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2014年9月

2014/09/14

今西先生の山 (7)

 ここで再び、1984年2月刊行ちくま第155号に登場してもらう。
『今西錦司氏に聞く 「自然学」まで ききて・寺本 英』 である。今西先生82歳、寺本英先生59歳のときである。

寺本 それで昆虫やめてすぐサルですか。
今西 ウマやった。ウマをやりに行っているときにサルに出会うんです。
寺本 ウマはどこでやらはったんですか。
今西 都井岬、宮崎県の。それから幸島とかそういうところへ年に何回か行ってるやろ。伊谷(純一郎)なんか、足なかちゅう、前だけしかないぞうりはいて山かけめぐってたで。
寺本 え? それは伊谷はんがまだ学生のころですか。
今西 ああ、学生のころや。
寺本 ははあ。そのころから静物の種の問題を、
今西 種の問題は長いことやった。おれは分類学というのは気にしてるさかいに、カゲロウの分類をやってんねん。
寺本 ああ、昆虫に熱中してはるころ。
今西 うん。分類がきらいでねえ。だけどやらないかんと。おれが命名したカゲロウが25種ぐらいあるやろ。
寺本 ほう大したもんですね
今西 それで分類やったら種とは何ぞやちゅうことが分かってきた。わしも初めのうちは、ダーウィンと同じで ――というとダーウィンの悪口になるけれどね。ダーウィンの時代というのは、種とね、種をつくってる個体の集まり、これはぼくは社会になると思うけど、種社会というもんとは区別ついてないんですよ。それでよう「進化論」やら書けたなと思うんやけどな。
寺本 そらそう思いますわ。彼ずーっと船に乗って回って見てたのは、ここにこんな奴、こんな奴がいる、ということで、個体のバラエティーだけが先に目に入ってて。
今西 個体から種ちゅうもんが概念づけられているだけで、種の実態はちょっともわかってへん。それで、厚かましいけどおれが、日本人であるわしが初めて区別をはっきりしたんや。今度またなあ「天動説の進化論」いうの書いてん。ちょっと面白い題やろ。で、種と種社会の区別がつかん間は、全部個体本位やな。それは地球だけ考えてると同じでな。だから分類というのは回り道したみたいだけど、決して損にはなってへんわな。
寺本 なるほどな。ウマは何かやらはったんですか。
今西 ウマはまだものになってへんで。(笑)ウマもサルもものになってへんな。これなんか相当熱を上げたけどね。
寺本 サルは若いものが続けてますがな。
今西 やってるからええねや。もうあれは伊谷に任すわ。
寺本 森下(正明)はんと興安嶺へ行かはったのは、あれは山が目的ですか。
今西 ああ、山が目的。探検やな、あれは。
寺本 そのあとどこやったっけ。南の・・・・・・。
今西 ポナペ島へ行ってやね。船に乗ったんや。船に乗らな行へんやろ。十二時なったら笛ふいたりしてねえ、天測ちゅうのをやるねん。船は。おれはこんな方法があるのかと思うてな。よし、それやったらやれるなと思うて、天測の技術を学生に覚えさしたです。それで毎月どこにいるかちゅう位置がわかるようになって、交信でも何でも、現在おれはここにありちゅうことがいえるようになって、非常に有効に使いました。
寺本 梅棹(忠夫)さんも一緒でしたか。
今西 ポナペ島も興安嶺も一緒やった。あいつは学生で兵隊に行かなんだ。学生は免除があったらしい。そのあとで蒙古に行きますけれどね。それは、次々と学者が招集されて、こんなことじゃ日本の学問は成り立たんと思うてな。優秀なのを連れて蒙古に逃げるんです。それはやっぱりよかったよ。連れて行った奴はみんああとで大学教授になってるさかいな、(笑)
寺本 はあ。誰です。
今西 まああんたの知ってる奴は梅棹やろ。それから中尾佐助。それからちょっと変わったんでは人文の藤枝晃ちゅう、あれも連れていってん。あいつはぎょうさん本を持って行きよった。漢文の。それでちょっとも整理しよらんとなあ。(笑)
寺本 九州へ行ってウマをやってられて、その間にサルですか。
今西 サルのボスな、「フッタテ」というやけどな。そいつが一群の中を歩いているところを見たら、全く猿人のような歩き方をしてノッソノッソと歩いているのを見てね、これはサルをやらないかんと思うた。すぐにぼくは出来できなんだから、伊谷やらに、高崎山をやれいうて高崎山の餌付けが成功したんですな。そのまえに幸島で餌付けをやった。
寺本 棲みわけ原理というのは最初どこからはじまったんですか。
今西 棲みわけはカゲロウやってたんや。伝説ではなあ、今西錦司は鴨川のカゲロウをやって、鴨川の石を全部ひっくり返しよったちゅう(笑)ことやが、とても出来んよ、それは。
寺本 分類をやってはったころですね。
今西 そやそや。それで分類がもう目的ではないのやさかい、ぼくの学位論文には棲みわけ原理がもうでてまっせ。岩波がこの前、『論文にみる日本の科学五十年』ちゅう立派な本出しよった。五十年ほどの間にどういう業績が上がっとるかというのでなあ。その中にぼくの学位論文出てまっせ。そやからやっぱり認める人は認めてる。
寺本 するともう大体サルをやらはるころには先生の自然観というものは基礎が出来てたんですな。
今西 カゲロウのときにできた。


今西先生の自然観というものはカゲロウの時にできたとおっしゃっている。このカゲロウの時代というのは、前回と重複するが1927年の夏、劔沢での20日ほどの合宿生活ののち、内蔵助平から黒部川へ、そこから黒部源流までさかのぼり、上高地へ越した。中尾から蒲田川、双六を下り金木戸に抜けた。この長い沢歩きの途中で採集した水棲昆虫をもとにして、これを卒業論文として「日本アルプスの二、三渓流にて採集せる昆虫について」1928年3月農学部へ提出する。当時はカゲロウについて資料不足から、分類も手掛ける。これが後々にものをいう。1933年にはカゲロウの「棲みわけ」を発見。1937年カゲロウ研究の総仕上として春、「信州ニ行ク興味ノ中心点ハikanonisノ分布ニカカッテイル」と木曽川、奈良井川、梓川、高瀬川、鹿島側、松川、姫川と調査を重ねる。そして、夏には北海道、南樺太へカゲロウを追う。「MAYFLIES FROM JAPANESE TORRENTS」学位論文草稿を重ね1939年12月2日博士取得(理第160号)

そこで話はそれるが、今西錦司全集全10巻1974年、各巻の配列の順番を決定するのが、如何にたいそうだったかの様子が全集巻末に語られている。「この全集は、既刊の著書を著者自身の意向にしたがって適宣配列したものであって、その意味では著者自編の著作集というにちかいものであった。」と記されている。

寺本 するともう大体サルをやらはるころには先生の自然観というものは基礎が出来てたんですな。
今西 カゲロウのときにできた。
・・・この言を見る時、全集の第9巻の「カゲロウ」「私の自然観」「自然と山と」「そこに山がある」、の配列はうなずける気がする。私の自然観以下の随筆は今西先生の自然観が前面に押し出されている。そして、その自然観はカゲロウのときに出来上がっていたという。メイフライ、カゲロウのことが平易な文章であらわされ、門外漢にもカゲロウに興味をわかせるかのような楽しさである。自然観の基礎を共に、になってくれたカゲロウに感謝の意をもって、第9巻巻頭にカゲロウの素描を持ってこられたのではないだろうか。

全集第九巻月報(一九七五年)の安江安宣「書信にみる、今西錦司語録集」因みに書信掲載は今西先生のご了解をえている、とある。
「その後御無沙汰、退職したけれど三十年にわたってつもったホコリを払うのにまだかかっている。いまふりかえって感あり。やはりカゲロウをやっていた最初の十年が研究者として一ばん充実していたときであったと。われわれの仕事はやはり自分の足で集めた資料をもとにして立論するのでなくてはだめである。」(一九七四・四・三〇)






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