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2013年10月

2013/10/13

今西先生の山 (3)


 前回、明治の末から大正の初期の登山支度にふれたが、この当時の日本の登山事情は何日もかけて尾根を縦走することなどは、登山ルート・食料・露営用具・身支度、細かいことをいえば専用の防寒具・懐中電灯すらまだなかった時代である。このような条件下だから、もっぱら登山は7月半ばから8月半ばごろまでに行われていた。
 ちなみに今西グループの日本アルプス燕・大天井・常念岳・槍ヶ岳・前穂高岳縦走は1918年(大7年)7月に行われている。また、大島亮吉(1899ー1928)の槇有恒リーダーの燕・槍ヶ岳縦走も1917年(大6年)7月だった。

 当時をふりかえって今西先生は「… 私はもちろん、前近代的登山時代に登山をはじめたものである。しかしそのころでも、山登りにはなにほどかの仕きたりがあった。まず足には平素はかないわらじをはき、すねには脚絆をまいた。弁当は梅干しのはいった三角の大きなにぎりめしで、それが焼いてあったことをおぼえている。間食は氷砂糖で、噛まずに最後までなめていろ、と教えられた。家を出るまえには、頭の上えで火打石をカチカチと打った火で、身体を浄めてもらった。私の登山はそうした土着文化の中から、生まれてきたのである。
 そのころ私は、夏休みに山岳部の計画で日本アルプスにゆく以外は、もっぱら京都の北山を歩いていた。北山のいちばん奥まったところにある桟敷ヶ岳などは、高さは1000メートルに満たないけれども、往復には12時間かかるというのが問題だった。バスのまだないころであり、山登りはまず歩くということであった。あるとき私は、芦生峠を越えて丹波路にはいり、魚谷峠をこえてかえってくる、という山歩きをやった。この日も朝早く出てかえりは暗くなったが、このひとつもいただきを踏まない山歩きがいまでも忘れられないのは、そこになにかその後にはじまる私の探検と、結びつくものがあるかのように思われるからであろう。…」と語っている。

 今西先生の三高時代の登山数は61座、1924年(大13年)度の三高山岳部員の山に費やした日数は今西が82日、四手井80、西堀77、高橋60、桑原・佐島34、とある。

 三高入学(1921年大10年)の7月、同志の西堀・河邨そして人夫5名を雇い、新調のテントで山梨の現早川町西山温泉から農鳥ー間ノ岳ー北岳―仙丈ー赤河原、長野の現伊那市戸台へとおりる。小島鳥水のルートを走破したものであった。この年9月、槇有恒がアイガー東山稜登頂する。

 あけて1922年3月九州旅行を行う。なぜ九州旅行なのかは「九州はかつて中学の修学旅行で鹿児島から門司まで汽車で走ったことがある。今度はその行にもれた、長崎をみて別府まで横断しようという計画をたてた。記録がとってないのでただこの旅行中に登った三つの山の思い出を書くに止める。」
 この頃すでに、後年地図の美学といわれる、地図に書き込まれる赤い線を意識したような行動が見られているようだ。

 これは余談であるが、この旅の同行者の中に佐島敬愛の名が見られる。三高時代の山によく同行している。1923年(大正12年)第三高等学校岳水会山岳部創立の中心メンバーのなかにも佐島敬愛の名が見られるが、三高卒業でこの名前は今西先生の山のまわりりからはなくなる。満州航空、そして大戦前の時、昭和通商(昭和14年頃)という会社のなかに佐島敬愛の顔が、またあらわれてくるのである。

 1922年の山では、やはり8月の日本アルプス、薬師岳・赤牛岳・黒岳・立山の縦走と12月の妙高関温泉のスキーだろう。
 そこに入る前にこれも大事だ、一中時代にくわだてられた山城三十山をこの年の10月に全登をはたしている。

 「日本アルプスまではじめて出かけたとき、それらの山にはすでにあまりにも多くの登山家が登っていた。京都の山は低かったけれどもそこには仲間以外にいわゆる登山家なるものは見たくても見いだされなかったのだ。私は新たに登山家なるもののなかに数えられ、登山を目的とする山に登るようになったが、やがて登山道を通って幾組かのパーティーと前後して頂上を踏むだけでは満足できなくなった。私はどうしても人の通らぬところ、だれも行ったことがないところへ行こうと願った。金作沢を下って黒部を横断し、あるいは御前沢を登ったりしたのはそのためである。」①

 さて、この日本アルプスは同行西堀栄三郎。案内は佐伯平蔵、人夫として宮本金作、宇治音二郎、志鷹仙次郎と芦峅寺を筆頭に和田村衆でかためられた一行だ。
 第一日目の8月4日、富山地方鉄道立山線横江駅出発、水須上野儀兵衛方泊まり。
 第二日目 5日、林の中を迷ったが、幸い有峰大野勝次郎方につくことができた。。
 第三日目 6日、太郎兵衛平野営地。「麗らかな高原の朝、薬師と上ノ岳を仰ぐ。アカネが数十となく群れて、翅を金色に輝かしている。
 この平和郷にもすでに文明の毒手は入り込んで、有峰が唯一の資源である太古の森は、県の所有に帰してしまった。人々は自然から追われて山を下りて行った。いまは稗畑も耕す人もなきまま荒れ果てて、日本アルプスに育まれた、唯一の伝説の国は滅亡に瀕しているのであった。
 カンジャのジマの一家も富山の暑さを避けに来ているとはいえ、住み馴れた山や家 ―そこは彼等の先祖たちが生活を楽しみ、いまも静かに眠っている― を慕って帰ってきたのであろう。
 我々はなつかしき高原を振りかえり、振りかえり、白樺の間を登って行った。喬木闊葉樹林、針葉樹帯を越して、峠に登って、波濤のごとく起伏する飛騨のやまを見た。真川はいい川だ。その成因は知らぬが、たいへん高いところを流れて行く。…」と書きとめている。
 第四日目 7日、薬師岳頂上、カールを降る、黒部川、谷の露営地。「… 赤牛の地形を十分に呑み込んで、さて大カール(頂上のすぐ北)を下る。頂上からは何も見えないが、雪渓の上端まで下りると黒部川が見える。人夫はカンジキをいなかったため、とうとう仙次郎が転んだ。平蔵が止めようとしてこれも危うく転びかける。仙次郎は十五間ばかりすべって幸いN氏のアイスアックスですくわれた。雪渓はだんだん広さを増して、黒部から約五、六町のところでおよそ一町もあったろう。クレパスの見事なのが三つできていた。奥廊下の冷たい水をシャツ一枚になって三度わたった。深いところは胸まであった。こんなときには長次郎じこみの金作が一人で働いてくれた。ヘツリに時間がかかるので小さな谷に入って野営した。」、とある。
 第五日目 8日、赤牛岳北西の尾根、赤牛岳頂上、尾根の野営地。「前途の問題について議論があったが結局谷を登りつめることにする。この谷はすぐ尽きてしまったので南の方へヤブを分けて新たな谷に出て、これを登って(この間に昼食)赤牛頂上から西北に出ている尾根に取りついた。岩ブスマが非常にたくさんできていた。またここからは我々が昨日下った雪渓が手に取るように見えた。右にカール状の地形を見て頂上に至る。今日のうちにはとうてい黒岳までは行けそうにないので、尾根を三分の一ばかり来て東沢側に天幕をはった。」 
 第六日目 9日、黒岳(水晶岳)頂上、黒岳カールより東沢に下る、中小屋沢出会い、黒部川本流、露営。「… カールを下り、東沢の源流に合す。人夫等はイワナを5匹釣って待っていた。4時頃夕立に遭う。だんだん水量がふえて徒渉がが危険になってくる。本流に出たときはもう薄暗かった。」
 第七日目 10日、平の小屋、御前沢落合、露営。
「本流の徒渉は股までしかなく案外楽にすんだ。これから御前沢の落合まで左岸ばかりを伝う。平の小屋で昼、ここで七(音二郎通称)と別れ、七は翌日一の越から室堂へ行って食料を準備し、あれわれと三田平で会うことになった。じつにこのときにおけるわれわれの食料は余すところ一日分に足らず、副食物は全部尽きていたのであった。中の谷から御山沢までの間、あるいはカラミ、あるいはヘツリ、一方に黒部中流の飽かぬ眺めを賞しながら他方ではかなり谷歩きの苦しみを味わった。御山沢の落合に長次郎をつれた田中喜左衛門氏らしき野営跡があった(後で聞くと果たしてそうであった)。
… 御前沢はあまり急な小さい落口なので先頭の者が通り過ぎかけたくらいである。あてにしていた岩魚が一匹しか釣れぬので皆お菜に困ってしまう。その夜は石の上に並んで寝た。月はもの凄く黒部の谷を照らした。」
 第八日目 11日、雪渓の一端に達す、サルマタ、立山、雄山神社、三田平。「我々は昨日一日を黒部本流に費やしたとはいえ、その神髄たる下廊下の壮観に至っては、御前沢より下流にしてはじめて現われるのであるから、実に堂に入って仏を見ざるの感がある。味噌はすでに尽きているので塩汁をお菜にして朝食を終る。谷で二晩露営しているし、毎日強行が続くので一行の顔にはようやく疲労の色が現れている。…左岸を伝う。ほとんど滝の連続である。人夫も荷が軽いのでよく頑張る。雄山の大カールを踏んで五の越しより頂上(3006m)、その後雲とざす中を別山に縦走し、三田平に至れば七はすでにあり、互いの健在を喜ぶ。」
 第九日目 12日、三田平より室堂に退却。「夜に入り猛雨沛然として来り、天幕浸水眠る能わず。N氏下痢、人夫もいささか倦怠の兆しあり、剣を放棄し室堂へ退却することに決し、小降りになるを見計らい別山沢をくだる。」
 第十日目 13日、室堂、芦峅寺、横江。「雨後晴れ。昨夜は有名な室堂万年蚤に苦しめられてほとんど眠れず。阿弥陀ヶ原から大日平へ越す新道をとった。藤橋で昼食した。芦峅平蔵の家で人夫にわかれ、音二郎は天幕を持って横江駅まで送って来た。汽車の窓からは薬師も劔も毛勝も皆よく見えた。」
 ・・・、とこの日本アルプス山行では山稜ばかりでなく、渓谷へと視点を移している。この山行は日本山岳会「山岳」第17年2号1924年(第13)2月刊に『薬師岳の新登路』として投稿された。
 なお、今西たちが下りたカールには、当時名前はついていなかった。… 初下降から5年後の1927年(昭2)金作が狭心症でたおれ55歳で亡くなると、その名がつけられ、「金作谷」と呼ばれるようになった。① とある。

 今西先生に、ヒマラヤ登山で日本3000m、アルプス4000m論があった。この登山でもおおよその登りは水須→薬師岳まで登り2500m、薬師カール下黒部川→赤牛岳・黒岳までの登り1400m、御前沢落合→雄山・大汝山までの登り1800m、三田平→雷鳥沢乗越300mと簡単な数字遊びでも登りの積算は6000m近くなる。ネパールのポかラが2000mはあるようだから8000mの山は実質6000mなのだ。まあ酸素濃度・雪氷技術・気象条件等もろもろを考えないと、数字とは面白いものだ。

 さて、そのつぎは12月の妙高高原関温泉のスキーだ。
1919年「一中同級生に藤江永次というのがいて、彼は早くから関でスキーを始めていた。やがて西堀栄三郎もスキーをはじめ、私もすすめられたが、スキーは軽薄だといって応じなかった。」② スキーで同宿の慶応・明治の登山部に近代登山の波を受ける。
 「そのうち新聞で大島亮吉が、スキーで白馬岳へ登ろうと企てたという記事を読んで、翻然と悟り、三高のへ入ってから(大11年)私も関の合宿に加わった。関の宿は朝日屋で、ここに慶応も明治も合宿していたが、われわれはとくに明治の連中と親しくなり、彼らからの耳学問で近代登山とはどんなものかを知るとともに、さっそくわれわれもピッケル・アイゼン・ザイル等を買い求めたり、山やスキーの本を丸善に注文したりし始めた。」③

 今西先生にいわしめると、「こうしてわらじ・脚絆の前近代的登山者が、あっという間にスキーをあやつる積雪期登山者に、あるいはトリコニー鋲の登山靴をはいたロッククライマーに、早変わりしたのだ。」


①今西錦司全集第1巻 1974年 講談社 「山岳省察・初登山に寄す」
②ナカニシヤ出版「初登山」―今西錦司初期山岳著作集、編者斎藤清明
③日本山岳会「山岳」第70年(通巻129号)1976年12月刊 ―私における登山の変遷―今西錦司  
 




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