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2015年9月

2015/09/13

今西先生の山 (15)


 ここに大串龍一氏の著書がある。「日本の生態学 ―今西錦司とその周辺― 」 だ。筆者は京都大学理学部動物学科の出身である。この本は1992年9月東海大学出版会刊となっており、1992年といえば今西先生が6月に亡くなられた年である。
 この本は1992年に出版されてはいるが、1985年に「金沢大学教育解放センター紀要、今西学派の系譜・いわゆる今西学説の発展をめぐるー考察」として掲載されている。そして1987年には「今西進化論の位置づけ 今西学派の系譜3」とある。3があるのだから2もあったのだろうか。これがこの本の原型になっていると、あとがきに書かれている。1985年の紀要は、今西先生もまだまだお元気なころであったので、誰ぞがこの紀要を先生にお目にかけたかも知れない。日本の生態学 ―今西錦司とその周辺― 、これはまさに今西錦司とその周辺である。ここでは二つ三つ思たことを書いておく。

 一つは今西先生は大学卒業後理学部の動物教室でながく無給講師を務めていたことだろう。人文科学研究所教授になったのは1959年、57歳の時であった。このへんの時代を梅棹忠夫氏が書いている。
 「・・・生物学者としては、今西はながく不遇であったといわなければならないだろう。かれはずっと無給講師であった。わたしたち幾人もの青年たちがかれを師とあおいであつまっていたのだが、本来ならば、かれには公式には学生を指導する権利も義務もなかったのである。かれはこのような立場を『一私講師』と称していた。
 ・・・けっきょくかれは、動物学教室においては最後まで一私講師であった。講義もなかった。一ど短期間の講義がおこなわれただけである。
 ・・・今西は自由人であった。なにごとかにしばられることをもっともきらった。自分やりたいことを、自分のやりかたでやりとげるのである。自分の自由が束縛されるような道を慎重にさけていたのである。
 京大理学部の動物学教室で万年講師であったのも、一つにはそのせいかもしれない。教授としてのさまざまな義務と雑事にしばられることは、かれのこのむところではなかった。かれは一私講師の地位に甘んじていたというよりは、その立場をたのしんでいたところがある。
 しかし動物学教室においては、かれはたしかに不遇であった。そこでは、かれの理解者があまりにもすくなかったのである。かれは渓流性のカゲロウの幼虫で学位をえた。その論文は十数編におよぶのだが、大部分はカゲロウの幼虫の分類学的記載である。最後にでたのが、のちの『すみわけ理論』の基礎となった理論的な論文である(注略)。これこそはかれの真骨頂なのだが、これを評価する人はなく、学位審査の際には、この論文ははずされていたという。自然科学者たちはこのような理論的考察をこのまず、理解もしなかったのである。
 今西とその周辺の自然科学者とのあいだには、かなりの知的な断絶があった。些末な現象に対する職人的な関心をこえて、自然について、あるいは世界について思索をめぐらすようなひとは、まわりにはほとんどいなかった。それは今西にとって不幸なことであった。
 ・・・このように今西が京都大学教授となったのは、定年もちかづいてのことであるが、それにもかかわらず、京都内部における今西の組織者としての活動ぶりにはおどろくべきものがあった。
 1931年には京都大学学士山学会を組織している。この団体はのちに社会法人となり、多数の名登山家を世におくりだして登山界の名門となった。1939年には京都探検地理学会を組織して、多くの探検を世におくりだすと同時に、若い探検家たちの育成指導を行った。1951年には生物誌研究会を組織して、マナスル登山をはじめ、カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊など、多数の遠征隊をおくりだした。
 これらの組織はすべて海外へ登山隊や学術探検隊をおくりだすために今西がつくりだした装置である。しかも、かれは組織を創設しても、けっしてその長にはなろうとはしなかった。たとえば京都大学学士山学会は農学部の木原均教授が長く会長をつとめていた。今西がその会長となるのは、ずっとのちのことである。生物研究会はやはり農学部の並河功教授が会長であった。いずれの場合も創設者は今西であることにかわりはなく、実質的な運営と戦略指導は、つねに今西の手ににぎられていたのである。」①
 と今西錦司が書かれている。
 
 そして二つめは、今西錦司全集第八巻「日本山岳研究」の解題を吉良竜夫氏が書いておられる。そこに
 「・・・学術論文は、いかにかわいたスタイルで書かれていても、研究者のすべてがそこにつぎこまれている点では、芸術家の場合と変わりのない『作品』だと私はおもう。したがって、論文の組みたてや、さりげない客観的描写のはしばしににじみでたものが、学問的主題の伴奏としてつよい感銘をのこす。これまで私の学問的感動をそそった論文のいくつかを思いかえしてみると、この種の、科学者としての青春時代にうみだされた作品が、髙いわりあいをしめていることに気づく。そのなかでも、私にとってとくに重要であったのが、この巻におさめられた日本アルプスの雪線・森林限界・垂直分布について三部作なのである。
 今西さんの学術論文にとくに作品的性格がつよいことは、異論のないところだろう。分類学の論文は、科学論文のなかでもなかんずく無味乾燥なスタイルで書かれ、第三者にはよむにたえない機械的な記載がえねんとつづくのが原則だが、それでさえ今西さんの手にかかると、調子が変わる。『満州内蒙古並びに朝鮮の浮遊類(1940)』という分類の論文は、
 『・・・・そしてここで注意しておきたいのは、以上に述べたような Ephemera 属の幼虫相互間の識別点は、これが成虫の識別にも適用されるといふことであり、寧ろ成虫の識別点となるべき斑紋が、幼虫に於いても亦認められる結果、両者が共通の識別点を有するに至ったものといふべきであって、この点で成虫幼虫を通じて本属の分類は一元性の上に立脚してゐるものである。』
 というような調子でかかれていて、私たちの語りぐさになった、
 科学論文とは無味乾燥なるものだと思っていた若いころの私たちには、今西流の強烈な自己表現と柔軟でねばりづよい理論展開とは、ひじょうに魅力的だった。しかし固定観念のつよい大学の先生たちには、さぞかし評判のわるかったことだろう。いまの私だって、若い人たちがこういう調子で論文をかくことに、無条件でさんせいはできない。論文が提示する客観的事実とその認識のしかたとに抜群の新しさがあり、緊密な理論構成がそれにともなっているのでなければ、強い自己表現との間にバランスのとれたレベルの高い作品にはなりえないからである。私をふくめて大多数の平凡な自然科学者は、今西さんのまねはしないほうが無難なようだ。・・・」
とあるのだ。
 「生物社会の論理」の初版が売れなかったということは、こんなこともあったのだろうか。

 三つめはやはり、棲みわけ、ということになるのだろう。棲みわけ今西説、可児説である。もちろんこれは、資料によってしか知る由はないことだが。道半ばで戦死した可児本人の口からでたことではないだろう・・・。
 なぜならば、1944年の可児の「渓流棲昆虫の生態」には棲み分けという言葉は出ている。1941年今西の「生物の世界」第4章には、やはり棲みわけはすでに出ている。しかるに可児はこの4章社会についてを「渓流棲昆虫の生態」で激賞している。可児亡き後、
 大串氏の著書では実名が出ているので、「これは今西と可児の思想的背景あるいはあるいは姿勢の違いを重視する人たちによってかなり強く主張されたものである。」②
 いま少しこの辺のことは、今西先生は1933年頃は湯浅八郎、川村多実二講座をわたる。「ここで岩田久二雄、可児藤吉、森下正明、渋谷寿夫、今西を含む5人が今西グル-プを形成した。今西学説の棲みわけはこのグループの討論の中から生まれた。」という見方もある。
 ただもう一つ見のがせないことがある。岩田久二雄が書いている。
「当時(1930年頃か)の今西さんとの交友の最大の喜びは、出来たばかりの下鴨の家での会合であった。いまにして思えば新婚早々のその子夫人には何とおわびしてよいか申訳ないことであった。集まるものは殆ど湯浅八郎先生のいわゆる『ならず者』ばかりであった。可児藤吉・梅棹忠夫・川喜田二郎の諸君である。勝手に風呂に入って徳利と杯だけのった食堂につき、ゆっくりと今西式に運ばれて来る粗末な馳走で、長々と飲み、学問の話はたちまち枠をはずして地球上の話にまで拡がり、いつしか酩酊し歌になってねてしまう。夜が明けると私はまた孤独の自然観察に野山の放浪にかえる。たしかに私の青春時代で人間的な交流の最高の喜びを与えたのは今西さんであった。」③ いわゆる今西塾である。

 私の尊敬する知人が、こういうお話をしてくれた。
「・・・とはいえ、わたしにとってきわめて幸運だったのは今西先生のお宅の近くに育っ たものですから、そういうご近所のよしみで時々山に誘っていただいたことがあ りました。大学の二年生(京大は二回生といいますが)のとき、紀州の山に誘われ ました。奈良県五條市の御勢久右衛門さんが水生昆虫の研究をしているというので、今西先生が現地指導においでになったらしいのです。らしいのですというい い加減な言い方をして恐縮ですが、自分の関心の埒外のことだったので、いい加 減な聞き方しかしなかったのです。 しかし、大先生の現地指導ですから、お話はなかなか面白く、カゲロウの幼虫を ほんのすこし齧ったつもりになっていました。
・・・ わたしは大学での研究会とか、ゼミとかいう形で接したのは四手井綱英先生のと ころであったのですが、今西先生の研究会の雰囲気は梅棹さんや川喜田さんを探検部の仲間と尋ねた時に味わったと思っています。
 とくに梅棹さんは自宅で梅棹 サロンを開いていて、学部、学科は関係ない。大学も関係ない。来たい者は来い、 という集まりをしていました。
・・・ この集まりの雰囲気は知的好奇心に燃えるもののもつ独特のものがありました。 切磋琢磨がありましたが、競争というものがまるでない。みんなで共有している ものをなんとか膨らましていこう。自分が面白いと思う方向に伸ばしていこう、 という感じでした。
 おそらく、今西さんと可児さんを含む集まりも、そのような雰囲気に包まれてい たのではないかと思います。
 すみわけはどちらが見つけたのかとか、誰が早かっ たのかなどということにはまったく関心がなかったのではないかと思います。・・・ 」

 さきほどの日本の生態学のなかに、可児の評価をめぐって、という項がある。
 「・・・可児藤吉は内田よりずっと今西に接近しており、今西スクールの中では森下と並ぶ位置にある。その残した業績は、まとまったものとしては第二次大戦中に研究社によって出版された『日本動物誌』のシリーズの第4集昆虫の上巻に載せられた有名な『渓流棲昆虫の生態』だけであるが、それは彼の生態学研究者としての能力を示すものであった。それは河川の基本構造を瀬と淵の組み合わせから説明した河川環境論によっても示される。ただし可児の仕事は未完成で、その論文には大きな研究を進めているものにしばしばみられるように、意余って言葉足らずというところがった。彼が早世したためにその思考をめぐってさまざまな解釈がうまれ、亡き後にいろいろな波紋をよんだ。」 棲みわけをめぐって、
 「・・・可児説を推したグループ徳田・渋谷らは、今西の神格化に対抗して可児を神格化して独自の生態学を建てようとした面がある。この動きは戦後間もない頃の日本の社会主義的潮流の一部を代表としている。徳田らは可児が若い頃にマルクス主義に接近したことを強調して可児の学問の『ただしさ』の証明とし、可児を日本の生態学の元祖のように主張した。しかし残された論文について冷静に考えると、可児のめざした方向は、おそらく徳田や渋谷の主張するところとは違ったもののように思われる。・・・」④と、ある。
 
 今西錦司と可児藤吉については、金子之史の「ネズミの分類学」2006刊、に「1.4 今西錦司と可児藤吉―生物社会の論理vs渓流棲昆虫の生態、自然認識と縮尺論」等、詳しく述べている。⑤

 今西先生と徳田御稔の関係は、「1936年動物教室へ配置一転換になり徳田さんの研究室と一部屋於いて隣同士になった。そしてわれわれ二人は仲よく京都探検地理学会⑥の世話をしていたが、
徳田さんの部屋へゆくと紅茶がでる、ということも一つの魅力だったのかもしれない。たまたま可児藤吉君も農学部から理学部へ移ってきていたので、徳田さんの部屋で顔を合わせる機会が多かった。そんなとき、われわれはお互いにいろいろな話をした。私は徳田さんから進化論について教わることが多かった。なんといっても、進化論の研究では、徳田さんの方が先輩であったから。徳田さんはまた私や可児君の方から生態学や社会学についての知識を吸収した。もちろんお互いにさかんに論議しながらである。それは今日でいうなら、一種の共同研究のばであったかもしれない。・・・」とある。
 そして、「戦争が苛烈になって、われわれは北へ南へとちじりになり、やがて可児君はサイパンで戦死する。われわれの蜜月時代はわずかのあいだしか続かなかったのである。戦後になって、徳田さんと私は些細なことから疎遠になり、やがて私は理学部を去って人文科学研究所に籍をうつしたまま、とうとう亡くなられるまでお眼にかからずじまいであった。・・・」
 些細なこと、とは何であったのだろうか。

 戦後、徳田さんは一方的に可児擁護説やら、発表物には今西のメンションはなさらないとの、意思表示を今西さんにおこなったが、今西は受けてはいない。
 1977年、講談社学術文庫「生物進化論」徳田御稔、本書を講談社学術文庫に推薦し、あわせてながい解説文を寄稿されている。
 その解説の最後に「・・・読者よ、願わくば熟読玩味せられよ。私が本書をあえて講談社学術文庫に推薦し、あわせてその解説をもお引き受けしたゆえんはここにあるとともに、そうすることはまた、徳田さんに対してはいつかはしなければならなかった私の友情のあかしとして、お受けとめていただけるならさいわいである。」
で、ながい解説は終わっている。本書を是非一読を。

 今西先生という人は人間性の大きな方だったと思う、そしてその振幅も大きな幅をもっておられたと皆がいう。その振幅のいろいろな極にふれられた方は驚かれるであろうが、その全体をきわめると、それが今西先生の今西錦司たる所以であろうことになっとくする。。

カゲロウがながくなってしまった。たぶんそれほどに先生の中でのカゲロウは大きな時代を背負ったからだろう。
 さて、ここでまた山に戻ろう。




①梅棹忠夫(1920―2010) 中央公論8月号、「ひとつの時代のおわり」1992年。今西先生ご逝去の翌日、原稿の依頼を受け、2日間の口述筆記でしあげられた原稿という。内容は11の項目で語られている。

②徳田御稔(1906―1975)・渋谷壽夫等のグループ。マルクス主義を背景にルイセンコ説を主導した。

③岩田久仁雄「今西さんとのつきあい」今西錦司全集第9巻月報9号1975年講談社。

④大串龍一「日本の生態学―今西錦司とその周辺―」1992年、東海大学出版会、より。…この動きは戦後間もない頃の日本の社会主義的潮流の一部を代表としている。…とあるが、確かにこの動きは学問の世界ばかりでなく芸術分野でも起こっていたのでは。

⑤金子之史「ネズミの分類学 -生物地理学の視点」2006年 東京大学出版会、より。

⑥京都探検地理学会、1938年12月楽友会館で発起人会が開かれ今西は幹事に就任。会長・羽田務京大総長、呼びかけ人は今西錦司、徳田御稔と中心になり会の結成に尽力する。1939年1月第1回例会が拓かれ、1943年11月第21回が最後となる。
 この京都探検地理学会について、「交友のころ」1976年、再録
今西錦司「自然と進化」1978年 筑摩書房。
 「・・・この会の由来を、ここで簡単にのべておくことにする。1938年12月2日に、日本生物地理学会の十周年記念講演会が東京で開かれ、私もそこで『内蒙古旅行談』という話をしたが、講演会のあとでは盛大な晩餐会が催された。『たまたまこの会に京都から徳田御稔君が出ておられた。そしてわれわれ二人とも東京における学術探検熱の頗る旺盛なることを知って、これはどうしても京都にも京大を中心として、学術探検の母体になるような会を興す必要があると感じた。帰学後早速同志とはかり、諸教授の賛同を得て、12月26日に最初の打ち合わせ会を開いた。出席者17名であった。』(略)」これで徳田さんと私が、なぜ京都探検地理学会の運営に、協力しなければならなかったが、ようやくはっきりしてくる。
 この京都探検地理学会というのは、当時の京大総長羽田亨先生を会長にいただき、賛助員として文・理・農・医の4学部の有力教授(名誉教授をふくむ)21名をおねがいし、第一年度会員数59名という、まことに全学的な、専門の枠をこえたユニークな会として発足している。この原稿を書こうと思ってさがしてみたところ、年報第4輯まで見つかった。第4 の巻末の会員名簿みると、会員数は115名にたっしている。・・・」 とあるのだった。
 このへんあたりで鹿野忠雄とつながりができたのかな・・・。





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