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2015/06/12

今西先生の山 (12)  

 さて、ここで水棲昆虫の話が出ると、やはり可児藤吉に登場していただくことになるだろう。
 可児藤吉は、1908年1月1日岡山県勝田郡に生まれ、1944年7月18日サイパン島で戦死している。1930年京都帝国大学農学部農林生物学科入学。卒論に「ノミの触角の比較形態学的研究。」森下正明の2年先輩。1933年卒論「賀茂川におけるブユの分布」、1937年「賀茂川の水温同時観測の記録」。1938年京都帝国大学理学部大學院に転籍、同郷の川村多実二教授の指導を受ける。「流水における動物の生活状態」。1938年「大滝川三浦平付近の動物生態学的研究」。1939年「大滝川の動物生態学的研究Ⅱ」。 1944年「渓流棲蟲の生態 -カゲロフ・トビゲラ・カハゲラその他の幼蟲に就いて-」(森下正明研究記念館、資料より)という経歴を残す。
 森下正明さんといえば、今西先生が亡くなられ今西家に戻られて、座敷に安置されていた、その光の少ない枕もとでぽつねんと座しておられた姿が印象的だった。

 ここに、森下正明 研究記念館論文収蔵室・資料室・可児藤吉の項に『・・・河川の蛇行と河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで、今西錦司とともに現在の生態学基礎となる「棲み分け理論」を築いた。・・・』、 とある。

 可児の1930年京都帝国大学農学部入学以後の動きは、ときには川村多実二教授という共通上司の下におられたのかもしれないが、結果的にそう見えるのかは別として、今西先生の跡を追うような足取りをもっていた。1934年頃には、すでにお互いの面識はできていたのではないか。岩田久二雄、可児藤吉、梅棹忠夫,川喜田二郎と同じく、今西先生の飲み仲間の、というか今西グループの一人になっていた。

 「1933年も終わりに近いある日、今西さんは昆虫研究室の大部屋にたむろしていた岩田久仁雄さん、可児藤吉さんをはじめわれわれを若者どもを集めて一つの調査計画を提案した。それは川原、可変林、くぬぎ林や、松林、常緑広葉樹林など各種植生地における動物群集の一年を通じての調査である。地域は京都近郊の西賀茂がえらばれれ、毎月一回10メートル方形区法による定量調査は1934年1月から12月まで大部屋全員の参加の下に実行された。これはわが国では今まで行われたことのなかった多人数のチーム・ワークによる群集調査であった。この計画にあたっての今西さんの頭の中には、あるいはクレメンツ流の遷移の各段階に応じた動物群集の把握といった考え方があったのかもしれない。
 しかし見落とすことができないのは、この時の今西さんの資料整理の方法であって、それはその後のこの種の調査に時として採用されるような鱗翅類幼虫とか、クモ類とかいった分類群をはじめから一括してしわけるという安易な方法をとらず、はじめから種分け作業を行ったことである。多くの幼虫を含む群衆構成員のそれぞれの種名を、正確に同定することはもちろん、かりの名をつけての仕分けでさえも容易ならぬ作業である。
 この困難の道をあえてえらんだのは、生物群集は種の重複相に他ならず、各種社会が地域的にも環境的にもどれだけの範囲にひろがっているかを知ることこそ生物社会を把握するための基本であるという、「生物群聚と生物社会」(1936年、本巻所載)の考え方が、この時すでにでき上っていたことを示すものであろう。
 そして同時に、季節的な棲みわけを代表させるにたりる指標動物
を見出すための努力のあらわれでもあったと思われる。あとの問題に関しては、方形区調査の他に、目にふれ易いチョウチョやトンボについて、調査地点間のルートに沿ってのセンサスを今西さんは同時に行っているのである。」①

 可児藤吉が1936~1937年に行った「賀茂川の水温同時観測の記録」などは、1934年今西先生の西賀茂動物群集調査に参加していた可児がとりいれたチーム・ワーク調査方法ではなかったろうか。

 ここでもう少し森下正明氏の解題を読んでゆこう。
 「私が今西さんを知ったのは、1933年私が京大農学部の2回生として昆虫を専攻することになってからである。 今西さんはこの時すでに理学部に移ってはいたが、農学部の方にも嘱託として席が残っており、昆虫研究室に時々その姿を見せていた。私たち新入りがはじめて研究室に出頭した時、今西さんは部屋にいなかったけれども、他の先輩からここが今西さんの席だと教えてもらったその机上の本棚に詰められているのは、すべて地理学と植物学の本ばかりで、昆虫研究室の名にふさわしい昆虫の本などは一冊もみあたらなかったのには、開いた口がふさがらなかったものである。
 1933年といえば今西さんがカゲロウ幼虫4種について、渓流の暖流部から急流部のかけての棲みわけ現象にはじめて気がついた年であることを、今西さんは後に書いている。しかしたまたまアリの垂直分布に手をつけかけていたその頃の私は、今西さんのカゲロウの仕事よりも、同じ年に続けざまに出された『分布の研究方法』、『ドリアス植物群』、『ケッペンの気候型と本邦森林植物帯との垂直分布に於ける関係に就いて』などの論文を、絶好の道しるべとしてむさぼり読み、それによって今西さんの書棚の本の種類をとおしてとりわけ『分布の方法』(本巻所蔵)は、区系地理学的な分布境界線問題一辺倒のわが国の動物地理学に、はじめて生態地理学としての進路を示した珠玉の作品である。それは私ばかりでなく、少なくとも区系地理学にあきたらなさを感じていたすべての分布研究者にとって、指導書ともなったことと思われる。終戦時ボルネオで消息を絶ったままになっているすぐれた地理学者の鹿野忠雄氏が、かつて私たちとの会談の折、〈私も今西さんの『分布の研究方法について』を折にふれ読み返しては、そこからいろいろと教えられています〉と語ったことを今でも私は覚えている。
 『分布の研究方法について』に示されている考えは、今西さんにとってもその後の生物社会構造論建設の土台に当たるものであった。分類と種の生態の知識に精通することによって、環境と結びついた種の分布のひろがりをとらえなければならぬというこの文中の主張を、今西さんはみずから実践することによって、『生物社会の論理』へいたる道を開拓したのである。」②

 さらに・・・、
「ここで一言述べておく必要があるのは、『棲みわけ』現象の発見は、『棲みわけ原理』の確立のための最も重要な第一歩であることは間違いないにしても、『現象』が『原理』にまで高められるためには、その間にもう一つの重要な概念によって媒介されることが必要であった。
 それは『生活形』という概念であった。 今西さんが論文の中で正式に生活形という語を用い、これを理論体系の重要な柱にしたのは、1936年に書かれた『生物群聚と生物社会』からである。ここで正式にといったのは、たとい生活形という言葉を持ち出してはいなかったにせよ、今西さんの仕事の中では、その概念の内容が、その理論建設の対して実質的の役割りを果たしつつあったからである。垂直分布帯の研究では、森林を構成する多数の植物のうち、樹木という生活形をもったものだけがえらび出され、この同じ生活形に属する種類の間の分布が比較されている。カゲロウ幼虫で今西さんが最初に気が付いた棲みわけ現象というのも、実は大礫の上に生活する同じ生活形種類の関係であった。生活形の持つ意味を意識した時、今西さんの社会構造論には一段の深みができる。それまでは種社会の積み重ねとして比較的単純にかんがえられていた全体社会の構造が、生活形を橋渡しとすることによって、より現実的な、より具体的な構造としてとらえられ、ここから新しい分析の道が拓かれたのである。『群聚分類と群聚分析』(1937年、本巻所載)はこの段階への到達を示す作品である。
 しかし『群聚分類と群聚分析』に取り上げられた対象は、生物社会とは書かれていても実際の例としては植物社会だけが挙げられている。これはいうまでもなく植物の生活形社会層が景観的にもとらえ易いということとともに、一方、動物の生活形の把握が容易でないという事情の反映でもあろう。もちろん大哺乳類や昆虫類といった大まかな生活形分析だけならば、問題はないというところだろうが、少なくとも層内の各種が棲みわけ関係で結ばれているような生活形社会層は、いったいどのような原理によって見出すことができるのか。『生活形とは形態ををとおして見た生物の生活様式』という定義の表面だけを見ていたのでは、この答は容易には出てこないであろう。
 正直なところ、この問題に対して今西さんがどれだけの苦心を払ったか私には分からない。しかしやがて今西さんは、生活様式の内容は生活の場をとおして理解すべきであるということ、そしてそれによってはじめて社会構造をなり立たせる原理となり得ることを悟るにいたある。『生活の場をとおして』という一見何の変哲もないこの一語の奥に、今西さんの生態学者としての長い自然探求の経験の中から、ようやくにじみ出ることができたエッセンスともいうべきものを、私は味わうのである。
 このように生活様式を生活の場をとして把握するということは、生活の場がちがえば生活様式もまたちがってくるべきだということの理解でもある。生活様式というひと筋縄ではとらえがたいものを、その生物の形態とその生物の場をとおして把握したとき、その生活様式がすなわち生活形である。こうして今西さんはカゲロウ幼虫の生活の場の分析をとおして生活形分析に成功し、さらに一般的な生物社会構造論、すなわち生物的自然の構造は具体的な社会単位である種のうち、いくつかの類縁的に形態的に相似た種が、相似た生活の場を棲みわけることにより、一つの生活形社会―同位社会―を構成すること、そして相似た生活形社会同士はさらに生活史のずれなどを通して同一地域に重複することによって複合同位社会を構成するといった包括的な理論をかくりつする。この理論は今西さんの学位論文としてまとめられ1938年および1941年に英文で発表され、後に『生物の世界』の『社会について』の章の骨組みとなったものである。『生物社会の論理』の前半においては、このような理論構成にいたるすじ道が、それぞれの理論段階での具体的愚弟的資料とともに述べられている。」③
 独創的な着想と研究スタイルは名人芸のよう、と言わしめた森下正明氏の今西全集第4巻の解題である。興味のある方は是非一読されることをお勧めいたします。

 なお、1937年今西先生はカゲロウの総仕上げに春は木曽(長野県木曽郡)木曽川本流から、木曽の谷をでて、松本平をへて白馬村、姫川、中土(長野県北安曇郡中土)までの河川で、再確認の調査を行っている。夏には北海道、南樺太まで踏査をおこなう。そしてこの年、今西学位論文の草稿がはじまる。

 可児藤吉は若くして戦死したために道ちは中途した。本人によって残されたものは1944年研究社「日本生物誌」第4巻に『渓流棲昆虫の生態 ― カゲロウ,トビゲラ,カワゲラ,その他の幼虫について―』がある。ここにも棲み分け現象は記述されている。可児はこの論旨の最後に次のように書いている。
 「なお、読者諸氏には今西錦司氏の著書『生物の世界』(弘文堂・昭和16年、特に『社会について』の項)をお読みになることをおすすめする。これは生物の生活について書かれた優れた理論の書である。私の記述を読まれて抱かれる不満は、この書物によって必ずにみたされる事と思う。」とある。
 この社会の項では、今西先生の棲み分けが論じられている。

 今西先生は「人間以前の社会」1951年岩波新書71として出版の
著書の序で「本書は、1949年に出した『生物社会の論理』の姉妹篇である。わたしの生物社会学は、いまのところ、この2冊の本にもられた内容が、別々なままで一つの体系をなしているものと、考えていただきたい。 ・・・・・ わたしは本書を、サイパンで戦死した一人の友人にささげる。可児藤吉 ― かれのように熱烈な批判と、誠実な助言とを惜しまなかったひとを、わたしはふたたび見いだしうるであろうか。かれなくしていまの私の学問の道はさびしい。」
             一九五一・四・一〇 京都下鴨にて 著者
 
 とある。お二人の関係はこのようだったことには他言はないのだろうと思われる。 可児藤吉がサイパン島で戦死した時、今西先生は中国の張家口に、岩田久二雄氏は中国の海南島にいたのだった。

 この項次回へつづく



①今西錦司全集 第四巻 昭和49年12月12日 第1刷発行 講談社   発行/ 解題 森下正明 より
② ①と同じ。
③ 同上。





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