に覆われているのだろー。 遠い山は少しもやで霞んでいる。 これはまるで、のどかな春の景色じゃないか。 どうしてこれが夏だと思えるだろー。 
11.20、ちょーど半分来たころに、右手に雲か雪かわからぬ物を認めた。 良く見ていたら雪ではないか。 Sierra Nevoda の最高峰 Whitneyはちょーど、あの方角にあたっている。 その北にもずーっと雪のおびただしくついた連山が続いていた。 Sierra Nevoda を見直した。 黄色い未開墾地が相当広がっている。 
11.50 ようやくちょっとした town を下に見る。 もちろん周囲に耕地がある。 果樹が綺麗に植わっている。 やがて fasten the belt が出て、飛行機は海の上に出た。 
長い長い橋が架かっていて、その上を車が走っている。 山沿いに家が建ち並んでいる。 海を越え終わった所が San Francisco の airport だった。 
別府氏が迎いに来てくれた。 Devos さんの車を借りて来たという。 なんと清々しい天気だろーか。 Air port から down town まで、ここも随分遠い。 New York や Chicago、Los と違って、低い丘陵を取り込んだ町でちょっと趣がある。 家が何となく白っぽい、木は少ない。 Chinatown をとーる。 ホテルは Chinatown のすぐ近くだったので、部屋に荷物を置いて、支那飯を食いに行った。 2時半ホテルへ戻り、午後は休養。 
3時過ぎから4時までちょっと寝た。 起きて洗濯をしよーとしているところへ、別府氏が魚釣りに詳しいという学生を連れて来た。 ちょーど bath から上がったところなので、隣の伊谷の部屋で待ってもらう。 道具を見せ釣の話をした後、bar で一杯ひっかけて港の方へ行く。 日本の商船も一艘ついていた。 
Fisherman's shop とか Fisherman's Grott に並んで Tokyo sukiyaki がある。 なかなか大した構えだ。 綺麗な Japanesegirl が和服で survice している。 スキヤキの肉は結構美味かった。 給仕に来た女の子は台湾生まれだと言ったが、日本女の言葉を聞いたら全くほろりとして来る。 せめてほっぺたにキッスをしてやりたいよーな気持になる。 お値段は相当高く一人前4ドル位についたか。 もうここまで来たら安心しても良いと、会計の方の赤信号を下ろしているので、気持よく食い飲んだ。 
今日は休みで桑港の町も人通りが少ない。 ホテルに帰り11時に就床、しかし夜どーし車の騒音を耳にした。

7月5日  San Francisco も朝夕は靄が高い建物の上にかかる。 ちょっと New York を思い出させる。 
8時半 Bepu 氏来り、下の coffee shop で朝食。 日本人と覚しきものが何人もいる。 
靄が上がった San Fransisco の町を drive して行く。 Park を抜けて州立大学 ―但し Burkley ではない― の横をとーり、海岸へ出た。 San Fransisco の建物はどれもこれも白っぽい。 やっぱり大きな町だ。 住宅街は平屋建てが多かった。 
海岸沿いの道は道幅が狭い。 空は曇っている。 所々に砂浜がひらけて、そこには Trailer や camp があり、海岸に竿を持って魚を釣っているものが何人かいた。 
11.40 San Fransisco より 74 mile の Santa Cruz へ来た、2時間ほどここまでかかっている。 チョッとした town、 それから次の Monterey まで41 mile ある。 目的地の Big Sur はそこから更に28 mile 。 Santa Cruz を過ぎると道が良くなり、次に Watsanville という town あり、腹がへってきたが、Monterey まで行く事にする。 
この頃より空晴れ出して来た。 町はずれの sport house で worm(ミミズ)を買った。 75 sent 取られた。 この辺はイチゴを栽培している。 収獲期になると、メキシコから季節労働者が沢山やってくるそーだ。 その連中が泊る家がある。みすぼらしいがあれで、ちゃんとシャワーまで付いているそうーだ。1時間1ドル03 で週30時間の労働、アメリカ人だともっと高く払わねばならない。 日本人も働きに来るそーだ。 
季節がすめばまたトラックに乗せて、馬か牛のように運び去ってしまうそーだ。彼らは自分で自動車の運転は出来ないそーだ。 許されていないのである。 
やがて道が右折して Army の練兵場の横をとーる。 部隊へ入ると、まずここへ8週間ぶち込まれるそーだ。 Monterey が見えてきた、木の繁った丘を控えて、良い港町だ。 明るい南国的な港町でここには陸軍の他、海軍の学校や office もあり、特にここは軍の外国語学校があるので有名だと聞いた。 
途中で Ginza という大きな看板を見つけたので、とにかくそこの店へ行って釣った魚を天ぷらにしてもらおーと思い、やっと見つけた家は入口が日本流の板塀に、格子戸という凝り方。 中へ入っても中々高級な店である。 
オヤジは臼井書房のオヤジを悪にしたよーな、ちょっと好かない奴で、われわれの風采が良くないのを見て、胡散臭そーな顔をしている。 釣って来た魚を天ぷらにしてくれるかと尋ねると、この店ではそんな事はした事がない。 うちにも Trout も Salmon もあるが、なんか言う。
それで結局もう一軒、東京という店を教わり、そこへ行った。 
そこも目抜きの大通りからは、外れていたが、見かけよりも中はちゃんとしていた。 日本人らしいのが一人丼をとって食べていた。そこの給仕さん、なかなか愛想が良い。 マグロの刺身と味噌汁でとにかく昼飯ををすました。 もう2時近い、それからまた drive 、低い峠を越えてまた海岸へ出る。 
海岸に迫った山のたたずまいが、だいぶ大きくなってきた。景色が雄大になって来た。 
朝と違って日の照っているせいもある。 Creek が山から入ってくる、その上に高く bridge が架けてある。 ついに Big Sun 、なるほどこのdry な Calihornia にも関わらず、ここには大きな、綺麗な川が流れている。 3人の大の男釣竿を持って歩いている。 Sequoia の大木が眼につくよーになって来た。 State park の入口までに、すでに lodge か inn か知らぬが幾つも建っている。 Park の入口で金を払う、確か1ドルだった。 
それからはいって行くとcamp 村だ。 いるわいるわ連休なんだろー、とにかく車で行ける所まで行った。 
そして川の様子を見てみる。 良い川だが、至る所で釣っている。それも太公望的なのんびりした姿を見かけた釣り方で、日本ならばドンバイ釣の要領である。 ついに断念して、逆のつまり対岸の道を行く事にする。 シカが子供を連れて歩いている、リスもいる、よい所ではあるが、人が多すぎる。 Colorado の方がまだ少なかった。 
対岸の道を奥まで飛ばした。 魚は4~5日前に放したと言っているから、いるであろー。 対岸も camp はやはりしているが、もうここが行き止まりだから、ここでやるよりほかはない。 
仕掛けをして、高いゆるい瀧で試した。 一匹かかったがつり落とし。 餌はミミズ、アメリカ産の赤ミミズだ。 それから少し上に登ると、大きな岩が現れ、大きな淵や瀧が出てくる。 2~3人釣っている。 やってみたけれど魚は出ない。 
最後の所まで行き、毛バリを試して見たが出ない。 ここが道の最後で、もう上にはあまり人も上がっていないだろー、魚は断念して下る。 
しかし流れといい、彼の山といい、青い空といい、全く気持良かった。 別府、伊谷ははじめの所で待っていた。 
そこでもう一度試してみる。 対岸の流れのゆるそ―な所をねらって一匹ひっかけた、4寸位の奴だ。 しかしこいつも釣おとした。 ここに放しているのは rainbow だと言うから、rainbow なら、そーきつい流れにはいないかもかもしれない。 むしろ下流の方が良かったかも知れないが camp から流れてくる水に住んでいるよーな魚は釣りたくない。 スコンクだが仕方がない。 
6時過ぎ帰路に就く。 釣っていた時間は正味2時間ぐらい、帰りに少年が一匹釣ってぶら下げて歩いているのに出会った。 Park を出て海岸沿いになる。 
もう海の方からガスが漂ってきている、ガスが太陽を隠して暗くなった。 Monterey へは行きの道でなく、17 mile drive という海岸沿いの道をとーった。 この辺りは別荘地だそーである。 松の木が生えていて日本の海岸を思い出させる所もある。 途中にbird rock と seal rock と言うのがあった。 取りの糞で白くなった岩に何鳥か知らぬが大きな鳥が沢山止まっていた。 Seal は良くわからなかった。 
Monterey の住宅街にはいる、いったいこんな住宅にどこに勤めている人が住んでいるのだろーか、こんなにたくさんの住宅があってと思った。 やっと町へ入り昼飯を食った。 
東京へ行った。 昨日軍艦が入ったのでどの bar にも水兵が来ている。 天丼をとったが、割合に美味かった。 Bepu 氏はここの女給はきっと戦争花嫁だと言った。 どこで分からぬのか知らぬ。 
とにかく愛想良くしてくれたが、その態度には水商売をしていた女といったところが、どことなく臭い、それがかえって魅力なのである。 あまりゆっくりしておられぬので、ここを出る。 
8時頃だ、よーやく暗くなってくる。 今日そのままで川へ入ったので足が濡れており、うすら寒い、しかし帰るまでには乾くことだろー。 
Santa Cruz まで行かづに海岸を離れ直接 Sisco へ出る free way を走った。 ダンダン行き交う車の数が増えてくる。 もうずず繋ぎだ、こちら側にもおそらくそうなんだろー、大へん綺麗である。 San Fransisco はまだ遠いんだが、それの outskirt だろー。 Light が一杯きらついている。 やがて San Fransisco Bay が右手に現われ、行きと違ってair drome の横手へきた。 だから outskirt の火の沢山きらめいた辺りから都心までゆーに1時間はかかる。 Freewayを行けばそのままあの他界 bridge をとーって Barkley の方へ行けるそーだが、 Freeway を外して11時前ホテルに帰って来た。 
別府氏も疲れ、また車が少し調子が悪いと言うので明日は休日とすることにし、bath に入って、日記もつけずに、すぐ bed にもぐり込んだ。  




以下次回へ  






2011/03/10

AFRICA 1958 (33)

・・・つづき  川の縁には耕地が出来ていた。 それから砂漠は続いた。 California と言ってもやはり砂漠的で、ある点ではアリゾナと変わらぬ。 
砂漠の中で真っ直ぐに、また延々と続いた道が、砂漠の中で消えてしまっている。 Congo では森林の中で、行き詰まりになっている道があった。 何のためにつけた道だろーか、とにかくこんな道でも道がついているのが感心で、この道はおそらく自動車で走る道なのだろー。 そこがアメリカ的である。 
山にかかって来た、7.05 内陸流域と太平洋沿岸の外洋流域とを分かつ山脈の上を越える。 そこまで海の方から靄か雲か霞か何か知らぬが gas 状のものが押し寄せてきていた。 すぐ近くにまだ雪をいただいている山が一つだけ見えた。 
この divide を越したら、とたんに森林に山の斜面が覆われている。やがてガスの下に耕地が見え、またその間に沢山の工場のよーなものが見えてくる。 てっぺんに平面が残っていて、そこは水の関係か、森林に覆われていないが、斜面は全部森に覆われている。 こんなの今までに見た事がない。 低地はいろいろ耕地化が進み、人家もとても多くなってきた。 しかし山は再び禿山になってきた。木が植えてある、何の木だろうか。 
まもなく fasten the belt の電燈がつく。 もう Los の上を上を飛んでいる。 大きな町だ、だだっ広い町だが、その一画に skycreeper が見られるが、あとはただ平面的に広がった町だ。 
飛行場に着く、 TWA の飛行機が特に沢山いる、 ここは TWA の根拠地か。 町へ行くバスを待ち、その terminal に当たるホテルから、さらにhire で Alexander Hotel へ着いたのはもう8時だった。(飛行場7.26) さっそく天理の Yoshida さんに電話をしたところ、いや~お迎いに行って、いま戻ったところですと言われ恐縮した。Shwerを浴び、町へ出掛ける。 
ところでこの町、ぐるぐる歩いたけれど ber がない。 歩いていると日本人みたいなのが何人かいた。 また黒人の眼の綺麗な女が一人映画館の前で立っていたが、あの眼もうこれが見納めかもしれない。 もっと良く見たかったけれど、beerが飲みたいので、ちらと見ただけで通りすぎた。 
しかしどこも bar の看板をかけた店がないので、またホテルに舞い戻り、ホテルの bar で Bud で、太平洋岸までついにわれわれの旅も到達したことを祝して盃をあげた。 
ここでも男と女がじゃれてキスしている。 不愉快ではないが、なんとなく収まらない気持である。 しかし Denver 以来、日本人が多くなったかも知らぬが、それに増してスペイン系の人間が多くなっていることだろー。 歴史の然らしめるところである。 黒人は東から、スペインは西から入って来たのだから。 しかしその頃、どーしてあの砂漠ばかりのところを、Indianと戦い、たぶらかしながら、 スペイン人は広がっていったことだろー。 いまのスペインを思うと -気力の点からも― 不思議なよーな気がする。 
しかしあんなところ、やはり飛行機で一気に飛んでは情ない気がする。 ここまで来てしまったら、もう何もかもおしまいだ。 Los なんてちっともわれわれの血をわかすものがないじゃないか。 こんな所にいる女なんか、なんだ西部活劇に出て来るよーな女でなければ、やはり話せないのじゃないか。 12時50分、寝る。

7月3日  8時まえ吉田さんが電話、下に来ていると言うので下りて行く。 真新しい自動車で迎いにこられた。 流石にアメリカ天理教の支部長である。 運転は長男がやっておられる。 
お宅へ行く、まず礼拝堂、事務所で別府氏の手紙を受け取る。 それから集会室、図書館を見せてもらって、お宅に上がる。 
日本庭園がつくってある。 朝食は残念ながら洋食だったが、メロンが美味かった。 庭にレモンが実り、モモが実っているところも Californiaだ。 
お子さん7人、奥さんはさわりの柔らかい京都人で、子供さんもその感化を受けて、みなのんびりしている。 7人のうち2男、 下から2人(女の子と男の子)がSan Diago へついて行くという。 小さな眼をした、見るからに日本人という子だ。 長男は日本語がよく喋れない、下の子はいま日本語学校へ行っているから喋れると言うが、それでもあまりよく喋らない。 こんな家庭では困らないだろうか。 吉田さんは20年以上こちらにいると言う。 
9時半出発、今日は昨日と違って、からりと晴れ、すがすがしい。夏の加州は雨らしいものが降らず毎日こんな天気だと言う。 間もなく freewayに出る。 両側住宅が立ち並んでいる。 もとはみな orange 畑だと言う。 ところどころにユウカリの林がある。 
Los Angeles を出てしまうと丘陵地帯にかかる。 草が黄色く枯れている。 西海岸気候で冬に雨が降ったのち、春先に一度青々するそーだ、夏枯れである。 
いま道を拡張中だ、丘陵を越えた。 ちょっとした town に old mission がある。 Spain が南から北上して来る時、その先頭にたってmission が Indian を教化して行ったのだと。 
道はまた freeway となり、やがて海岸沿いになる。 いよいよ太平洋だ、この海を一つ越えれば日本だ。 われわれ世界一周の旅も、いよいよここまで来たかと感が深い。 
San Clements、Ocean Side というよーな town をとーる。 もう2時間程走った。 この辺は海水浴場らしい、海岸にクルマやtrailor が並んでいて、紐に濡れものの干してある風景は日本と変わらぬ。 Carlsbad という town を過ぎると、湾をへだてて、もうSan Diago の町が低い丘の斜面に見える。 これももちろん Spain 人がもとは造ったものだろー。 
ちょーど3時間に San Diago 着。 ここの天理教のオバチャンは baly coffee shop という看板のちっぽけな店を開いている。 Seatrout のフライを一人前40セントで食わす。 水鳥などが良く来ると言う。 
オバチャンの家へ行って、ここで皆オシッコをし、ビールを一杯よばれた後、町角にある支那料理屋へ行った。 Sea weed のスープは美味しかった。 となりのtable に男一人、女2人、子供、maid のよーな、山村の娘のよーな顔をした女とゆう。 こちらに劣らぬ大部隊が現れた。 男の顔を見ると支那人のよーだが、女の顔は日本人だ。 吉田さんに聞くとそれでも支那人だと言う。 女2人というのはpolygamy なんだろーか。
それから別府氏が魚釣りは licence はこちらでと言って来たので sport house へ行って licence をつくってもらった。 Denverよりも高く5ドルとられた。 
案内のおばちゃん ―彼女は1人暮らしなんだろーか、いかにも天理教といった臭気プンプンのオバチャンだ、吉田さんの奥さんは天理臭さがない― を下ろして、zooへゆく。
Zoo は丘の上にあった。 とても広いからバスに乗ろうというので、みなバスに乗った。 一巡した後、monkey and apes のところをもう一度詳しく見る。 
Siamang がいた、chimp は1つ檻に♂1、♀3で、その中の♀は baby を連れていた。 Gollira は Lowland で3匹、大きいのが10才位か。 Spidermonkey が沢山いた。 ♀の尻からぶら下がっているもの、どーも分からない。 Gollira も毛深くて♂♀を見分けるのが難しい。 
ハ虫類檻に入る。 50種類も集まっていただろーか。 冬でも暖房しないらしくて良いのだから、蛇どももここなら住みやすいだろー。 Mouse が食わずに転がっていたり、抜け殻が脱ぎ捨ててあったりしたcage もあった。 それから children's zoo へ行ったが、時間切れで、見るわけにはゆかなかった。 
5時帰路につく。 20マイルも走った所で、先がつかえて車が徐行しかできなくなった。 先を見ると延々と車がならんでいる。 200台ではきかぬかもしれぬ。 大したものだ、やっと動き出す。 海の上に夕日がきらめきとても綺麗だ。 
晩飯はをちょっと変わった所で食べて帰ろーと言われ、Freeway を離れて、変な日本なら神社というよーな木の繁った一画へ入る。 人がゾロゾロしている。 Parkでもない Desney Land よりも古くからある遊園地なんだ。 
西部開拓時代のものを真似た建物がならんでいる。 幌馬車をぐるりと並べて円陣をつくり、その中で焚火して camp した所もある。ここに chickendinner restaurant と言うのがある。 良く流行っている。 われわれの入った部屋は子供連れのくる部屋とみえ、子供連れの大部隊が一杯入っている。 
Chicken フライとマッシュドポテトは美味かった。 一番はじめにルバーブの酢のもの食わしたのはちょっと変わっていた。 カラコラムの Biafoglacier を思い出す。 
そこを出て、人のブラブラしているところをぬけて行く。 もう日は暮れ、建物に火がついている。 平原児に出て来るよーな男がテーブルを囲んでトランプをしているところなど、なかなか巧みにつくってある。 砂金を水車をつかってとるところもある。 その頃の汽車の模型を作り、それが汽笛をならして、ほんとーに走って行くのには驚いた。 
また西部姿の男女がいる、これは雇われているのだ。 例の幌馬車で囲んだ camp 場に本当の camp fire が焚かれ、そしてそんな服装をした男女がcamp song を歌った。 なかなか大した資金がいることだ。 名鉄さんでは真似できんだろー。 アメリカはこれだから西部劇がいまだにもてるのだと思った。 
吉田さんの家に帰ったのは10時半だった。 朝会わなかった長女が居られた。 みな良いお嬢さんだ。 
ここでビールをよばれて、12時近くまで話した。 あまり遅くなったので、おいとまする。 
長男が居らず、吉田さん夫妻が送って下さる。 Hollywood はどこですかと聞いたら、20マイル程離れているらしい。 しかし案内しましょうと言われ、夜のHollywood を drive した。 撮影所は今はもっと郊外へ移っているそーだが、映画で出来た町だ。 いまでは Los Angels と一続きになっている。 
こんなに遅いのに free way の上を車が一杯走っている。 明日の休みをひかえて夜遊びしているのか、 Hollywood もそれでも遅いので火がだいぶ消えていた。 
ホテルに帰り、バスを浴びないで、すぐベッドにもぐり込んだ。 1時半だったろーか。  




以下次回へ  



                

                                                         

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