今西先生の山 (10)
そのころを、先生ご本人が語っている。
「・・・京大卒業後(注・1928/3月大卒)私は幹部候補生として入隊した。入隊したときから普通の兵隊と違って星が二つついていた。徴兵検査に合格したとき試験管からから「お前は何に志願するか」と聞かれた。私は即座に「山が好きやから山砲を志願する」といったところ「山砲は台湾にしかない」といわれ、結局桃山(京都市伏見区)の工兵隊に入隊したのである。そして近くを流れる宇治川で毎日のように鉄船を漕いだり架橋のの演習をやったりしていた。十カ月たって曹長で除隊となり、そのあとで陸軍少尉に任官した。そういう軍隊の経験があったから、私は赤紙の召集令状を気にしていたのである。・・・・・ 顧みると、私はカゲロウの研究に十年もかけたことになるのだが、しかしその間カゲロウの研究ばかりに没頭していたのではない。その間に私はいろいろな分野のいろいろの本を独学で読みあさっていたのである。それからもう一つ忘れてならないのは、大学卒業前後から私はヒマラヤ探検を計画するようになり、その方にずいぶん多くの精力をそそいできた。しかしここではもう少し研究の話を続けよう。 なにごとによらず最初は師について学ばなければならない。問題はそれからで、一生涯その師の説からぬけ出られない人もいるし、基本だけはがっちりとり込んでおいて、ある時期が来たら、それを乗り越えて自分の本来の力を発揮するという人もいる。どちらのタイプの人もいてもよいのだが、私はあとのタイプに属していた。というのは農学部時代に信奉していたクレメンツの単極説をその後ひっくり返すことになるからであって、そのきっかけは実はカゲロウの研究から出てきているのである。
下鴨の家に移った後、一九三三年に私は゛棲み分げを発見するが、このことはまた私にとっては「種社会の発見」であったといってもよい。つまり棲み分けとは、Aという種の社会とBという種の社会とが棲み分けているということにほかならないからである。しかし、この発見も゙読書百遍意自ら通ず゙のことわざ通り、何回も何回もカゲロウの採集に行っていながら気づかずにいたのに、ある日突然気が付いた。気が付いてみると、何ということか、どこでもここでもちゃんと棲み分けしているのである。
(種)とは生物社会における構成の基礎単位である。しかし種というものも、分類学者が取り扱っているかぎりでは一つずつの個体を対象として、分類学者が観念的に作り出したものだといわれても仕方あるまい。しかるに私が棲み分けで見つけたのは、同じ種に属する個体がある地域内に集中しているということだった。
このことから種とは自然においては、ある一つの空間内にその種に属する個体が集まることによって、一つの地域社会を作り出しているということができる。そのような具体的な存在をさして、私はこれを「種社会」と呼ぶことにしたのである。・・・」① と、ある。
この先の一つの到達点が1939年の学位論文であり、1941年数えで40歳の時の第一著作の「生物の世界」である。
「・・・今西さんは研究と登山と探検とを巧みにつかいわけたと考えるのは、実は本当の今西さんをつかんでいないからであって、実はそれらを今西さんは一つとしているのであって、そこに今西学が荒唐無稽でない理由があるだろう。・・・」と岩田久二雄が言っている。
まずはカゲロウから入ろう。1927年水棲昆虫の採集が始まって1928年の卒業論文から1939年の学位論文までを、先生はカゲロウの10年と位置づけている。大学院を農学部から理学部にうつった
遠因ともなったと言っておられる②、カゲロウの分類もてがけられてゆく。
①「そこに山がある」私の履歴書より、1973年日本経済新聞社
②今西先生の山(6)に掲載。
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