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2015年8月

2015/08/28

今西先生の山 (14)


 さっそく「再販へのあとがき」①を・・・・、昆虫と山の少年が「生物社会の論理」への変遷を抜粋していってみよう。かつて岩田久二雄が「初めに会ったときには私は今西さんを登山家と思っていたが、西陣の古い屋敷にいって、その膨大な昆虫標本が、全目にわたって克明に自ら採集されているのに驚いた。」 と言わしめた。 その昆虫と山の少年が、
 「高等学校がおわって、大学にすすんだ。農学部の昆虫へ入ったのであ。るそこまではよいが、ここで転機がきた。その頃までの学界の傾向として、昆虫をやるといえば、それは分類をやることであり、それがある程度までできるようになったら、こんどはその地理的分布を論ずることである、とわたくしは思っていた。だからわたくしも、うまくゆけばウオレース線やブラキストン線のような、分布境界線を発見したい、と思っていたかもしれない。」 
このことが、 
 「しかるに大学にはいって、わたしははじめて生態学なる新興の学問があることを、知るようになった。そして、生態学こそわたくしのやるべき学問だ、と考えるに至った。なんとなれば、いままで山登り、昆虫採集は昆虫採集で、なんの結びつきもなかったものが、生態学を媒介とすることにより、それが一つになる。山は単なる研究室の役目をはたすにとどまらないで、これからは山そのもの、自然そのものが、研究の対象となってくるからである。」 
 と、ここまで来た。当時は山岳学さえ意図していた。
長くはなるが先生の語る文章は、その時を彷彿とさせてくれる。
 「そのうえ、アメリカの生態学者たちの唱える遷移学説は、わたくしに新しい自然の見方を教えてくれるものであったから、わたしはわけなくその追随者となった。しかし、じっさいに仕事をしようという段になって、はたと困った。アメリカの自然と日本の自然とは、あまりにもちがいすぎていたのだ。日本の自然スケールが小さくて、やたらにこせこせしてるうえに、たえず人工が加わることによって、それが一層複雑化され、あるいはエラボレートされているため、大陸の悠々せまらぬ、大味な自然に当てはめてあみだされた学説を、いきなり適用しようとしてみたところで、駆けだしでは動きがとれないことを知ったのである。それで、比較的人工のすくない、水の中がよいと考え、渓流にすむ生物の生態をやることになった。渓流の生物であれば、また山とも縁がふかいであろう。
 はじめは生態学の方法にしたがって、共同体というので、ある場所に見いだされる生物を全部採集していたのである。その大部分は昆虫の幼虫であるが、採集してきて、分類の専門家に鑑定をたのんでも、当時はまだ種名の判定できぬものがすくなくなかった。なんという種類かさえわからずに、なにが共同体であろう。生態学は分類学が一応完成されたうえに、はじめて成立する学問であることを知らされた。それで、生態学をやろうときめたとき、一たんすて去った分類学ではあるけれども、もう一度自分で、分類学から出直すことにした。そして、そのためにえらんだのが、カゲロウである。」 
 こうしてカゲロウが誕生する。ここまでにいたるには湯浅八郎、本田静六、川村多実二等の影響をうける。
 「分類学に二つはないが、そのころのわたくしは、分類学が目的で分類学をやっていたのではなくて、生態学のために分類学をやっていたのだから、考えようによっては、大きな犠牲をはらい、たいへんな廻り路をしていた、というようにもとれる。しかし、分類学をくぐっておいたことが、やがてわたくしの生態学を組みたてるための、強力な指針となって生きてくるのである。それについては、あとでのべる。
 一方で、わたくしの山に対する情熱は、山岳生態学に対する第一歩として、日本アルプスの垂直分布帯を、その研究テーマにとりあげさした。その関係から、クレメンツ信者であったにもかかわらず、わたくしはメリアム一派の生物分布帯派に、仕事のうえではより近づいたともいえる。すなわち、すてたはずの分類学へもどっていったのと同じように、分類学とともにすてたはずの生物地理学へ、いつの間にか足をつっこんでいたわけである。しかしこれも、わたくしのためには、たいへん役にたった。
 このようにして、わたくしは一方では、渓流にすむカゲロウの分類をやると同時に、その分布をしらべ、他方では日本アルプスの垂直分布帯を、いかに別つべきかに専念して、一般の生態学者が試みるような、共同体の分類や記載ということを、ちっとも本気になってやらなかった。そのうちにはからずも、カゲロウ幼虫の流速のちがいに応じた棲みわけから、種の社会および同位社会というアイディアに到着した。しかし、これを従来からの、共同体を対象とした生態学と、いかに関係づけるかという点で、苦心もし勉強もした結果、生活形というものをもってきて、ようやく統一をはかることに成功したのである。」 
 ・・・ 一般の生態学者が試みるような、共同体の分類や記載ということを、ちっとも本気になってやらなかった ・・・、 こんへんのことが、『採集日記 加茂川 第一冊 March 1935年』 その2ページにかけて知ることができるのではないか。
 「生態学者の中には、わたくしが生態学といわないで、わざわざ社会学ということに対して、あきたらなく思っている人があるらしいけれども、それはここのところの理解が足らないからである。いままで生態学のすすんできた道は、まず生物的自然としての、全体的な共同体を取り上げて、そこから出発することであった。しかるにわたくしはまずその共同体を構成する、究極的な単位としての種の社会を取り上げ、そこから出発した。共同体が一方の極なら、種の社会は他方の極である。そこに従来の生態学と社会学との拠りどころのちがいがあるとともに、種の社会を媒介した、社会学と分類学との結びつきが考えられてよい。わたくしが分類学をくぐったことが、役に立ったというゆえんである。
 さて、カゲロウ幼虫の分布からヒントを得た、同位社会というアイディアは、日本アルプスの垂直分布帯の別かち方にも、ただちに適用することができた。すなわちモミ属に見られる同位社会の棲みわけによって、日本アルプスの南半の山の垂直分布帯が、明確に区割りされるようになったのである。しかし、なおここに一つの問題がのこった。それは垂直分布帯として認められるような、同位社会の棲みわけと、流速に応じて並ぶ、カゲロウ幼虫の同位社会の棲みわけとを、どう結びつけるかということであったが、それはカゲロウ幼虫ににも垂直的な同位社会の棲みわけが見られることを介して、二つにして一つなりという同位社会の二系列的構造の主張となり、それがひいては極相論にまで展開する。
 しかしそのまえに、もう一段階必要であった。私は種の社会から出発して、全体社会としての共同体に至るまでを、一応社会構造論的に説明できるようになったのちに、日本アルプスをはなれて探検にうつり、そこではじめて日本とはタイプの異なった、いろいろな自然に接する機会をえた。そして、その自然の中には、大陸的という点では、クレメンツやシェルフォードが対象とした、アメリカの自然にほうふつたるものがあったから、そこで彼らの理論を検討することができたとともに、またわたくし自身の理論をも試すことになったので、いきおい両者の優劣が比較されることになった。その結果が本稿の第Ⅲ章・第Ⅳ章の内容であって、わたくしはもはや何としても、クレメンツやシェルフォードに従いきれず、ついに彼らの学説に対して反旗をひるがえすことになったのである。
 いまかえりみると、本稿を書いた当時は、相手の立場も考えないで、あまりにも切りこみに熱中しすぎたきらいが、ないでもない。あるいは、相手の立場をたてることが、自分の立場をたてることになるのだ、ということを忘れていたともいえる。それでここに一言しておきたい。
 そもそも古典的な生物地理学や、メリアムにはじまる生物分布帯は、生物の種類相しか論じなかったのに対し、新しい生態学が共同体をとらえて、地理区や分布帯のかわりに、極相共同体を前面に押しだした点は、確かに進歩であるけれども、両者はともに、大地域的な棲みわけのみを問題にして、小地域的な棲みわけを問題にしなかったか、あるいはこれを従属的なものに見てしまった。しかしそれは、彼らのとりあげた舞台がが、世界全体であるとか、あるいは北米全体であるとかいった大地域であったため、そこにピントを合わし、それを表現しようということになると、いきおい小縮尺的な表現をとらざるをえないことになって、小地域的な棲みわけはおのずから消去されてしまうのである。すなわちこれは縮尺の問題であった。
 しかるにわたくしは、渓流といったような、もともと小地域的・部分的なものを、舞台としてとりあげたため、小地域的な棲みわけの方に、さきにぶつかってしまった。そして、そこから出発したため、大地域主義とのあいだに、くいちがいを生じた。しかし垂直分布帯をやっていたお蔭で、大地域主義の立場もとりいれ、両者を調整することによって、大地域主義も小地域主義も両立できるようにした。
 これは学問の進歩である。生物地理学、生態学 ― これはもうすこし限定して、内容に忠実であるためには、共同体学といった方が良いかもしれなぬ ― 、それから社会学と、だんだん生物的自然の構造が、こまかいところまで掘りさげられ、しかも全体の構造を見失わないだけの、また相互の関係を見失わないだけの理論で一貫されながら、大きくも小さくも、任意の部分をえらび出して研究できるということは、これはたしかに学問の進歩である。
 そして、ここまでくるためには、分類学がすでに存在していたからこそ、社会学が成立したのである。わたくし個人の経歴からいっても、すでにのべたごとく、分類学・生物地理志・共同体学と一応遍歴したうえでようやく社会学までこぎつけたのであって、それはまるまる二十年の歳月①を要している。
 7年まえに出した本稿の初版には、各省のおわりに「あとがき」をつけておいたが、それは今日から見ると、アウト・オブ・デートになってしまったので、その部分をやめ、そのかわりにしようと思って書きだしたら、以上のような半自叙伝風のものになってしまった。本文も未完成で、とくに第Ⅲ章および第Ⅳ章のおわりにちかい二~三節は意に満たないところがあるのだけれども、いまはなおさないことにした。」 

 と、ここまでが「生物社会の論理」までの前半部分であり、後半はこれからの方向で、『再販へのあとがき』は終わっている。
 なぜ水棲昆虫だったのか、からはじまり机上の学問でなく実践の学問の姿勢の変遷がよく読みとれる。 
 なお思索社版③には、発表年代順に8編の論文を載せている。これらは「論理」への駒の一つ一つであり、執筆はすべて「論理」以前のものである。
 「今西錦司全集第四巻」 生物社会の論理 1974年 講談社、
に森下正明が解題で詳しく述べられている。


この項次回へつづく。


  

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2015/08/17

今西先生の山 (13)


 かなり古いこと、私たちの仲間がシェルドンの方法に興味を持った。これはアメリカ男性を材料にしてった方法だ。日本人に適用できるか実証が必要だと今西が言いだした。7人で真っ裸になり写真をとり、シェルドンの規定する17の計測部位をはかり評定を出した。… と桑原武夫が書いている。① 
 その結果、今西先生は気質評定として内臓緊張性・身体緊張性・脳緊張性すべてが4とでた(ちなみに桑原武夫は3・2・4であった)。 市井での今西先生は、情に篤い。リーダーとしての今西先生は秋霜烈日という言葉で例えられるよう 非情なのである。
 
 その次には、「・・・今西さんの特色はその風格にある。一見カーク・ダグラスが似ているという外観ではない。大きさというか、克明にして大局をつかむ鋭さを、研究の上では勿論のこと、社会観においてはずさないというところにある。十年も昔、私は一方的におしかけた門弟を、世話し利用されつづけたあと、あまりの厚顔さに破門した。それをつたえきいた今西さんは、『なんで破門したんや、おれならせんな』と一本釘をさされた。  その後またぞろ同じ人物に足を掬われかけて、今西さんの忠告を思い出した。今西さんは確かに私より人間社会を大きい目でみている。今西さんは社会での各人の行動の責任は社会全体の連帯すべきもので、とくに私的繋がりのある場合には、そうであるべきで、破門とか追放とかいうものは何の解決にもならぬと、いうのであろう。 ・・・」②と岩田久二雄氏が書いている。
 
 今西先生の人となりが少しづつ見えてくる。  自然の中の現象は、みても気が付かずにすんでしまうこともある。 それはたぶん自然現象ばかりではないだろうが。  
 その現象を理論にまで持ちあげた今西先生の『生物社会の論理』が1949年毎日新聞社から出版された。 その後絶版になっていたのを、1958年になり陸水社から再販されたが、間もなく同社のご主人が亡くなられ、再び絶版となった。
 それを1971年思索舎版として再出帆することになった。いままでとの違いは、「生物社会の論理」だけでなく論理の構成に至る八つの論文を年代順に配列したとと思索社版へのあとがきにある。  
 陸水社版の「再販へのあとがき」を読むと今西先生の昆虫と山の少年が「生物社会の論理」へたどりつく変遷が良くわかる。


この項次回へつづく




①人間 人類学的研究 序にかえて 桑原武夫 1966 中央公論社
②今西錦司全集 第9巻1975 月報9号 今西さんとのつきあい





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