« 2014年11月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年4月

2015/04/30

今西先生の山 (11)


 今西先生のカゲロウの仕事は、何も知らない。それに近づくには本人の遺した記述、他の人がそれを論じたもの以外には知る由もないだろう。ここで先ず本人の残した記述にせまることに他ならない。

 「渓流のヒラタカゲロウ」は中央公論社1969年発行の「日本山岳研究」のなかの、書下ろしの1編である。
「 私が西陣の旧居から、現在の下鴨へ移り住んだのは、一九三二年だった。そこに、父の買っておいてくれた地所があったからでもあるが、またその頃、私はカゲロウを研究のテーマにしていたので、彼らの幼虫がその中で生活している川のちかくに住むことが、何かにつけて都合がよいということも、移転を決意させた一つの理由であった。その川というのは、京都を貫通する加茂川のことであり、こうして私は加茂川と結ばれていったのである。
 一九三三年の初夏のある日、私はいつものように加茂川へ採集に出かけた。採集したカゲロウの幼虫は、もういままでに何度もとったことのある、いわば顔なじみのものが多かったが、その日私はいままでに気づいていなかったことを発見した。私がその頃ホーム・グラウンドにしていたところは、加茂川が山間部をはなれ、これからいよいよ沖積平野に流れこもうとするところで、その頃はまだ河川の改修工事もいまほどには進んでいなかったから、そこには多少なりとも川原の発達が見られ、その川原には加茂川とともに有名なチドリがすんでいた。
 さて、そのあたりの加茂川には、その季節になると、四種類のヒラタカゲロウの幼虫が、いつ行っても間違いなく採集できた。エクディオナラス・ヨシダエ Ecdonurus yoshidae 、エベオラス・ラティフォリウムEpeorus letifololium 、エペオラス・カーバチュラス Epeorus curvatulus ,エペオラス・ウエノイ Epeorus uenoi、がこれである。そしてさきにものべたように、私はもう何度となくこれらの種類を採集していたのに、その日になってはじめて、これらの四種類が、川の中にでたらめにばらまかれているのではなく、一定の順序をもって分布していることに、気がついたのである。すなわち、川岸にちかい流れのいちばん弱いところには、ヨシダエしか棲んでいない。もうすこし流れが速くなると、ヨシダエがおらなくなって、かわりにラティフォリウムが出てくる。さらに流れがもう少し速くなると、こんどはラティフォリウムが姿を消し、それに変わってカーバチュラスが出てくる。最後の流心部の、流れのいちばん強いところで採集すると、そこからはもはやウエノイばかりしか出てこないことがわかった。意外な発見におどろき、場所をかえて採集をくりかえしてみたが、何度やても同じ結果が出てくるばかりである。
 いままでに何度も採集を積み重ねていながら、こんな明白な事実に気が付かなかったのは、迂闊といわれても仕方がない。しかし、いままでにだれもこういう現象が存在するということを、報告したものがなかったのだから、私はここに、あえて発見という字を使うのである。ところで発見というものは、山登りでたとえてみれば初登頂のようなもので、ほんとうの初登頂が一回きりのものであるように、発見もほんとうは一回きりのものなのだ。だれかが私の報告書を読んで、どこかで私の発見したと同じ現象を見いだしても、それはすでに発見ではなくて、私の発見した事実にたいする再確認であるにすぎない。
 再確認には、発見にともなうような驚きも、また喜びもないであろう。私はこの発見を契機とし、また出発点として、やがて私の「すみわけ理論」をつくりあげてゆくのだが、この理論の一応できあがった姿は、私の別著『生物社会の理論』をみてもらうことにして、本稿ではもっぱら、この発見を手がかりとして、私がさらにヒラタカゲロウ幼虫の加茂川川流域のおける分布をしらべ、その棲みわけを明らかにしてゆくとともに、この加茂川流域における分布を一つのモデルとして、日本アルプスの渓流における彼らの分布を追求し、その結果としてえた垂直分布相を、さらに水平分布相と比較検討するため、北海道や樺太の調査を試みたというところまでに、記述の内容を限定しておきたい。
 なお、こうした調査をとおしてえた、膨大なし資料が私の手元にあって、いつしか整理したうえで発表したいと思いながらも、果たさずにきた。本稿を草するにあたっても、いろいろな事情から、またこれらの資料を参照することができないのは、かえすがえすも残念である。そのために、たとえば採集地点のくわしい記述が省略されているような場合も、すくなくないと思うが、御實恕ねがって、私の以下に述べる研究が、どのような意図のもとに行われ、どのような結果をみるに至ったか、またその結果については、どのようなところにどれだけ調査未了の部分をのこしたうえでの結果であるかを、ご理解願いいただけるならば幸いである。 ・・・・」とカゲロウに関する回想の序章で始まっている。

 1927年夏、日本アルプスの渓流で始まった水棲昆虫の研究が、1933年初夏、研究の一つの手がかりに、達したところである。

 この頃のカゲロウのフィールド・ノートがある。
「採集日記  加茂川 第一冊 March 1935年」 
その第1ページから2ページにかけて。

三月九日、実ニヨイ天気ナノダ。 コノ日川村多実二教授ハ半年ノ外遊ヲ終ヘテ帰朝セラル。 神戸埠頭ニ出迎ヘタ。
帰宅スレバコップヲ伏セタ中ニカゲロウ一匹、コレEpeoru ikanoisno
ノ本年度ニ於ケル初メテノ採集ナリキ。
三月十日モヨイ天気ナリ、三月十一日モ又晴、九日午后ニハ雨ガ降リソウニ見エタガ ソノ暖気モ単ナル春ノ訪ズレヲ知ラスモノニ過ギナカッタ。十一夜春寒ムニテ ストーブヲ焚カネバ我慢デキナカッタ。
カクテ十二日ノ快晴 ― 大快晴ガ訪レタ。 本年度初メテノ採集ヲナサント午后ソウソウ家ヲ出ヅ。
         - -      - -      - -
渓流昆虫ヲヤリ初メテ以来 モウ今年ハ九年目ダ。 何トシカシ自分ノ仕事ノ覚ツカナキ事ヨ。 渓流生物研究所ノ本部ニ於ケル始祖川村教授ノ下ニ学ビテソノ高弟上野氏ト比較アルナラバ、余ノ非才ハゼイ言ヲ要セヌ然ナリ。 我ニ ファーブルヤハドソンノ如キ naturalistト シテ観察眼モナク、サリトテ laboratory ノ work ニハ辛抱デキナイ。 fild ヘ駆ラレルノハ研究ノタメノミダロウカ。
故 山ノ懐ニイダカレテ 又春日ヲ迎エ、光ト風トヲ栄養トシテ生ヲ續ケル。 ソコニナス所モナキ無名ノ naturalist デハアッテモ、楽シミハ盡キナイモノガアル。 ソコニハ何モイラヌ人ノミ味ワッテ事ノ出来る自然トノ黙約ガアル。 ソレダケデ沢山ダ、ト思ッタリシテモモ見ルガ、シカシ又考ヘ直シテ、コノ自分ヲ何等カノ形ニ表現シタクナル。 ソレハ科学論文ニ於イテ■■レルベキ性質ノモノデナイ。 ソコデ自分ハ「渓流生活者」トシテノ自分ヲ画カウト決心スル。 コノ採集記ヲツケ出ス所以ハ、今マデ記録ヲトラナカッタ自分ハココニ新シイ一ツノ目的ヲ意識シテ、ソノシリョウニマデ供セントスルモノニ外ナラナイ。
         - -      - -      - -
先ズ川原ヘ出テスグ石ヲ起コス・・・・・

採集日記の始まりである。この1935年1月は、京都帝国大学白頭山遠征隊長として朝鮮白頭山遠征で新年を迎える。今西先生33歳の時である。
この年は昨年の台風に続いて、京都の河川が6月28日~29日の豪雨にて大氾濫を起こした。その時の模様が、「採集日記 加茂川 1935ノ第四冊 June 洪水記」 P143 にある。

 「採集ノートノ執筆ガ餘ニオクレタ。 約一ヶ月ノオクレニチカイ。 コレヲ考ヘルト平気ダト云ヒ乍ラモ、矢張リ大出水ガ余ノ mental side ニマデ、可成ノ影響ヲ與ヘタモノデナイダロウカ。
人間ノ計画ナド、自然ノ計画ノ前ニカクモモロキモノデアル。 自然ヲobserve スルベキ naturalist トシテハ自然ソノモノヲ見、ソレニ征ッテ行クヨリ他ニ道ハナイ。 ケレドモ人間ハソノ生活ヲ人間ノ計画ニ征属セシメテヰル。 ダカラソコニ失望モ生ズルワケデアロウ。
マア取敢エズココニ6月ノ採集ノートヲ記シ、ソノ責ヲ果シタ上、ソノ后ニ於イテ、コノノートガ継續サレナクトモ、ソレハヤムエナイノデアル。」
         - -      - -      - -

その後、「自然ハ一寸微動シタ、・・・岩ヲ一ツ動シタテイドダ。 ソレダノニ人間ハコレ丈困リ、又泡食クッテイルノダ。 ・・・人間丈デナク、川ノ虫モ自然ノ微動デ姿ヲ消シタ。 我々ノ仕事モコレデ一旦ハ中絶デアル。」 (July,1935 於 大津記)と、p154にある。









 

2015/04/14

今西先生の山 (10)


 そのころを、先生ご本人が語っている。   
「・・・京大卒業後(注・1928/3月大卒)私は幹部候補生として入隊した。入隊したときから普通の兵隊と違って星が二つついていた。徴兵検査に合格したとき試験管からから「お前は何に志願するか」と聞かれた。私は即座に「山が好きやから山砲を志願する」といったところ「山砲は台湾にしかない」といわれ、結局桃山(京都市伏見区)の工兵隊に入隊したのである。そして近くを流れる宇治川で毎日のように鉄船を漕いだり架橋のの演習をやったりしていた。十カ月たって曹長で除隊となり、そのあとで陸軍少尉に任官した。そういう軍隊の経験があったから、私は赤紙の召集令状を気にしていたのである。・・・・・ 顧みると、私はカゲロウの研究に十年もかけたことになるのだが、しかしその間カゲロウの研究ばかりに没頭していたのではない。その間に私はいろいろな分野のいろいろの本を独学で読みあさっていたのである。それからもう一つ忘れてならないのは、大学卒業前後から私はヒマラヤ探検を計画するようになり、その方にずいぶん多くの精力をそそいできた。しかしここではもう少し研究の話を続けよう。 なにごとによらず最初は師について学ばなければならない。問題はそれからで、一生涯その師の説からぬけ出られない人もいるし、基本だけはがっちりとり込んでおいて、ある時期が来たら、それを乗り越えて自分の本来の力を発揮するという人もいる。どちらのタイプの人もいてもよいのだが、私はあとのタイプに属していた。というのは農学部時代に信奉していたクレメンツの単極説をその後ひっくり返すことになるからであって、そのきっかけは実はカゲロウの研究から出てきているのである。
 下鴨の家に移った後、一九三三年に私は゛棲み分げを発見するが、このことはまた私にとっては「種社会の発見」であったといってもよい。つまり棲み分けとは、Aという種の社会とBという種の社会とが棲み分けているということにほかならないからである。しかし、この発見も゙読書百遍意自ら通ず゙のことわざ通り、何回も何回もカゲロウの採集に行っていながら気づかずにいたのに、ある日突然気が付いた。気が付いてみると、何ということか、どこでもここでもちゃんと棲み分けしているのである。
 (種)とは生物社会における構成の基礎単位である。しかし種というものも、分類学者が取り扱っているかぎりでは一つずつの個体を対象として、分類学者が観念的に作り出したものだといわれても仕方あるまい。しかるに私が棲み分けで見つけたのは、同じ種に属する個体がある地域内に集中しているということだった。
 このことから種とは自然においては、ある一つの空間内にその種に属する個体が集まることによって、一つの地域社会を作り出しているということができる。そのような具体的な存在をさして、私はこれを「種社会」と呼ぶことにしたのである。・・・」①  と、ある。

 この先の一つの到達点が1939年の学位論文であり、1941年数えで40歳の時の第一著作の「生物の世界」である。
 「・・・今西さんは研究と登山と探検とを巧みにつかいわけたと考えるのは、実は本当の今西さんをつかんでいないからであって、実はそれらを今西さんは一つとしているのであって、そこに今西学が荒唐無稽でない理由があるだろう。・・・」と岩田久二雄が言っている。

 まずはカゲロウから入ろう。1927年水棲昆虫の採集が始まって1928年の卒業論文から1939年の学位論文までを、先生はカゲロウの10年と位置づけている。大学院を農学部から理学部にうつった
遠因ともなったと言っておられる②、カゲロウの分類もてがけられてゆく。



①「そこに山がある」私の履歴書より、1973年日本経済新聞社
②今西先生の山(6)に掲載。



gakujisha.com









 

« 2014年11月 | トップページ | 2015年6月 »