今西先生の山 (16)
1928年3月大学院へ、5月から理学部へ。1928年4月から1938年12月学位を取るまでの山の数116座。純粋な山登りから、フィールド・ワークとしての山、ヒマラヤへの道、と力の入っていた山になってくる。
その前に、今西先生の生涯国内の山登頂数1552山、これを世間的に言う少年期、青年期、壮年期、老年期にわけ、その期の山の数をみてみようと思う。
先ず少年期、1914年(大3)3月までの事、12歳まで。この頃まだ昆虫少年だった。未知の領域への関心が深まる。
登頂数ゼロ。
青年期、1915年(大3)4月から、1928年(昭3)3月より大学卒業まで。13歳から26歳まで、いよいよ山登りが始まる。
登頂数159山
壮年期、1928年4月大学院農学部から理学部へ、から1965年3月京大定年退官まで。
登頂数251山。
老年期、1965年4月から1987年12月20日まで。
登頂数1142山を数える。
これで生涯登頂数が1552山となる。
これを「私における登山の変遷」今西錦司、(1976年日本山岳会刊山岳第70年129号)①、で解説していただこう。
今西先生は、ここで時代の社会的背景をもって、わが国の登山史の時代区分の線をひいている。
それから、私における登山の変遷、に入ってゆく。
先生は青年期時代に、前近代的登山時代の登山を始めた。でも、そのころでも山登りには、それなりの仕来りがあったようで、足には平素はかない草鞋と脚絆、弁当は梅干しの入った焼いてあった大きな三角握り飯、間食は氷砂糖、家を出る時には火打石をうった。私の登山は土着文化のなかから生まれてきたものであった、とある。
そのころは、夏休みに日本アルプスにゆく以外は、もっぱら京都北山を歩いていたそうだが、これが案外にてごわく、そとうに歩く時間のかかる山あるきだったと言う。
そして、はじめは軽薄だと応じなかったスキーも、大島亮吉がスキーで白馬岳へ、という記事を読んで釈然と悟った。三高に入り関の合宿で明治の連中と親しくなり、彼らからの耳学問で、近代登山とはどんなものなのかを知るとともに、さっそくにピッケル・アイゼン・ザイル等を買い求めたり、山やスキーの本を注文した。
こうして、草鞋・脚絆の前時代的登山者が、あっという間にスキーの世話になる積雪期登山者に、トリコニー鋲の登山靴のロッククライマーに早変わりしたのだ、そして服装もしかりだった。
壮年期はながい区分だ、これを戦前・戦後((もちろん第2次大戦)に分けてみよう。
1928年4月、大学院に。詳しくは次回から入ろうと思うのだが、
ここは「私における登山の変遷」にしたがうと、1936年の白頭山冬季遠征は、探検的要素を多分にふくんでいた。
山そのものの大きさももとよりだが、多量の荷物の梱包・発送・運搬、現地人を大勢雇ったことなどをさしている。
先にのべた時代区分だと、近代登山時代は戦争の終わりまでだが、私にとってはこの白頭山遠征が、私の近代的登山時代の終わりとなるのである。私どもは時代に先駆けて、ヒマラヤ遠征を企てたが、なかなか実現ならなかったのに業を煮やし、その翌年は蒙古に行き、それからも満洲や蒙古で、探検あるいは探検じみた仕事を追い求めることになからである。
戦後のネパール・ヒマラヤも、はじめ考えていたのは学術探検だった。しかしネパール政府のアドバイスもあって、西堀はマナスル登山に絞って帰ってきた。
私の参加した1952年というのはマナスル登路偵察が主目的であったので、わたしの気持ちにはむしろ探検的であったといえないことはない。そのあとの1955年、京大カラコラム・シンズークシ探検隊のカラコラム支隊では、これはあきらかに学術探検隊を名乗り国費の補助をもらって海外へ出た最初の隊である。登山とは、一応関係がないといえばいえるのであるが、ヒスパーパスを越え、バルトロ氷河をコンコルディアまで行ったということが、その後の登山隊に、なんら貢献をしていないともかぎらない。
マナスルやカラコラムでのびのびになってしまっていたアフリカの類人猿調査が、1958年から始まり1961年それが本格化した。ヒマラヤや大興安嶺ではもちろん足で歩いたのだが、蒙古では自動車の便がえられないので、馬車や牛車の世話になりウマやラクダに乗って旅を重ねた。そのころすでに、アンドリュースやヘディンが、大がかりな自動車隊で、内陸アジアを探検していたのである。借りものではなくて、探検のために使う自分の自動車をもちたい、というその頃からの夢が、内陸アジアでなく東アフリカにおいて、実現することになったのだ。
はじめて自分の自動車を持ち、その中にキャンプ用具一式、食料および水を積み込んで、自分の計画通りに走り、日が暮れれば泊まって、翌日もまた走りつづけることが、予期したとおり大変気に入ってしまった。その頃たまたま国内においても、自家用車ブームのはじまろうとしていたときだったから、よし帰ったらおれも、自動車の運転を習おうか、とおもったほどだったが、それは思い止まるところにした。
機械をあつかうのが至って不得意である、ということもあったであろうが、それよりも助手席にいて、しょっちゅう地図をみながら、走っている車の現在位置を確認する、という仕事を引き受ける方が良いと思ったからである。それは正しくリーダーに課せられた仕事である。
あるいは計画立案者に課せられた仕事である。予定のコースをことなく終わったとき、彼の地図上に鉛筆で引いてあった予定線が、赤いマジックで上塗られることであろう。・・・と、私における登山の変遷で解説しておられる。
先生の老年期の山登りは、まさにこの登山と探検混合スタイルのメソッドによって行われたのである。
①くわしくお読みになりたい方には、
その後、「自然と進化」今西錦司1978年筑摩書房刊に収録。
増補版「今西錦司全集」第11巻 講談社に。