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2014/11/06

今西先生の山 (8)

1928年3月大学卒業時、先生の山の数は1915年一中入学時の愛宕山遠足よりより、かぞえて164座(一千山のしおり1978.9より)になっていた。

ちなみに地域は
北海道(北海道一括) 0          
東北(野辺地・八戸・盛岡・一ノ瀬・弘前・秋田・新庄・仙台・村上・福島) 0    
越後会津(高田・新潟) 12         
関東周辺(白河・日光・宇都宮・東京・甲府・長野)  20  
東海(横須賀・静岡・豊橋・) 0
中部山岳(飯田・髙山・富山) 36
美濃北陸(岐阜・金沢) 9
京都周辺(名古屋・京都及大阪・宮津) 75
紀伊半島(伊勢・和歌山・田辺) 4
中国地方(鳥取・姫路・松江・高梁・浜田・広島・山口) 5
四国(徳島・剣山・岡山及丸亀・高知・松山・宇和島) 0
九州(大分・中津・福岡・熊本・八代・延岡・宮崎・鹿児島・開聞岳・屋久島) 3
             以上164座である。

この時代の山へのアプローチは、今の時代とはいささか違う。公共の乗りものがないところは全て自分の足がたよりなのだ。そして服装、装備に至ってもなおさらのことだったろう。

「・・・私はもちろん、前近代的登山時代に登山をはじめたものである。しかしそのころでも、山登りにはなにほどかの仕きたりがあった。まず足には平素はかないわらじをはき、すねには脚絆をまいた。弁当は梅干しのはいった三角の大きなにぎりめしで、それが焼いてあったことをおぼえている。間食は氷砂糖で、噛まずに最後までなめていろ、と教えられた。家を出る前には、頭の上で火打石をカチカチと打った火で、体を浄めてもらった。私の登山はそうした土着文化の中から、うまれてきたのである。 そのころの私は、夏休みに山岳部の計画で日本アルプスにゆく以外は、もっぱら京都の北山を歩いていた。北山のいちばん奥まったところにある桟敷ヶ岳などは、高さは1000メートルに満たないけれども、往復に十二時間かかるというのが問題だった。バスのまだないころであり、山登りはまず歩くということであった。・・・
 ・・・同級生に藤江永次というのがいて、彼は早くから関でスキーをはじめていた。やがて西堀栄三郎もスキーをはじめ、私もすすめられたが、スキーは敬白だといって応じなかった。そのうち新聞で大島亮吉がが、スキーで白馬岳へ登ろうと企てたという記事を読んで、釈然と悟り、三高へ入ってから私も関の合宿に加わった。関の宿は朝日屋で、ここに慶応も明治も合宿していたが、われわれはとくに明治の連中と親しくなり、彼らから耳学問で近代登山とはどんなものかを知るとともに、さっそくわれわれもピッケル・アイゼン・ザイル等を買い求めたり、山やスキーの本を丸善に注文したりしはじめた。 こうしてわらじ・脚絆の前近代的登山者が、あっという間にスキーをあやつる積雪期登山者に、あるいはトリコニー鋲の登山靴をはいたロッククライマーに、早変わりしたのだが、その服装もご多分にもれず、バトミントンスタイルというのか、ソフトをかぶり、チョッキをつけ、マドロスパイプをくわえることになる。もっとも私はニッカーがきらいで、それだけはいまだにはいたことがない。またソフトはゆえあって、京大三年のあいだも、角帽はかぶらずに、黒いソフトでおしとおした。・・・」①
 と自分の山を「私における登山の変遷」として後年論じている。

1928年3月大学院にすすむが、5月農学部から理学部へうつる。
1928年4月から1939年12月、学位を取るまでの間の先生の山の数を見てみよう。
北海道(北海道一括) 5
東北(野辺地・八戸・盛岡・一ノ瀬・弘前・秋田・新庄・仙台・村上・福島) 0
越後会津(高田・新潟) 4
関東周辺(白河・日光・宇都宮・東京・甲府・長野)1
東海(横須賀・静岡・豊橋・) 0
中部山岳(飯田・髙山・富山) 43
美濃北陸(岐阜・金沢) 7
京都周辺(名古屋・京都及大阪・宮津) 38
紀伊半島(伊勢・和歌山・田辺) 11
中国地方(鳥取・姫路・松江・高梁・浜田・広島・山口) 6
四国(徳島・剣山・岡山及丸亀・高知・松山・宇和島) 0
九州(大分・中津・福岡・熊本・八代・延岡・宮崎・鹿児島・開聞岳・屋久島) 1
         この間の山、116座である。

この山の数はなにを語るだろう。その間のできごとを細かくみてみたい。


①私における登山の変遷 日本山岳会刊「山岳」創 立七十周年記念号、1976年。当時日本山岳会会長を務められる。




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