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2013年9月

2013/09/29

今西先生の山 (2)


 1918年中学4年16歳の夏、山岳部長金井千仭先生に日本アルプスへ連れて行ってもらった。燕・大天井・常念・常念・槍・前穂高と縦走するが、「先生も生徒もバラバラに登り、一緒になるのは弁当を食べるときぐらいだった。最近だと遭難でもしたら責任問題とばかり、まるで団体登山のようにして登るのがはやっているが、金井先生の全く放任された形の登山んを経験したことが山への魅力を倍加されたのかもしれない。」と語っている。
 そして、この頃の校長「森外三郎先生も偉かった。のちの三高の校長になられたが、何も言っても要領を得ぬ答えをする人だったけれども、教育上では徹底した自由主義者だった。」ともある。この一中時代に今西先生は、すでに自由の精神に感化されてゆく。 

 日本アルプス登山で皆ですわって休んでいる記念写真を見ると、登山支度は頭には麦わら帽子とそのようなもの、白いシャツに脚絆と草鞋のいで立ちである。金井先生が撮った写真だろうか。
 この当時の登山装備はどんなものだっただろう。ここに面白い記述がある。
 まず一つは、1915年(大正4)7月、金井千仭が京都一中の生徒と御嶽・上河内・槍ヶ岳登山をしたときの行程時間と服装だ。
 松本7:00ー(20キロを4時間)ー島々11:00休憩ー(途中道を見失なうものあり手間取る)ー徳本峠19:00ー上河内温泉旅館22:30
 夏の制服・ゲートル脚絆式・草鞋・木茣蓙・檜の菅笠(木曽で買う)・軍事教練用背嚢・金剛杖・外套か毛布とある。
 もう一つは、1910年(明43年)7月、当時松本の岡茂雄が兄と焼岳登山の資料である。
 松本3:30ー(5里強を3時間半で郵便局)ー島々7:00休憩ー(兄が島々であんパンを十数個買い集める)ー徳本峠13:00頃ー上河内清水屋15:30(島々を出てから一人の人にもあわなかった。)
 網シャツ(そのころはやった)・詰襟の白服・脚絆・草鞋・麦藁帽子・着茣蓙・ズックの雑嚢・金剛杖、食料はそのときは準備なし ・・・という時代である。
 
 前記の金井千仭の1915年夏の御嶽・槍登山引率の参加生徒の中に加納一郎がいる。その加納が 「終生の山心を植え付けられた」 とある。そして西堀栄三郎もNHK放送での「我が師を語る」で金井先生を語っているようだ。このように金井先生に対しての評価はみな高い。
 金井千仭は1879年長野県東筑摩群笹賀村(現松本市笹賀)に生まれ、1907年京都一中に赴任1946年退職まで40年にわたり奉職、70歳で亡くなっている。本年亡くなられた金井務氏(1929~2013)、株式会社日立製作所相談役(元代表取締役取締役会長)は、金井千仭先生のご子息。

 今西先生の私の履歴書にはこんなエピソードが語られている。「卒業してから二、三十年後の同級会で、点数をつけてくれた先生の採点をこんどはこっちがやってみようじゃないか、ということになったが、金井先生は特に点が高く、誰もが同じように見ていたことがよくわかった。」
 その金井千仭は、 『我等の田園生活』① の中でこうもいっている。
 「・・・純真な自然の恵を亨くること少なき都会の青年が、海浜・山岳・高原などの生活 ーそれは極めて短い間でもー をすることは誠に意義あることであるが、之れに加へて勤労の生活や団体の生活を共に行ふことが出来たならば、更にその意義を深からしむるものである。学校では嘗て夏期休暇中の登山の際に、その一部の生徒として農村生活の実際に觸れ、質実剛健なる農民の感化に浴せしめ様との計画をたてたことがあったが、今日までその機運に至らなかったのである。偶と今年は時と場所と人とを得て実行することが出来たのは実に愉快な堪へない次第である。
 京都を西に距ること十三里、古生層の山高からざるも夏の雲は山をめぐり朝の霧は谷を埋むる丹波高原の一角、それは実に理想的な生活郷である・・・。」こういうことも実践していた人である。

 さきほどの一中時代、夏の日本アルプス登山を終わった秋、今西先生は西堀栄三郎他7名の同級生で 「青葉会」 というグループを結成 「山城三十山」を選び設定した。京都北山が始めて登山対象となったのである。
 「・・・土日を利用して盛んに登った。山城の国にある山の高さの順に三十山選んだもので、そもそも京都の北山には特に目立った山がないから、三角点を見つけることによって頂上に達した証拠としたのである。それに北山というところはひと山越えるとまたそこに同じような山がある。すると『あの山の向こうはどんなところがあるのかな』とさらに足を運びたくなる。単に高いところへ登るだけでなくて、そこには探検への関心をそそるなにものかがあった。山登りにはつねに頂上という一つのゴールがあり、そこに到着することに一種の魅力がある。登りつめても自然を征服したというような気持ちではなく、苦しさを乗り越えて目的をはたしたという喜びが先にたつ。その時私は「バンザイ」を三唱することが中学時代からの癖になっている。・・・」 といっている。
 その青葉会は同人雑誌 「青葉」 を3号まで刊行している。1号では、目次のページは説苑につづき記事・研究・文芸と分けられ、挿画なども素敵なもので、ガリ版刷りではあるが中学生同人誌とは思われない密度の濃い冊子だ。

 この一中時代今西先生は1917年母を、1919年に祖父を亡くしている。少年期から青年期への多感な時期を迎えている時である。
 今西先生の生家は京都西陣の 「錦屋」 という屋号の織元。このころの西陣の織元というのは、多かれ少なかれ一つ屋根の下の大勢の人たちが一緒に暮らしていた社会だっだ。「錦屋」も先生が生まれた当時、親族、店の者、手伝いの女子衆、まかない方と三十人ぐらいの大家族だったそうだ。
 「そんななかで、母は台所をいっさい取り仕切っていた。年の暮れの正月仕度は25日ごろから、いつもは工場のようになっている場所を片づけむしろひき餅つきが始まる。30人分の餅づくりは大変だ、畳2枚分もある延し板に粉をまき、その板を囲んでもちをまるめ、そのまるめたもちをむしろの上にならべた。また家族、奉公人も正月と盆には着物、帯、下駄をすっかり新調してもらうのだが、そのさい配は母のしごとだった。年期が来て家に帰る女子衆には嫁入る道具をひとそろえ持たせた。母も単なるマイホーム的な母親とは違い、大家族の中での、少し大げさにいうなら女王的な立場を占める人だった母親がなくなり、一つ光が消えたようになった。」今西少年15歳の時である。

 そしてその2年後に、先生におおきな影響を与えた屋台骨の祖父がなくなって、この大家族の組織がぐらついてきた。
 「この祖父今西平兵衛という人は一代で身代を築く苦労人でもあったが、西陣織物製造業組合初代頭取やら、ヨーロッパへ視察にゆき先進国の織物機や織物を学び、明治期の西陣の有力なリーダーであったという。剛毅で闊達な人柄であったが、「一寸の虫にも五分の魂」といって動植物にも目をやる心豊かな人格の人であった。引退をしても祖父今西平兵衛は親旦那とよばれ、父は祖父健在の間は何歳になろうと若旦那だった。いそがしい父にかわり祖父との接触の機会が多かった先生は祖父と一緒に食事をすることがおおかった。食道楽でもあった祖父は食通になるには3代かかるといっていた。父は祖父に代わり実質的な店の指揮をとる若旦那の時期が長かったが、若いころには志願兵として日露戦争にも参加している。」とある。

 「その大家族組織の崩壊それがひいては父に商売をやめたいと思わせることにもなるのだがそういう一つの変転期の中で暮らしておれば私もなんらかの影響を受けづにはおられなかったであろう。その衝撃を乗り越えてゆくために私の場合は猛烈に山登りを始め、それにエネルギーを集中するようになったのかもしれない。」と当時をふりかえっている。
 「大家族の中では、一つ屋根の下のもとに住む家族や奉公人までも含めてその中における自分の社会的地位というものが早くから確立されてゆく、それも非常にはやいときから決まるものである。」と先生は論じているが、これがすべてではなくても後年の今西パーソナリティーの形成のおおきな要因であることに違いない。
 昆虫好きの少年が山に見参し、母、祖父とのわかれを一中時代の出来事として、第三高等学校入学へと時は移る。この時、今西先生の通算登頂数は愛宕山いらい52座を数える。


① 京都府立京都一中学校田園生活団1928年1月発行』 「田園生活に對して」
 




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