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2011年7月

2011/07/18

AFRICA 1958 (39)

今回は、「AFRICA 1958」には直接関わりのあるものではないが、ちょっと寄り道をしてみた。 
淡水魚保護協会刊の淡水魚保護92終刊号のなかに -追悼今西錦司「今西錦司・その光と影」土倉九三 (後に「追悼 土倉九三」に収録)がある。 今西先生と土倉さんとのお付き合いは、文中によると1940年からおよそ39年間のお付き合いになるが、1979年交わりを絶ったとある。 
表題が「今西錦司・その光と影」なかなか気になる題名だが、そう驚く事は別にないが、 追悼として書かれた文章の、真意はいかがだったのか知る由はない。 
ただ土倉さんの思い描いている今西錦司から離れはじめてゆく、今西先生に対し一抹の寂しさはあっただろうか。 両者の山に対する姿勢の違いも明確になってゆく。 「令名高くなってきたころにも、今西さんは名利に恬淡な人であると勝手に思い込んでいた。・・・文化勲章受章祝賀会には首から勲章をぶら下げて現れたと聞く、沐猴にして冠する感じである」・・・と書かれている。
土倉さんにとっては、むかし土倉さんとの会話のなかでときに話題になった工芸のこと、河井寛次郎のように文化勲章を辞退した方が、今西先生らしかったのだろうか。 

魚の釣でも、今西先生は「探検が山登りの外面的延長であるならば、魚釣りはわたくしの内面的深化である。 もともと山登りからはいった釣である」 とか「なぜ、カゲロウと縁を切ることが出来ても、渓流とは縁を切ることが出来なかったのか。 それははっきり、わけがわかっていたのである。 渓流というけれども、それはもともと私にとっては、日本の山というのにもひとしい。 氷河と、そのうえにつっ立ったむきだしの岩壁が、アルプスやヒマラヤを象徴するものなら、樹林と、その間を流れる渓流は、日本の山を象徴するからである。 私は山が好きだったから、山とはなれたくないために、カゲロウという渓流にすむ昆虫を、研究の題材にえらんだ。カゲロウの研究をやめたからといって、急に山がきらいになれるであろうか。」とか 「山登りと魚釣りとは、そう簡単には両立しないことがわかった。山登りに時間をとられて、魚釣りを割愛しなければならないこともあるし、魚釣りに執念しすぎて、山登りの方が時間切れになることもある。 だから近ごろでは、こんどの山行は魚釣り、つぎは登山というように、はじめから狙いを定めて、出かけるようにしている。」とある。 土倉さんにとっては魚釣りは、魚釣りだったのである。 

土倉さんが、一方的に交わりを絶った2年後の、1500山達成の祝賀会に、今西先生からこの度は、これまでにお世話になった方々を自分がご招待をしたい。 ついては次の方々に発起人におなりいただき、ご招待すべき方々をご推薦いただきたい、という希望が祝賀会事務局へ寄せられたと言う。 その発起人の中に土倉九三の名前はあったのだが、追悼文を読むと今西先生1500登山は「昭和初年、大倉喜八郎が南アルプスへ駕籠に乗ってとざんしたのを連想させられる。」・・・とあった。 絶交話の噂も、何回も聞いたような気がするので、またなのかと思っていたが本当のようであった。

「川喜田と三好の両君と比良の蓬莱からスキーで降りて来た。 荒木峠から敦賀街道へ出て、少し花折峠の方へ登ると道端の小屋に陰気な男が二人、スキーをはずしていた。 それが始めて見た今西さんと森下さんだった。 川喜田君はすでに今西さんを知っていた。 二言三言言葉を交わすうちに今西さんが「三好をそのうち家に連れてこい」というのを耳にした。 私はその時、彼の眼中にはまったくなかったようである。」
「1942年北部大興安嶺遠征に参加することになった。 なぜ学問に関係のない私が行くことになったかと言うと、その後の今西学派になる連中だけでは、人手が足りず、人足になら役にたつだろうと今西さんが判断したからに違いない。 興安嶺に遅い春が来て、一斉に飛び出した昆虫のなかで、鮮やかな緑色の蝶を採取した。 私は新種に違いないと思ったが、彼は聞えよがしに「土倉なんかの採ったもの信用出来るか」と言ったのを50年後の今でもしっかり覚えている。」
「1991年秋、私は今西さんを病院に見舞った。(今西先生は1992年6月亡くなられた。「絶交以来意識ある彼とは言葉を交わしていない。」とあるから面と向かったのは、絶交以来13年ぶりたったのだろうか・・・) 付添いの長男夫人が「土倉さんがきやはりましたよ」と声をかけると、「死によった」と聞こえる言葉をはいた。」 
追悼文を読んでいて、文中のこの3点には、なんだか悲しいような寂しいような思いをした。 土倉さんも1996年6月に亡くなられた、すでに15年がたつ。

という、追悼今西錦司「今西錦司・その光と影」なのである。 しかし、この中にも、AFRICA 1958 の旅のなかの凄さ偉さを裏付けられる事項があるのだ。
「敗戦後の秋、京都にいた川喜田君と支那からみんなが帰って来たら、たちまち食うに困るから、どこか開拓しようと言うことになり、亀岡在にいる、中学の先輩がいて、桑原武夫と同期で、今西さんの3年後輩で東大法学部出の少年鑑別所の所長をされている大変ユニークな人が居られた。 私たちが桑原さんの後輩でと自己紹介すると「おまえら、何しに来た。そんなもん知るか」 とけんんもほろろであった。そこで、今西さんが支那から帰ってくるので相談にのっていただきたく、と言ったところ、態度がすっかり変わり「今西さんの事やったら話きいたる」 と言うことになった。 この計画は実行することなく終ったが、今西さんは中学のころから人には良い印象を与えている事を知った。」・・・とある。 
AFRICA の旅でも今西先生は、どこからとなく人をみつけてくる。

「私が付き合っていた頃の今西さんは、まったく自分のためだけの計画を立て、それに従って念入りに情報を集め、地図を睨んで道程を決め、時間を予定した。 泊る必要があれば、その場所を決定し、同行者の顔ぶれを決めてこまめに連絡を取ると言う面倒な手順を必ず踏んだ。 それは彼のエゴだと分かっていても、啓発されることも多く、私にとって魅力的であった事は間違いない。 いわばゲリラ戦を共に闘っている感じがしたともいえる。 現地にのぞんで、はじめて行動の判断が誤っているとわかったとき、彼は躊躇することなく、元の場所に引き返してやりなおした。 人の能力をチェックして、その範囲内ではまったくまかせてしまうことを今西さんは良くしたが、誰にでも出来る事ではない。」・・・とある。この方法論は山と旅の差はあるが、AFRICA1958 では、まったく見事にその通りである。 フィールドのノートの一冊の第1ページにはかならずそのコースの日程表が書きこまれており、13冊のどのノートにも1週間から2週間のスパンで予定表が書き込まれている。 そしてこれが狂うことはない。 何回も練られた日程なのだ。 
そして訪問先へは、英文で仔細に手紙を送くっている。
この頃、まだ魚釣りに興じていた先生は、旅のなかでも何度も魚釣に時間を取っていた。

これで寄り道は終った。 次回は最終章だ。





以下次回へ


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