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2017年6月

2017/06/29

今西先生の山 (17)  

先生のもっとも油の乗りきった登山の時代に、精鋭的な山登りのなかに、こんなことが語られている山登りがあった。
「奥美濃」①1975年に発行された本である。その序には、「・・・京都北山は、私の揺籃の山である。そしてここを卒業したものが奥美濃へゆくという。私はかならずしも、この道程を辿ったわけではないが奥美濃にはまた奥美濃のよさがあり、北山同様、愛着は経ちがたい。 というのは、いずれも登山のための人工があまり加えられていないということである。したがってもし、こういう山に登ろうとするときには、たとえ標高が低くても、眼も耳も鼻もとぎすまされたように鋭敏でなくてはならない。そうすることによって山が語りかけてくる言葉を識ることができるたのしみ―――それが北山にも奥美濃にもあるということである。・・・」とある。
そして、特別寄稿として「五〇年前の奥美濃」には、「正確にいうと四八年前の1927年のことである。・・・私たちは、能郷から能郷白山に登って、温見へ越し、温見から作六ツシ、狂小屋をとおって、塚へはいり、塚から冠山に登って、田代へ越え、板垣峠を経て栗田辺へ出ているのである。なに分にもまだ学生時代で、何日学校をさぼってもよかったから、一回の山行でもこのように広く山をわたり歩いて、ちがった流域に属する最奥の村を、つぎつぎに訪ねるといったような計画をたてることができたのである。・・・」、
7日間の山行のそのなかには、なぜこうして最奥の山村を訪ね歩くというのは、その頃、柳田民俗学に興味をおぼえはじめていたからだとか、奥美濃には、京都北山にも日本アルプスにもないよさのあることを知って、われわれは大満悦で帰路にについた、と書付があった。

しかし、この年(1927年)の前後の山、私事ではいろいろな出来事が起きた。スキーと山に明け暮れた三高時代、卒業年度の山行きが今西先生は82日でトップだったという逸話を残し1925年大学に入学。このあたりの主だった出来事を「増補版今西錦司全集別巻」の年譜から拾ってみた。
1925年2月、父平三郎他界家督相続。三高山岳部報告3号に「新雪の甲斐 駒ヶ岳」「鈴鹿略図」等寄稿。 7月、農学部進学の決め手となった、劔岳源治郎尾根の初登頂を渡辺漸とはたす。
1926年1月、滋賀横山岳スキー登山。下山中雪崩に遭遇、一人埋るが無事。3月、三高京大パーティー黒部東沢をベースにして周りの山にスキー初登攀をする。7月、前穂、奥又初登攀。涸沢への帰路、クレパスに落ちる。三高 ・京大初の犠牲者を出す。今西先生も重傷を負う。
1927年1月、三高山岳部部報5号に「芦生峠附近」寄稿。8月、劔岳三の窓チンネ北壁を高橋健二・西堀栄三郎・今西錦司で初登攀。真砂沢・三の窓で長い合宿の後、黒部川を源までつめ、黒部五郎・三俣蓮華・双六・南岳から上高地へ。そして蒲田川から笠・金木戸川にぬける。水棲昆虫を採集。10月、鋸岳登頂。これを1928年「鋸岳ピークの名称と信州側登路について」三高山岳部報告6号に寄稿。
1928年3月、農学部農林生物学科卒業。院に進む(5月農学部から理学部へ移る)。7月、後立山連峰朝日岳に、森林限界の調査。10月、劔沢で万年雪確認。11月、御大典で入洛中の秩父宮殿下に旅行部の山岳関係図書をご覧にいれる。日本で有数の蔵書だった。妙高高原笹ヶ峰に京大ヒュッテが完成。 12月、鹿子木孟郎(洋画家)の長女園子と結婚する。
1929年2月、陸軍幹部候補生として、工兵隊に入隊。11月末除隊、予備役編入。最初の学術論文「劔沢の万年雪に就いて」理学部地質学教室が編集していた「地球」に発表。

①「奥美濃」1975年2月15日発行 同人/山葵会


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