« 2013年11月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年1月

2014/01/03

今西先生の山 (6)

 1927年(昭2)今西先生25歳、もうしばらく先生のあとをを追ってみよう。
 1月、三高山岳部報告第5号に「芦生峠附近」を載せる。その最後にこうある。「・・・始めに断っておいたように、得体知れぬ雑文になってしまった。僕の浅い知識と経験とを知って書いたのだからこうなるのは当然だが、それをあえて試みたということは一つの理りがないでもない。はじめて僕に山の存在を示してくれたこれら加茂川水源の山々、その温情のこもった教えを受けて育った僕だ。僕は荒々しい岩の山にも登るようになった。雪の山にも登るようになった。この夏図らずも遭難して、少なくとも今年中(1926年)には再び徳本峠を越えることも出来ないと知ったとき、そして身は松本の病院に横たわって回復を待った時、何が僕の心に帰って来ただろうか。ようやく立つことが出来るようになって病院の窓から望む日には、雲の晴れ間から槍の穂先を見ることもあった。それにつけても僕の心には故郷の山が恋しかった。故郷の山がこんなに慕わしいものになって僕の心に帰ってきたことはまだかつてあったことがない。また頂に立つようになるまでに、せめて一文を草してこれらの山々に感謝の意を表したいと思い立ったのである。
  ふるさとの山に向ひて
  言うことなし
  ふるさとの山はありがたきかな
そういってくれた啄木の歌に対して僕は自分の筆の拙さを恥じつつもまた励まされて筆をとったのである。」

 6月、南駒へ、同行に酒戸、山本。
その年の8月、岩登りで劔で長い日を過ごす。このとき高橋・西堀・今西のザイルで三ノ窓を初登攀している。少し引用が長くなるが、今西先生の昆虫少年時代から、学問の世界へ脱皮の時をむかえる。
 「私が加茂川のカゲロウの調査に五年をかけたとすれば、日本アルプスの渓流にすむカゲロウの調査には、おそらくその倍ちかい年数をかけたことになるであろう。もちろんこれは、年数だけのことであって、調査日数でいえば、かならずしも日本アルプスのほうに、余計かけたということには、ならないかもしれない。
 最初の調査は1927年である。その夏、私は二十日ちかい劒沢の合宿生活をすましたのち、内蔵助平から黒部川へ出て、それから黒部を源流までさかのぼり、上高地へ越した。つづいて中尾から蒲田川の左股にはいり、双六谷をくだって金木戸に抜けたのであるが、この長い沢歩きの途中で採集した水棲昆虫をもとにして、私の卒業論文「日本アルプスの二、三渓流にて採集せる水棲昆虫について」が、できあがるのである。
 いま読み返してみると、この論文はまことに幼稚なものであって、恥ずかしくて、とうていこれを発表する気にはなれない。そのころ、川村多実二教授のもとで、岩田正俊博士はトビケラの幼虫を、上野益三博士はカワゲラとカゲロウの幼虫を、そしてまた北上四郎博士はアミカの幼虫を研究しておられた。私は採集品の同定をこれらの方々にお願いしたのであるけれども、その中から種名のわかっていないものが、相当出てきた。とくに採集品のなかで個体数の圧倒的に多いカゲロウ幼虫に、この傾向がいちじるしかったから、それが私を駆って、みずからカゲロウの分類をてがけねばならなくさしたとともに、それがひいては、農学部をはなれて、私が理学部の大津臨湖実験所のお世話になる遠因ともなったのである。
 こういうわけで、日本アルプスのカゲロウ類とは、まことに古いなじみなのであるけれども、私がかれらの分布について、自信をもって論ずることができるようになるまでには、まだ何年かかかって、いくつかの手続きをへなければならなかった。・・・」①

 10月、鋸岳。同行に高橋、奥、酒戸、宮崎、案内竹澤長衛。この山行を1927年三高山岳部報告第6号に「鋸岳各ピークの名称と信州側の登呂とについて」を発表する。微にいり細にわたる報告所見である。

 1928年(昭3)3月卒業論文「日本アルプスの二、三渓流にて採集せる水棲昆虫について」を農学部に提出。
 京都大学農学部農林生物学科卒業。大学院へ(農学から理学部へうつる、これに関しては前述にいきさつがある。)


 ①日本山岳研究 1969 中央公論社 「渓流のヒラタカゲロウ」




 gakujisha.com










続きを読む "今西先生の山 (6)"

« 2013年11月 | トップページ | 2014年9月 »