« 今西先生の山 (8) | トップページ | 今西先生の山 (10) »

2014/11/30

今西先生の山 (9)

では、その前にこの1928年から1939年の間の昭和という時代はどのような世相だったのだろうか。
前年の昭和金融恐慌、南京事件、山東出兵で始まり
1928年、男子普通選挙・その選挙結果で票をのばした共産党他を治安維持法違反容疑で大量検挙・第2次山東出兵・張作霖爆殺事件・野口英世死去・オリンピックで男子初の金、女子銀。
1929年世界恐慌事件。1930年昭和恐慌。1931年柳条橋事件・満州事変。1932年満洲国建国宣言・5.15事件。1933年昭和三陸地震・滝川事件・国際連盟の脱退。1935年天皇機関説事件。1936年2.26事件・日独防共協定締結・西安事件。1937年盧溝橋事件・支那事変(日中戦争勃発)・上海事変・日独伊三国防共協定。1938年ナチスオーストリア併合・国家総動員法。1939年ノモハン事件・第二次世界大戦始まる(ドイツがポーランド侵攻により)。というように軍部急進派・右翼系官僚・政治家等を中心に維新を唱え時代は急速に展開してゆく。
どことはなしに、平成の現況に似ているところがあるように思えるのだが…。

さて、1928年大学を卒業して院に、それから学位を取る1939年までの今西先生の出来事はどうであったろう。この時代の先生の動きを追っていこう。

農学部の院から早々にして理学部にうつる。大学時代に研究の進路を開いてくれたのは本田静六の「日本森林植物帯」である。そこに植物の遷移があった。この遷移説は米国のF・E・クレメンツであった。この生物的自然のダイナミックなとらえ方を最初に教えてくれたのはこの「日本森林植物帯」であった。やがて20歳代後半はクレメンツの信奉者になるのだが、そのクレメンツの遷移説は単極相論であった。大学時代から卒業してしばらくは全く彼の説により自然を観察していた。しかし30歳代には自身の自然観察の眼から全く独自の多極相論を展開するのである。・・・と「私の履歴書」にある。

ここに先生の二男である宇治日出二郎氏の講義記録があるが、その中ではこういっている。
「― 今西錦司は1902年、京都西陣の織元である錦屋の長男として生まれました。錦司の錦は錦屋の錦をとったものだといわれています。何代もつづいた織元ですから、当然、家業を継ぐべしであったのでしょうが、小さいときから学問好きで、昆虫採集などに熱中し、将来、学者になることは、早い時期から家族うちで了解されていたようです。もっとも、家業の西陣織が斜陽になりつつあった時代背景もあったといわれています。―」①とある。

その辺を岩田久二雄は「・・・初めに会ったときには私は今西さんを登山家と思っていたが、西陣の古い屋敷にいって、その膨大な昆虫標本が、全目にわたって克明に自ら採取されているのに驚いた。それでこそ今西さんは昆虫学をとっくに卒業したのであって、今は昆虫学から出発したなどと全くおもえない。・・・」②と語っている。

また講義録に戻るが「一般に学者というものは、出来るだけ早い時期に独創的な自分の研究テーマをみつけることが大切であるとされています。それも、あまり大きなテーマではなく、自分が一生かかってちょうどこなせるようなテーマが良いとされています。ちなみに、ニュートンが万有引力の法則をみつけたの24歳のときでした。そのあと一生かかってこれを精緻化し展開したのです。アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが26歳、湯川秀樹の中間子論が27歳です。なにもこんな偉い人の例を出すこともないのですが、卑近な例では梅棹忠夫先生の文明の生態史観の発表が37歳のときで、今日に至るまで比較文明学の研究をつづけておられます。そして今西の生物の世界が39歳のときだっのです。学者としては遅いほだったでしょう。
このように自分の生涯をかける研究テーマを見つけると、学者うちでは、これで一生食いはぐれがないといいます。学者の中には、なかなか研究テーマの見つからない人も多いようです。一見、有望とみえたテーマも2~3年研究すると先が見えてしまい、また新しいテーマを探さなければならない人や、迷路にはまり込んで、何年もかけて研究を続けた結果、ついにそのテーマを放棄しなければならないひともあります。学者稼業もなかなかたいへんなんですよ。― 」とあるのだ。


①宇治日出二郎(1936ー1999)今西先生二男。当時、千里文化財団常任理事。4回今西祭講義録1996/9/21より。日出二郎さんが大変な大けがをなされて回復に向かわれていた時、真夏であったが、食べさせてあげたいと黒部の谷から岩魚を持って京都まで帰られた。先生の持つ優しさの一面であった。
②今西錦司全集、別冊「今西さんとのつきあい」岩田久二雄より。





« 今西先生の山 (8) | トップページ | 今西先生の山 (10) »