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2011年6月

2011/06/15

AFRICA 1958 (38)

前回につづいて今回は、 『中央公論』1992年八月号 中央公論社刊 初出、梅棹忠夫が 「ひとつの時代のおわり -今西錦司追悼」 を書かれている。 
今西先生が逝去なされた翌日原稿依頼を受け、2日間の口述筆記で仕上げられた原稿と記されている。 今西先生にたいし最後のけじめをしるされておられるような文章であった。
その内容は十一の項目で語られている、その中のいく項目かをあげみたい。 

― 登山家が博士に ―   
「・・・今西は京都帝国大学理学部動物学教室で理学博士の学位をえたが、出身は農学部農林生物学科昆虫教室である。
かれが理学部で動物学を専攻せずに、農学部で昆虫学を専攻したことには理由がある。理学部の動物学教室では夏やすみに臨海実習が義務づけられていた。農学部の農林生物学科にはそれがなかった。今西はこの理由から農学部をえらんだのである。
今西は少年時代から山に登っていた。第三高等学校にはいり、そこで山岳部を創設した。三高時代に、すでにさかんになりつつあった学生登山界のかがやける星であった。薬師岳の金作谷の初下降や、南アルプスの北岳バットレス、劔岳の源次郎尾根や三ノ窓のチンネの初登攀などかずかずの偉業をなしとげていた。
当時、すでに未登攀の岩峰や岩壁は数がすくなくなってきていた。学生登山界は、そののこされた栄光をねらって猛烈な競争の時代にはいっていた。臨海実習などで時間を空費することはできない。
こうしてかれは、夏やすみになるとすぐに行動にうつれる農学部をえらんだのである。
大學卒業後は理学部の動物学教室に移籍して、そこでながく無給講師をつとめた。
京都大学には伝統的に山学部はなく、旅行部と称していた。その名まえのあたえる印象とはちがって、京大旅行部は先鋭なアルピニズムのクラブだった。そして、今西はそのリーダーだった。
今西は、1931年に京都大学学士山学会(AACK)を創立して、以後終生そのリーダーだった。今西は京都大学理学部で川村多実二教授のもとで動物生態学の研究にはげんでいたが、動物学者であるよりまえに、登山家としての名声を確立していたのである。
かれが「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学博士の学位をえたときに、新聞は「登山家が博士に」と報じた。なにかありえないことがおこったような報道ぶりであった。また、ある新聞は「今西氏が博士に」と報じた。
これも意外性の表明であろうが、科学者今西に対しては、まことに失礼な報道といわなければなるまい。・・・」   
  ~とある。 山に対する今西先生の姿勢が透明感のある表現で語られている。 「AFRICA 1958」 の旅でも、アフリカではメルー(4565m)、ムハブラ(4127m)、ルエンゾリ(5111m)の三山に挑んでいる。 山の主体化もパイオニアワークの生命の源のひとつなのだろうか。 
ルエンゾリでは下山後に、再びエンテベのウイルス研究所を訪ねてる。 ここはウガンダに入った時、滞在したところだ。 この研究所にはサルが沢山飼われているという情報を得て訪ねたところだ。 ここにサル担当のDr.Haddow というさっぱりした男がいて、いろいろな説明をしてくれた。 彼の書庫には、モンキーセンターにあるものと同じ本があったが、手垢で汚れているのを見て、かなりの人物と思っている、再会を約した。 
その男がじつはルエンゾリでは大した山男だと、ルエンゾリの山小屋にあった資料でわかったのである。 初対面の時には山の話はなかったのだが、 何とルエンゾリ山塊では4つもの初登頂をしている山男だった。当時、英国統治のこの国だが、来ている役人は、年若く、博物学の造詣が深く、みな親切な山男で落ち着いたよい男たちで感心したとある。 

― 行動する読書人 ―   
「自分の目でみて、自分の頭でかんがえよ、というのが今西の青年たちに対する指導方針であった。しかし、今西は先学の学説や業績を軽んじていたわけでは毛頭ない。わたしたち若者に対しても、きびしい読書指導が行われた。しばしば「これをよめ」とぶあつい洋書をわたされた。それをよみあげると、その内容についての問答がつづく。それをほんとうに理解しているかどうかが、ためされるのである。わたしはこうして生態学、ないしはそれに関連する学問の諸領域について、たくさんのものをよまされた。
今西自信はたいへんな読書家であった。山と探検が表面にたつので、今西は「行動のひと」とみられがちで、書斎の読書人というイメージからはとおいが、じっさいは幅ひろい読書の経験をもつすぐれた知識人であった.。専門書はもちろんのこと、哲学や社会科学の書物をひじょうによくよんでいた。
探検隊の行動中においても、かれは読書をかかさなかった。
・・・ 読書の幅のひろさや、量のおおさもさることながら、わたしがいつも感嘆していたのはその読解力である。その読みのふかさと正確な理解力には驚嘆させられた。日本語ばかりでなく、英語の読解力もたいしたものだった。口頭での英会話はじょうずとはおもえなかったが、読書力はすばらしいものであったとおもう。生態学はもちろん進化論の古典にいたるまで、きっちりこなしていた。
自然科学者には、文献とくに理論的な書物については、あまりよくよめないまま表面的な理解にながれているひとがしばしばみられるが、今西はそういうことがまったくなかった。
今西の強靭な思索力は、ひとつにはその読書からくるものとおもわれる。
わたしは今西が理学部の自室で黙々と読書をしている姿をおもいだす。あるとき、大部の本をつみあげてよんでいるので、なんだろうとのぞいてみると、それはトインビーの『歴史の研究』の原本であった。それはこの書物がでてから、あまり日がたっていないころであった。わたしはその時期に、この10巻にものぼる大部の本の原書を読破ひとをほかにしらない。・・・」 
  ~引用が長くなってしまったが、このアフリカの旅でもまったくその通りであった。 資料の少ない日本から現地に到着すると、文献、レポート、本を手にいれ、足りぬものは研究所や個人から借り出している。 
日中の行動が終えてから、夜遅くまでそれを読破してゆくのである。 先生のあの貪欲な食欲は、からだを動かすばかりでなく、本を読むエネルギーにもだいぶまわされているのではないかと、おもわれた。 
そしてそれはゴリラばかりでなく、山に向う時にも、人からの情報はもとより資料文献は確実にこなしている。 ひとつの事に当たる時の情報の深さ、用意は周到である。 
昼間でも、ほっと時間があくと「History of east Africa」 や Grzimek を読んでいる。

― 組織者 ―    
「・・・このように今西が京都大学教授となったのは、定年もちかづいてからのことであるが、それにもかかわらず、京都大学内部おける今西の組織者としての活動ぶりにはおどろくべきものがあった。1931年には京都大学学士山岳会を組織している。この団体はのちに社団法人となり、多数の名登山家を世におくりだして登山界の名門となった。1939年には京都探検地理学会を組織して、おおくの探検家を海外におくりだすと同時に、わかい探検家たちの育成指導をおこなった。1951年には生物誌研究会を組織して、マナスル登山隊をはじめ、カラコラム・ヒンズークシュ学術探検隊など、多数の遠征隊をおくりだした。これらの組織はすべて海外へ登山隊や学術探検隊をおくりだすために今西がつくりだした装置である。しかも、かれは組織を創設しても、けっしてその長になろうとはしなかった。
・・・ いずれの場合も創設者は今西であることにかわりはなく、実質的な運営と戦略指導は、つねに今西の手ににぎられていたのである。・・・ 」 
  ~旅の最後の地アメリカでも、研究者の間では期せずしてアフリカの類人猿に眼が向いていた。自分たちの研究費不足をなんとか補うためか、アメリカのアフリカ調査隊に日本の研究者をねじ込むことが出来ないか画策を試みている。上手くは行かなかったが、組織の立ち上げにはセクショナリズム意識は毛頭ない。 
こののち、日本の霊長類研究は大きく動く。

― パイオニーア精神 ―   
「今西は終生をパイオニアリズムでとおしたひとであった。登山においても、探検においても、学問研究においても、かれはつねにパイオンーアであった。
他人によってふみならされた道をゆくことをきらい、つねに前人未到の領域にいどんだ。けっして奇をてらうでもなく、これみよがしのスタンドプレーもなかった。なにごとについても、そのやりかたはきわめて慎重で正統的なのである。
それでいて、結果が前人未到のパイオニーア・ワークになっている。今西はそういうひとだった。その判断は、たいていの場合、よくよくかんがえぬかれたすえのことである。そして、周囲のものはその判断のただしさにおどろかされるのである。・・・」 
  ~この「第1次アフリカ類人猿学術調査隊」の旅でも、先生はパイオニーアを十分に意識していることが、記されている。

― 自由なる市民 ―   
「今西は自由人であった。なにごとかにしばられることをもっともきらった。自分のやりたいことを、自分のやりかたでやりとげるのである。自分の自由が束縛されるような道を慎重にさけていたのである。 
・・・ 今西はしばしば、自分でも野人と称していた。それは万年講師ということの表明であったかもしれないが、かれのひとつのポーズであったであろう。それと、登山家、探検家というイメージとかさなりあって、しらないひとは、かれを粗野で無骨なひとという印象をもっているかもしれない。
しかし、今西は田夫野人のたぐいではまったくなかった。かれは京都というもっとも都市的な都市のなかで人間形成をおこなった、まったくの都会人である。虚飾や見栄にはしることなく、率直な人がらではあったが、きわめて礼儀ただしく、市民感覚にあふれていた。同僚の大学教授などには、市民たちに対して横柄な口のききかたしかできないひとがいたのを、わたしはしっているが、今西はそういうことがまったくなかった。
かれはうまれながらの自由なる近代的市民だったのである。・・・」
  ~とあります。 このノートを読んで一つの今西先生のイメージを訂正させられたのは、人とのお付き合いであった。 後年のイメージでは、人嫌いのむつかしがりやの印象が強かったように、おもえてたのだが。 
しかし、この旅での人との接し方は多くの人と、食べ、飲み、話し、もうそこらのオッサンと一緒でだ。 もちろん目的のための情報収集も一理あったのだろうが、何だかいつも楽しい。 
いろいろの人と言ったが、子供たち、おじさん、おばさん、いぬ、へんな人、町の人、役人、商社マン、友人、知人、新聞記者、研究者、研究機関の人、動物園の人、まだまだ、本当に多種多様の人達です。 よくこれだけの人と会っていて疲れないものかと感心する。 それとノートだが、もちろん人の眼を意識して書かれたものではないだろうが。 しかし、会われた方々の書き込みには、見事に敬語で語られている。 
旅の中でも、たしかにきわめて礼儀正しく、市民感覚にあふれているのでした。

― お銚子一本 ―  
「今西は味覚にうるさいひとであった。ただし、うまいもののうわさをきくと、とおくにまでたべにゆくというタイプの、いわゆるグルメではない。
このみがはっきりしていて、味わいわけがきびしいのである。いわゆる美食家というよりは、味のわかるひとなのである。
今西は、いわゆる「通」ではない。通といわれる人たちは、しばしば、「どこそこの店のなにがうまい」などということをしきりに口にするが、今西はそういうことがまったくなかった。それでいて、料理に対する批評はきわめてきびしいのである。有名店の評判などにまどわされる、ということのまったくないひとであった。
 ・・・ 今西についてかたるときには、酒を話題にしないわけにはゆかない。
かれは青年時代から酒豪であった。わたしたちは、しばしば今西亭で酒を飲み、放歌高吟し、そして議論をした。酒宴はしばしば深夜にまでおよんだ。
探検行においても、今西から酒がきえることはなかった。行動中も、かならずどこかに酒をもっていた。 モンゴルの張家口では宿舎のベランダに籐椅子とテーブルをならべて、やすもののバイカルをのんだ。そして議論をした。酒には議論がつきものなのである。これが毎夜毎夜つづいた。
アフリカのキャンプにおいても、毎晩が酒と議論の連続であった。
・・・晩年の今西は、老人性緑内障でほとんど目がみえなかった。それでも、かれは酒をやめなかった。主治医がみかねて、酒をひかえるようにいった。「どれくらいならのんでもよいか」と今西がたずねると、主治医は「晩酌にお調子一本ならうよいだろう」といった。そのつぎに主治医がいってみると、今西は優に三合ははいるお銚子で一杯やっていた。主治医がおどろいて「これはひどい」というと、今西は「お銚子一本ならええと、ゆうたやないか」とこたえた。うまい食事と酒は、今西の一生をつらぬく主調音であった。かれはエピキュリアンとしての人生をつらにきとおしたのである。」 
  ~この旅でもよく食べ、よく飲み、酩酊する。 そして、またよく食べ、よく飲む、今西先生56歳である。
今西先生の食と酒については語りつくせないないのではないか。 これは先生との間で感じたことですが、先生の食についての基本的な考えに、簡単に食事をするということは、いけない考えだったのではないか。 これは何も食べ物に贅を尽くすという食でなく、たとえば昼食時でも 「かんたんに、ラーメンでも・・・」 は、いけないようだ。 食べ物のラーメンが、だめなのではなく、かんたんに食事をするという考え方が、いけない。 人間、食べるときはなん時でも真剣に食わねばいけない、といわれたことがありました。 

梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり -今西錦司追悼」のなかの11項目のうち、この旅のノートの中で思い当たる部分を書き出してみました。




以下次回へ




   

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