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2013年11月

2013/11/30

今西先生の山 (5)


 山登りは大学三年間と卒業後の一年間ぐらいがいちばん脂の乗り切った時期だったといってよいだろう、と言っている。
 「俄然アルピニズムとかいうものが台頭した。雪の山、岩の山、初登山は若きアルピニストの合言葉となった。私はためらった。しかし変遷せねばならなくなった。草鞋はトリコニーをうった重々しい靴に、スキー、クランポン。仲間は再び集まった。こんどは結束して、それが新装した山岳部で。KEIO、WASEDA、それらにさきんじて初登山へ、私の山に再び人間的な影が濃くなっていた。ヤングのマウンテンクラフト、ニーベルのクレッテルン、一生懸命だ。技術に自信ができてやっとかちえた仲間の最初のスキー初登山が北岳、間ノ岳、仙丈岳。初登攀がその夏の剣源治郎尾根、そのときのクライムの印象をちょっと書こう。
 なにしろそのころの馬力だけはすばらしいものであった。立山川から入って別山乗越に月の沈むのを見て、剣沢の小屋へ着いたのが午前二時、まだ梅雨が抜け切らぬ七月の初めで、小屋の中はおおかた雪がはいっていた。最初のうちは偵察を兼ねて、平蔵から源治郎第二峰の、頂上寄りのコルに登ってそれから頂上に達し、雨のあがったある日、こんどは源治郎二峰を極めて再び頂上に登った。ケルンを積んだこともアプザイレンをしたことも覚えているが、なんだかこの日の初登攀の感激というものよりも、久恋いの剣の頂上を踏んだ前日のほうが喜びは大きかった。それにまだ私の登ってみない、八ッ峰の乱坑歯がいかにも手ごはそうに見えて仕方がない。八ッ峰ならきっと、もっとむつかしいのにちがいない。だから源治郎なんかだれも登らないのだと、初登攀をむしろ卑下しているくらいだ。しかしその翌日登ってみれば八ッ峰もなんの苦もなくスラスラと登れてしまう。どうしたのだろう、あんなに物々しく書いてあるのにというような気がする。ザイルなんかとうとう使わずだ。・・・」①
 
 この剣源治郎尾根の初登攀が、大学学部選考の大要因となった。理学部か農学部かでだいぶ迷ったが、この初登頂に標準を定め1回生の夏休みに実習のない農学部を選んだのだ。同行は渡辺漸、人夫佐伯政吉、1925年7月3日から7月17日。
 
 7月27日より8月11日は赤石山脈、赤石岳。聖から光岳をへて遠山川へ下る予定が連日の雨にたたられ聖は退却。 

 10月12日から18日、穂高行。穂高畳岩初登攀、下又白谷から奥又白谷遡行、四手井のパーティーと合し徳本を越え松本へ下る。この穂高行は入山のこの日12日午後3時ごろ焼岳の噴火があり降灰に見舞われる。
 
 そして、この他の近隣では鴨川水源ワンダリング(5月)、比良打見谷行、比良ワンダリング、鴨川水源ワンダリング(10月)と脚下の地域考察にもあいかあらず視点をずらしていない。
 この年2月の父平三郎の他界を吹っ切るような山行が重ねられた。
 12月25日より翌年1月6日まで、関温泉の三高山岳部スキー講習会に指導者として参加している。その時の参加者。第一班桑原武夫、ほか2名。第二班今西錦司、ほか5名。第3班西堀栄三郎 ほか7名。第4班 渡辺漸 ほか9名。第5班 四手井綱彦 ほか9名。②とある。

 1926年(大15 昭元年)24歳、2回生のこの年は波乱にとんだ年になる。1月、スキー合宿から帰って数日後の9日、滋賀県湖北の横山岳1131.7mにスキー登山にでかけている。同行は酒戸、奥、相良。
 翌日、午後2時15分頂上。「オリジナルプランにおくれる15分、峠からラッセルが一順済んだのみであった。」とある。
 「55分別れのエーホーを残して下り行く。オーダーを酒戸、相良、奥、今西となし・・・4時半タルミに帰った。そこで蜜柑を食った。雪はすでにクラスとなりクリスチャニヤを拒んだ。雪崩の危険は過ぎたと思った。コエチ谷右岸のスロープには、行きしなに無かった雪崩の跡が二つ認められた。それに並んで三つのシュルンドがあった。割れているね。誰かが言った。しかし今日は八時の汽車で帰京する予定だ。誰しもこれから新しいルートをとってブッシュに悩まされたいとは思わなかったろう。がタイムとのレースはできる限り避けたい。遅くなればもう一晩村でとめてもらうつもりなのだ。が、峠に下りよう。・・・峠5時、休まず下りる。しばらく下りた。雪はクラストになっていない。朝出たスノーボールは凍結していない。我々はここでトラップに落ちたのだ。それが気がついていたら遭難する奴がどこにあろう。よしスキーをつけよう。ジックザックは一つのシュルンドに自分を導いた。積雪量は二尺くらい。シュルンドの底には萱がまだ青いままで一面にオールバックの頭のように谷向いていた。これがこの谷の雪崩をおこすのだなと思った。
 登りのコースを失わぬようにペースメーカーは下った。相良のビンヂィングが少し弛くてトップととかく離れやすかった。奥はよく相良をカバーしていた。ついに右岸最初の谷を越えて一番奥の山田まで帰った。日はようやく暗い。斜滑降。突然音もなく足を払った奴がある。・・・」③ 
 こんなところで、と思うところで雪崩に遭遇した。トップは雪崩を知らずに進む、セカンドは止まっていたので雪崩の端で谷側に倒れ首まで埋まる、サードは滑降中谷側へ倒れ埋没、ラストは右手杖が埋まる体・スキーは埋没はまぬがれる。
 セカンドの奥の救出要請のため村へ、非常招集がかけられ現場へ、村の人たちの献身的な努力にも関わらずしだいに寒さが増す、午後9時半ついに帽子の紐から発掘される。雪崩は表面から少なくとも六尺は埋没していた。全員無事だった。
 この雪崩について、本人(今西)の報告を見てみよう。
 「・・・この尾根が、だんだん低くなってもうコチエ谷に尽きるというあたり、谷から尾根まで約七十㍍くらいになったところである。尾根から約十㍍くらいも下りたところに萱の生えた部分がある。谷の底は二枚の山田になっている。我々はちょうどこの田から十㍍くらい上を通っていた。雪崩はこの萱の生えたところと我々のルートとの間に起こって下の田までずり落ちた。で全体で約六十㍍ほどずったことになる。・・・またこれくらいの雪崩が出た跡なら今までからそうたいしたものと思わずにパスしていたが、実際出喰わして見るとこれでも六尺くらい下へは楽に埋めてしまうのだから雪崩はおそろしい。」④
 そして雪崩の起因についても記述されている。12日には西堀、細野両氏が雪崩現場を視察している。今西自身も夏にはもう一度いって、詳しく原因を訪ねるつもりだといっている。
 「横山岳は、昨年二月渡辺が杉野村へ来てその地形をしらべておいたので、今年は断然登頂を目的として向かった。第一に千㍍級の山であるからといって軽く見過ぎていた。したがって積雪期登山に対する周到なる研究ができていなかった。低い山にはまたその低さに伴う危険がある。どんな山でもその山に独特の危険がある。・・・」⑤
 24歳の血気盛んな時の、不幸遭難に対してやるせない口惜しさが見え隠れする。しかし、その雪崩遭難に対しての要因対処も半端ではなかった。

 その3月、1月に雪崩に遭った今西、奥、酒戸ら3人を含めた、西堀、渡辺、細野、多田の三高・京大パティーが黒部川支流奥の東沢にベースを置き、ベースの廻りにある黒岳・赤牛・烏帽子にスキー初登攀を行なった。素晴らしい力量だ。
 5月北山の水源ワンダリング、6月立山の毛勝山。そして7月の前穂北尾根、奥又から初とレースの北尾根へ。4、5より涸沢への下りでクレバスに落ち込み遭難。同行一名死亡、今西重傷。三高・京大パーティー初の犠牲者がでる。
 10月北山白倉峠。


①今西錦司全集 第一巻 1974 講談社 「山岳省察」
―初登山に寄す 1932筆
②③④⑤初登山 1994 ナカニシヤ出版 「初登山」 斎藤清明(編) 




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2013/11/05

今西先生の山 (4)


 先生の著書「私の自然観」① の目次のなかにー比良山ーという一文がある。かいつまんでみると「スキーを教えてやるという友人がいて、どこに行くのだと聞くと、比良だという。そこは京都から見える山のなかでは、いちばん高く、サクラの咲く時期になっても、高いところには残雪が光っていた。」「その朝、いつものとおり、ワラジをはいて、友だちに会うと、「ワラジかッ」といって、にがい顔をしていたが、二人は京都から歩いて、峠を二つこえ比良の西面にたどりついた。40年も前のこと、バスなどない。谷間に数十メートルの残雪があり、スキーを下向きにそろえて、ワラジのままでその上に飛びのると、スキーは滑った。転ぶとスキーはブッシュの中へ。それを拾ってはかつぎあげ、同じ動作をくりかえした。・・・」と、その当時をふりかえっている。そして、「ここがぼくのスキー発祥の地で、ワラジスキーはあとにもさきにもこれっきりだが、ここへはその後も何度も滑りに行って、いつの間にか、われわれ仲間の秘密練習場とよばれるようになった。ここは決してスキー場ではなかったのである。」と、スキーことはじめが記されている。

 この比良山の一文は、1957年筆となっていてそのなかで40年前といっているから、1920年前後頃の時代を言っているのだろうか。1919年、すでにスキーを始めていた同級生藤江永次が、この年西堀を誘って関温泉へスキーに行っている。比良山の友だちは藤江永次、彼だったかもしれない。

 1922年12月、「今西錦司全集 別巻」② では妙高関温泉で初めてのスキーをするとある。これははじめての本格的なスキー合宿という意味意味合いなのかもしれない。これが12月。
 年が明けた1923年3月23日には、すでにスキー登山として、西堀栄三郎と燕温泉の東南位置にある前山(1934m)に登り、おなじ3月の25日には、リーダー米沢氏それに西堀栄三郎の三人で関温泉の北位置、燕温泉の裏の神奈山(1909m)にスキー登山をしている。上部ではアイゼン、ピッケルをつかっている。天気が悪く火打への尾根のチェックはできなかったともいっている。
 スキーという道具を使い、積雪期登山の道がいっきにひろがった。

 この年4月、第三高等学校岳水会山岳部を二年生中心に、それまでの三高山岳部にかわるものを創った。
 そのエピソードを「私の履歴書」でこう語っている。「ラクビー部でも野球部でも放課後にはみな練習しているのに、山岳部だけなにもしないのはけしからん。だいたい山岳部員が山へ行ってたき火もできないようでは個まるというので、学校のグラウンドの周辺に生えている松の木をのこぎりで切って裏庭に運び、毎日放課後にたき火の練習をすることにした。切ったり運んだりしているときは見張り番を立てておき、先生が来たら逃げるのである。雪がないのにスキーをつけて、平地行進の練習をしたこともある。」 近代登山の息吹を直にかんじ、遅れてはならじと、少しあせりも後おし、新たな山岳部創設になったのだろう。そして三高山岳部報告が誕生を迎えるのである。

 そんなあと大峰山系、北山とめぐり、5月にはお天気具合を待ちにまって鳥取の大山へ登っている。同行は西堀、そして父平三郎も同行している。上部では大町製のカンジキをつけたそうだ。6月の御岳では、7合目から雪が残り8合目の小屋でこんな雪を見て滑らぬのは残念だと西堀の作った2尺ばかりの板のスキーに興じる。7月から8月にかけては西山温泉からはいり赤石山脈の塩見・悪沢・赤石から伊那大島へ出る。同行、高橋健治・佐島敬愛、案内、中村宗平、他人夫5名。

 1924年(大13)22歳を迎える。
1月は関温泉のスキー合宿。1、2月は伊吹山へ毎週のようにスキー練習。
 3月には立山へ本格的なスキー登山。同行は西堀栄三郎、高橋健治。
 このとき、新しい弘法の小屋にとじこめられている時の模様を先生は記している。「佐伯宗作、 はじめてかれにあったのは、一九二四年の三月、立山の弘法の小屋にとじこめられているときだった。かれは八郎といっしょに、四高の連中についてきた。その前年に、学習院の岡部と剣の八ツ峰をやっていたので、かれの名前はすでに有名になっていた。
 年を聞いたら、たしか二十七とかいったので、びっくりした。見かけはすくなくとも、十ぐらい年とって見えた。寡黙である。沈勇という言葉がかれにはふさわしい。義兄弟である志鷹喜一のような、明るさはなかった。八郎や福松のような、おもしろさはなかった。・・・」③とある。
 立山下山後は関温泉のスキー合宿へ、月末までスキー。5月の御岳スキー行、6月の近在の山。
7月には鍋冠山ー蝶ヶ岳ー北穂高ー涸沢岳ー奥穂ー前穂ー霞沢岳、とよくあるく。8月には、芦生行ここも一週間はあるく。9月には高雄観月行と月見の山行、10月には山科で松茸狩り。あるくばかりでなく遊び心も同伴。近在の山、鈴鹿等。
 10月後半から11月前半にかけ、甲斐駒山行。晩秋の高い山には雪が降るころ。三高山岳部精鋭隊である。いま地図とつけあわせて読んでも面白い。中央線穴山で下車、アサヨ岳・駒ヶ岳に登り、帰りも中央線日野春で乗車、帰京。
 この山行の報告の中に当時の先生のリーダー論がかいま見られる。
 「・・・自分はリーダーであったが、コースについては多くは友達の意見に従った。自分は別に近道を得とも思わないし、困難を苦痛とも思わない。ただリーダーはどんな場合でもかならず自己の所信をもっていなければならないと思う。が所信といってもそれは結局自分の山に対する考えに根拠をおいているものに相違ないゆえ、かくのごとき所信がある危機に際して果たして自分のパーティにまで貢献するものかどうかは自分にはわからない。ここに一人の男があって彼は汽車に乗る時、必ず一番後の客車に乗ることに決めていたとする。たとえ混雑しようとも他の者が感ずるような不愉快さや、彼自身が他の客車に乗って同じような混雑にあった時の不愉快さを彼はかんじない。人は彼の転機の利かぬこと、彼の無知なことを笑う。が彼は全く平然としている。いまにすくだろうといったような涼しい顔をしている。自分はこんな男はどこかえらいのだろうと思う。そして事は同じではないが、リーダーを承って行かねばならぬような男には、どこかこれに似た平然さを必要としなければならぬ時があるのではなかろうかと思う。・・・」④
 言い得ている。先生の後年のリーダー論にかんする根底には、これがあるのだろう。
 
 年も暮れになると関山温泉でのスキー合宿だ、年を越して1925年(大14)のスキー。1月も伊吹山・比良でのスキー練習、丹波の山へも詣でている。
 一昨年5月に大山登山に同行した父平三郎が2月他界する。先生は若くして、つぎつぎと柱を失った。家督相続をする。

 3月17日から29日、火打・黒姫スキー登山。リーダー高橋健治とある。今西先生は16日に杉野沢へ入っている。そして登頂後の23日用事でさきに帰っている。
 もう一つの資料には、前年の甲斐駒山行で見つけた北沢の新しい小屋ベースで、3月積雪期北岳を西堀リーダでおこなうが、今西先生は父が2月亡くなったために参加できなかったとある。
 この日程が3月17日、北沢小屋、19日仙丈、21日両俣小屋、田中氏(喜左衛門)くだる、22日間岳・北岳、24日北沢小屋、26日桑原・多田くだる、渡辺入山、28日単身仙丈、31日残員くだる、④とあるのだが、父が亡くなったために参加できなくなった積雪期初登頂の北岳には参加できずに、おなじ日程の火打・黒姫には参加している。初登頂の積雪期の北岳にはどうして参加できなかったのだろうかの、疑問が残るのだが。それとも自分が資料を読み間違えているのか。

 誕生した「三高山岳部報告」は第1号は1923年、今西の吉野川水源北股川地図1枚がのっていたそうだ。第2号は1924年6月、今西の山岳図書紹介・グリセデング・鴨川水源略図を作るについてと地図を担当、ガリ刷りで50頁になった。第3号は1925年2月、一新して252頁もあって、謄写印刷、対外的な報告を意識して発行され始めたようだ。今西は新雪の甲斐駒ヶ岳、鈴鹿紀行の略図、感想。他著者盛りだくさんだった。編集は桑原武夫がうけもった。
 と、ここまでが三高時代だ。
3月、第三高等学校卒業。 4月、京都帝国大学農学部入学。
 


①私の自然観 1966 筑摩書房 「比良山」
②今西錦司全集 別巻 1994 講談社 23頁
③山と探検 1969 文藝春秋版 「佐伯宗作」 
④桑原武夫全集7 1969 朝日新聞社 「降雪期の白根三山」 三高山岳部報告第4号より 




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