« 2011年7月 | トップページ | 2013年8月 »

2011年9月

2011/09/21

AFRICA 1958 (40)

ずいぶん昔のことになるだろうか。 1975年5月下旬、今西先生が八ヶ岳の主峰赤岳(2899.2m)に登られることになった。 
美濃戸で同行する、黒百合ヒュッテの米川さんのトラックに乗り換え、赤岳鉱泉には午後4時前、まだまだ日の明るいうちに着いた。その日は小屋には、泊りの登山客は誰もいなかった。

部屋に入っていた先生をたずねると、何も無い小部屋の板壁に背を持たれさせ、胡坐をかいた膝の上には、厚さのある原稿用紙が広げられ、手には鉛筆が握られていた。 
好天の暖かさが部屋の中に残っており、窓からの明かりも十分であった。  先生はやや自嘲気味な口調で、明るいうちに少し仕事をさせて欲しいと断わられ、原稿の手直しをはじめられた。 
山の中にまで仕事を持ちこまれたのを見たのは、自分の経験では後にも先にもこの時だけであった。 
そのガランとした部屋は、膝の上の原稿に眼を通し、ときおり鉛筆の走る小さな音だけがする、静かな空間に占められていった。

さて、やはり締めくくりは、この 「AFRICA 1958」 の旅をご一緒に歩かれた、伊谷純一郎氏に登場願うほかはないだろう。
「今西錦司全集 第7巻」1975年講談社刊、の解題を1974年10月に書かれている。 第7巻はサルからゴリラへである。 
伊谷さんはこの解題を、最初に先生と旅をされたアフリカから数えて、16年の時を経て書かれている。 
 導入は 「 隠寮にもどると、今西さんは、海に面した座敷で、書物を読んでいた。『すぐそこで鳴いていたね。』と今西さんは、本から目を離さずに言った。・・・」、ではじまっている。 
これは伊谷さんご自身の著書、「高崎山のさる」の一節を持ってこられているが、ここにも動の今西先生の対局、静の今西先生がいる。 
解題の主題は学問に関してである。 その中に、今西先生の勘の良さを評している個所がある。
 「・・・今西さんの勘の良さは定評があるが、それは直感的な、あるいは、一瞬の閃きといった勘の良さではない。そういった勘は、鈍いと言っては失礼だが、とりわけ鋭い人だとは私は思わない。いや、自らの判断をそういった勘にゆだねるひとではない。むしろ日ごろからつねに自省に自省を重ねた理論をもっておられて、その理論に反射させた読みが、恐ろしく深く早く適確なのだと私は思う。ついでに言うならば、こうときめたそのあとの手まわしがまたすこぶる迅速である。・・・」
今西先生を理解する一つの鍵のように思える。  晩年の先生の直感という言葉は、独り歩きをはじめて、認識の浅い人には、誤解されて解釈されていたように思えたのだが。

そして、この解題の最後に16年前の 「AFRICA 1958」 の旅が語られている。 それをここに再現してみよう。
 「・・・さて、この長い解題を終わるにあたり、一つ加えておきたいことがある。 この七月に、私はヴェンナーグレン財団主催の『大型類人猿の行動』というシンポジアムに参加するために、ウイーンのブルクワルテンスタインに行った。 そこで私は、同じくこのシンポジアムに参加したなつかしい人たちに会った。 メンゾー、ゲベンボート、メースンの三人だった。 ある日の夕食に、たまたま私を加えて四人が同じテーブルを囲んだ。 みんな口々にドクター今西はどうしているかと私に訪ねた。 みんなにこにこしてまるで同窓会のようだった。 そして十六年前のことを話し合った。
今西さんと私が最初のアフリカのあと、一ヵ月ばかりヨーロッパとアメリカを旅行した時のことだ。 欧米の研究者に会い、研究機関と動物園を視察し、同時に十年に及ぶニホンザルの研究の成果を海外の研究者に紹介することが目的だった。 この旅行でも、今西さんはまさに驚くべき周到さで、霊長類の研究をやっている研究者や人類学者を調べあげ、私たちはこの人たちを歴訪したのだ。 シェルツ、ヘディガー、クンマー、チャンス、フォード、ウィリアムス、クラックホーン、ミード、カーペンター、ウォッシュバーン、ドゥボー、フリッシュ(北原隆)、シャラー、クーリッジ、ハーロー、もう一人のメースン、スピューラー、サ-リンズ、タッペンといった人々に会った。 メンゾーとダベンポートはそのときヤーキス研究所に、メースンはウィスコンシンの霊長類研究所にいた。 この三人も、そしてクンマーや、ドゥボーや、シャラーも、いまではみんな年をとり、欧米の代表的な霊長類の研究者になっているのだが、あの当時はまだ大学を出たばかりの青年だった。 この歴訪が、日本の、いや世界の霊長類学のその後の進展に果たした役割は非常に大きかったと言わなければならないだろう。
しかし、本当に苦しい旅だった。 スケジュールがつんでいて苦しいだけではなかった。 私はロンドンで、もう今西さんと別れて、一人で帰ってやろうかと思ったことさえあった。 上機嫌で、大いに酩酊した今西さんは、当時ロンドンに駐在しておられた小川さんと肩を組んで、紳士の町ロンドンのところあろうにピカデリー・サーカスを『紅燃ゆる』を大声で歌いながら歩きだしたのだ。 私は今西さんの片腕をかかえて、行きかう人にぶつからないようにするのがせい一杯だった。 ロンドンのおまわりが三度私に近づいてきて、いとも丁重に、『メイ・アイ・ヘルプ・ユー・サー』とたずねた。ヘルプされれば留置所にちがいない。 いっそおまわりにまかせようかと思ったが、それでも必死で『ノー・サンキュー』と返事をした。 おまわりの世話にはならずにすんだが、そのあともさんざん手をやき、私はとうとうロンドンの真ん中で今西さんをほっておいて一人で宿に帰った。 翌朝、今西さんはきょろっとして曰く『夕べはおうじょうしたで。 帰る道がわからへんね。 上を指さしてな、ネルソン、ネルソンて聞きながらやっとたどりついた。』ホテルは、トラファルガル・スクエアのネルソンの像のそばにあったのだ。」

長い引用になったが、こう記されている。 人格的容量の大きな先生との旅は、さぞかしだったとは思われるが、先生は先生なりに、なんとか若き伊谷さんをアフリカのリーダーに育て上げてゆこうとしているところがノートにはある。
十六年後の 「AFRICA 1958」 は伊谷さんにとって、鮮やかに印象に残っている。

ここまできて、今西先生の偉さ・凄さとは何だったんだろうか。 
「AFRICA 1958」 のノートから読みとれたものは、パイオニア的仕事をしたから、もちろん偉くそして凄い。 しかし、それは先生にとっては尋常なことで、あったのではなかろうか。 
そうではなく、その目的達成のために繰り出される、大技小技の手だての数である。 人の懐柔・資金の調達、やり繰り・資料の収集・ 清濁 併せ呑む・アフリカでの仕事の将来への道筋・必要とあればセクト主義はなし・一日に無駄にする時間がない・人には決して労を惜しまず会う・目的のためにだけ人に会うばかりでなく、それを例えれば、オバチャンやらオジチャンも我が胸中に取り込んでゆく、先生の魅力は溢れている。 静から動に変わった時の、先生の行動する範囲は際限はない。
先生を評して、どこにでもいる面白いオッチャンだ、という庶民派的な先生をあらわすいい方を聞く。 今西先生の偉さ・凄さは、偉いことをしたのだから偉く、凄いことをしたから凄い、そのことに関する説明は簡単にできる。 しかし例えれば、ひとつはこのどこにでもいるオッチャンになりきれるのも、人格許容の大きさの成せるさまではないだろうか。 そのようなこと一つにでも、偉さ・凄さの源泉になっている気がする。 平凡である一市民のオチャンになれれば、オチャンでなくては理解できない世界が、また一つ自分のものになる。 目的のための手段は、全方向に対応しなくてはならないのだからだ。 
そして 「AFRICA 1958」 この頃、先生にはまだヨロイ、カブトの類のガワはなかったのだ。 この旅では、そのガワの必要なことも十分に思い知らされた旅だった。
先生の許容量の大きい人格がいかにして形成されたのだろうかは、この旅ではわからない。 だがそれをみんな遺伝子につっこまれて説明されたのでは、先生にしてみれば苦笑いだろう。
四人の方々が、すでに先生の偉さ、凄さを丁寧に語ってしまわれておられる。 「AFRICA 1958」 の旅で読みとれた偉さ、凄さは、こんなところで終わらせていただこうと思うのだ。






http://gakujisha.com






« 2011年7月 | トップページ | 2013年8月 »